4章11話 響く心の奇跡
音の調和祭当日。テーベの街は朝から活気に満ちていた。神殿複合体の中央広場には色とりどりの旗が掲げられ、街の人々が続々と集まってきている。
「ケペトちゃん、起きてる?」
イシスの声で目を覚ましたケペトは、窓の外の賑やかさに飛び起きた。
「わあ!もうこんなに人が!」
「そうよ、音の調和祭は街の人たちが一年で一番楽しみにしているお祭りなの」
朝の準備
ハトホル神殿では、神々と昨日練習に参加した人たちが最終確認をしていた。
「おはようございます!」
ケペトが駆け込むと、みんなが振り返った。
「ケペトちゃん、おはよう!」
ハトホルが元気よく手を振る。
「今日はいよいよ本番よ!」
「緊張します…」
ミラが楽器を抱きしめながらつぶやく。
「大丈夫よ」
イシスが優しく微笑む。
「昨日あんなに素晴らしい演奏ができたじゃない」
「でも、今日は街の人がたくさん見てるんですよね?」
「そうね、毎年3000人くらいは集まるかしら」ネフティスがさらりと言う。
「さ、3000人!?」
ミラの顔が青くなった。他の人たちも急に緊張した表情になる。
「うわー、それは確かに緊張するな」
セトが苦笑いする。
「俺も昔、大勢の前で戦う時は緊張したもんだ」
「セト様でも緊張するんですか?」
アケムが意外そうに聞く。
「当たり前だろ。緊張しない奴なんていないさ。大事なのは、その緊張とどう付き合うかだ」
「どう付き合うんですか?」
「簡単さ。『失敗してもいいや』って思うんだ」
「え?」
「完璧を目指そうとするから緊張するんだ。でも、失敗したって世界が終わるわけじゃない。みんなが楽しめればそれでいいじゃないか」
ラーが感心したように頷く。
「セト、良いこと言うじゃない」
「たまにはな」
その時、外から太鼓の音が響いてきた。
「あ、開会の合図だ」
ハトホルが立ち上がる。
「そろそろ行きましょう!」
開会式
中央広場は人で埋め尽くされていた。ケペトは人の多さに圧倒されそうになる。
「すごい人…」
「大丈夫?」
アケムが心配そうに声をかける。
「はい、大丈夫です。ただ、みんなの期待が伝わってきて…」
ケペトは無意識に自分の能力を使っていた。広場にいる人々の気持ちが流れ込んでくる。
『楽しみ』『わくわく』『今年はどんな音楽かな』『ハトホル様の新しい試み、期待してる』
「みんな、とても楽しみにしてくれてるんですね」
「そうよ」
イシスが微笑む。
「だからこそ、私たちも精一杯やりましょう」
ステージでは、街の長老が挨拶を始めていた。
「皆さん、今年も音の調和祭にお集まりいただき、ありがとうございます。今年は特別に、神々と人間が協力した新しい音楽をお届けします」
会場がざわめく。
「え?神々と人間が?」
「本当に?」
「どんな音楽なんだろう」
その反応を見て、参加者たちの緊張が高まった。
「や、やっぱり注目されてますね…」
ミラが震え声で言う。
「大丈夫よ」ケペトが笑顔で答える。
「昨日の練習を思い出して。みんなで心を合わせたときの、あの素晴らしい音楽を」
他の出演者たち
最初は街の楽団による演奏から始まった。美しいハープの音色が広場に響く。
「上手ですね」
「毎年練習してるからね」
ハトホルが説明する。
「あの楽団のリーダーは、私の音楽を聞いて独学で覚えたのよ」
次に子供たちの合唱。可愛らしい歌声に会場が和む。
「微笑ましいわね」
イシスが目を細める。
「イシス様、子供好きですよね」
ケペトが気づく。
「ええ、とても。純粋な心って、美しいもの」
そして、いよいよ神々の出番が近づいてきた。
「緊張してきました…」
「私も…」
参加者たちがそわそわし始める。
「ちょっと待って」
ケペトが手を挙げる。
「みんな、円になって座りましょう」
本番前の円陣
ステージの裏で、神々と人間が輪になって座った。
「手をつなぎましょう」
ケペトが提案する。
「え?」
「昨日やったように、まず心を合わせるんです」
みんなが手をつなぐ。最初は少しぎこちなかったが、だんだんと自然になっていく。
「目を閉じて、深呼吸」
ケペトが優しく指示する。
みんなが目を閉じる。
「今、隣の人の手の温かさを感じてください。その人の優しさを感じてください」
静かな時間が流れる。
「今度は、もう少し広げて。この輪全体の温かさを感じてください」
不思議なことが起こった。みんなの呼吸が自然に合ってきた。
「素晴らしいわ…」
ラーが小さくつぶやく。
「今、私たちはひとつになってます」
ケペトが微笑む。
「この気持ちを忘れないで。ステージでも、この温かさを思い出してください」
「はい」
みんなが頷く。緊張はまだあったが、それよりも大きな安心感があった。
「よし、やろうか」
セトが立ち上がる。
「みんなで最高の音楽を作ろうぜ」
いよいよ本番
「それでは、特別演奏をお届けします。神々と人間による『心の調和』です」
司会の声が響くと、会場が静まり返った。
ステージに上がったとき、観客の数に改めて圧倒される。でも、さっきの円陣を思い出すと、不思議と落ち着いていた。
「皆さん、今日は特別な音楽をお聞かせします」ハトホルがマイクの前に立つ。「この音楽は、昨日初めて神々と人間が協力して作りました」
会場がざわめく。
「最初は上手くいきませんでした。でも、心を合わせることの大切さを学びました。今日は、その心を皆さんにもお届けしたいと思います」
拍手が起こる。
「それでは、始めさせていただきます」
演奏開始
最初はハトホルのフルートから始まった。美しい旋律が広場に響く。
次にイシスのハープが加わる。
そして、ラーの歌声。
神々の音楽は確かに美しかった。でも、どこか完璧すぎて、人間には届かない美しさだった。
しかし、そこに人間の楽器が加わると、雰囲気が変わった。
ミラのフルート。少し震えているが、温かい音色。
アケムの太鼓。リズムは完璧ではないが、力強い。
他の参加者たちの楽器も次々と加わっていく。
最初はやはりぎこちなかった。神々の音楽と人間の音楽が上手く融合しない。
会場の人たちも気づいている。
「あれ?なんか変だな」
「音がずれてる?」
その時、ケペトが立ち上がった。
「みんな、昨日を思い出して」
ケペトは静かに目を閉じ、自分の力を使った。演奏者たちの心をそっとつないでいく。
すると、魔法のようなことが起こった。
奇跡の瞬間
演奏者たちの心が一つになった瞬間、音楽が劇的に変わった。
神々の完璧な美しさと、人間の温かい心が完全に融合した。
それは今まで誰も聞いたことのない音楽だった。
美しく、そして温かく、聞く人の心に直接響く音楽。
会場の人々が息を呑む。
「すごい…」
「こんな音楽、初めて聞いた」
「心が震える…」
音楽はさらに広がっていく。ケペトの力により、演奏者と観客の心までもつながり始めた。
観客の中から、自然に手拍子が起こる。
そして、鼻歌。
気がつくと、会場全体が一つの大きな楽器になっていた。
3000人全員が、一つの音楽を作り上げている。
「信じられない…」
ラーが演奏しながらつぶやく。
「これが、本当の調和なのね」
イシスも感動していた。
予想外の展開
しかし、その時だった。
突然、空に雲が広がり始めた。
「あれ?さっきまで晴れてたのに」
「雨雲?」
そして、空から光の粒のようなものが降り始めた。
「これは…」
ネフティスが驚く。
「伝説の『調和の雨』よ」
「調和の雨?」
「真の調和が生まれたとき、空から祝福の雨が降るという伝説。でも、今まで見た人はいないはず…」
光の粒は音楽に合わせて踊るように降ってくる。触れると、温かくて、幸せな気持ちになる。
「わあ、きれい!」
「触ると温かい!」
会場の人々が歓声を上げる。
音楽の完成
光の雨の中で、音楽は最高潮に達した。
神々と人間、そして観客全員の心が完全に一つになっている。
それはもう音楽を超えて、愛そのものだった。
みんなで作り上げた、巨大な愛の表現。
演奏が終わると、しばらく誰も動けなかった。
静寂。
そして、爆発的な拍手。
「ブラボー!」
「素晴らしい!」
「感動した!」
会場全体が感動の渦に包まれた。
演奏後
ステージを降りると、参加者たちは興奮と感動で言葉にならなかった。
「今のって…夢?」
ミラがぽつりと言う。
「夢じゃないよ」
セトが笑う。
「俺たちがやったんだ。みんなで」
「でも、あの光の雨は…」
「調和の雨」
ネフティスが説明する。
「本当に存在したのね。今日、私たちが作った調和は、伝説になるほど素晴らしいものだったということよ」
「伝説…」
アケムが呟く。
「僕たちが?」
「そうよ」
ハトホルが涙を浮かべる。
「今日の音楽は、きっと何百年も語り継がれるわ」
その時、会場の人たちが駆け寄ってきた。
「素晴らしかった!」
「感動しました!」
「ありがとうございました!」
口々に感謝の言葉を述べる人々。
「あの、本当にありがとうございました」
一人の老人が深々と頭を下げる。
「私は80年生きてきましたが、今日ほど幸せな気持ちになったことはありません」
「そんな…」
ケペトが慌てる。
「いえ、本当です。今日の音楽で、みんなの心が一つになったでしょう?あんな体験、一生に一度あるかないかです」
予想外の反響
音の調和祭が終わった後も、人々は帰ろうとしなかった。
「もう一度聞きたい」
「今度はいつやるんですか?」
「私たちも参加できますか?」
「あの、私も楽器を覚えたいんですが…」
次々と質問が飛んでくる。
「えーっと…」
ハトホルが困った顔をする。
「みんな、今日は特別な日だったのよ」
ラーが説明しようとする。
「でも、また同じことができるんですよね?」
「それは…」
神々たちも戸惑っていた。
今日の体験は確かに特別だった。でも、また同じことができるのかわからない。
その時、ケペトが前に出た。
「皆さん、今日はありがとうございました」
会場が静かになる。
「今日の音楽は、確かに特別でした。でも、特別だったのは技術じゃありません。みんなの心が一つになったからです」
「心が一つに…」
「はい。もし皆さんが、また心を一つにしたいと思うなら…きっとまた、素晴らしい音楽ができると思います」
「本当ですか?」
「はい。音楽は心です。楽器が上手じゃなくても、歌が上手じゃなくても、心があれば必ず伝わります」
会場の人々が頷く。
「それじゃあ、またやりましょう!」
「みんなで練習しましょう!」
「神々の皆様も、ぜひまた!」
その夜
神殿に戻ると、みんなでお疲れ様会をした。
「いやー、疲れたけど楽しかったな」
セトが伸びをする。
「本当に素晴らしい一日だったわね」
イシスが満足そうに微笑む。
「でも、これからが大変かも」
ネフティスが苦笑いする。
「街の人たち、すごく期待してるもの」
「大丈夫よ」
ハトホルが元気よく答える。
「今日学んだことがあるもの」
「学んだこと?」
「心を合わせることの大切さ。それがあれば、きっと何でもできる」
「そうですね」
アケムが頷く。
「今日は僕も勉強になりました」
「アケム君は、最初から上手でしたよ」
ケペトが微笑む。
「そんなことないです。でも…」
「でも?」
「ケペトさんと一緒だと、自然に心が落ち着くんです。不思議ですね」
ケペトは頬を染めた。
「それは…みんな同じ気持ちだと思います」
「そうそう」
セトが茶々を入れる。
「ケペトがいると、なんか安心するんだよな」
「セト!」
みんなが笑った。
そんな談笑の中、ケペトは今日一日を振り返っていた。
最初は楽器の故障から始まった。でも、それがきっかけで、もっと素晴らしいことが起こった。
神々と人間が心を合わせて、一つの音楽を作る。
そして、それを見た人々が、また同じことをしたいと言ってくれる。
きっと、これが調和の始まりなのかもしれない。
技術や能力の違いを超えて、心で繋がること。
「ケペト、何考えてるの?」
ハトホルが声をかける。
「あ、今日のことを振り返ってました」
「どうだった?」
「とても幸せでした。みんなと一緒に、美しいものを作れて」
「私もよ」
ハトホルが微笑む。
「明日から、また練習しましょうね」
「はい!」
外では、街の人々がまだ余韻に浸りながら家路についていた。
今日の音楽は、確かに彼らの心に深く刻まれたのだった。