4章10話 音の調和祭
テーベの街に朝の光が差し込む頃、神殿複合体はいつもの平和な一日を迎えようとしていた。しかし今日は少し違っていた。ハトホル神殿から聞こえてくる音楽が、いつもより華やかで、そして少しばかり慌ただしさを含んでいたのだ。
「あーーー!」
突如響いた悲鳴に、ケペトは飛び起きた。慌てて身支度を整えながら音のする方向へ走る。他の神々たちも同じように慌ただしく集まってきていた。
ハトホルの大ピンチ
ハトホル神殿の中央ホールは、普段なら美しい音色で満たされているはずだった。しかし今、そこには楽器の残骸が散らばり、涙目のハトホルが立ち尽くしていた。
「ハトホル!何があったの?」
ケペトが駆け寄ると、ハトホルは振り返って大きな瞳に涙を浮かべた。
「ケペトちゃん…みんな…」
「まず、落ち着いて話して」イシスが優しく声をかける。
「何が起こったの?」
ハトホルは震え声で説明し始めた。
「明日から始まる『音の調和祭』の準備をしていたの。でも、新しい楽器の調整をしていたら、突然全部が共鳴し始めて…そしたら、制御できなくなって…」
見回すと確かに、いくつかの楽器が壊れていた。しかし不思議なことに、まだ微かに震えている楽器たちからは、断続的に美しい音色が響いている。
「音の調和祭?」ケペトが首をかしげる。
「あー、そうか。ケペトちゃんはまだ参加したことがないのね」ハトホルが涙を拭きながら説明した。
「年に一度の大きなお祭りで、街の人たちと一緒に音楽で調和を表現するの。でも今年は…」
「今年は?」
「今年は特別に、全ての神殿が協力して『完全調和の音楽』を作ろうって決めていたの。でも、楽器が壊れちゃった…」
ラーが壊れた楽器を調べながら言った。
「これは…普通の故障じゃないわね。楽器たちが何かに反応している」
「反応?」セトが眉をひそめる。「何にだ?」
ネフティスが図書館から持ってきた本をパラパラとめくりながら答えた。
「音の調和祭には古い伝説があるの。『真の調和が近づくとき、楽器たちは共鳴し、新たな音の世界への扉が開かれる』って」
「それって、良いことなの?悪いことなの?」ケペトが不安そうに尋ねる。
「うーん…」ネフティスが困った顔をする。「本には『大いなる試練』とも書いてある。詳しくは…」
その時、神殿の外から人の声が聞こえてきた。
「おーい、ハトホル様!練習の時間だよー!」
街の人たちが、楽器を持って集まってきていた。
街の人たちとの出会い
ハトホル神殿の外庭に出ると、20人ほどの街の人々が楽器を持って集まっていた。その中にはケペトが知っている顔もいくつかあった。
「ケペトちゃん!」
明るい声をかけてきたのは、市場でよく会う花売りのミラだった。手には小さなフルートを持っている。
「ミラさん!楽器ができるんですね」
「えへへ、下手だけどね。でもハトホル様の音楽を聞いていたら、自然と覚えちゃったの」
他の人たちも次々と声をかけてくる。
「神官様、いつもお疲れ様です」
「今年の音の調和祭、楽しみにしてたんです」
「ハトホル様の新しい音楽、素晴らしいって噂ですよ」
しかし、ハトホルは申し訳なさそうに俯いていた。ケペトは彼女の肩にそっと手を置く。
「あの…皆さん」ケペトが代わりに説明しようとしたその時、
「あ、あの!」ハトホルが勇気を出して顔を上げた。「実は…楽器が壊れてしまって…」
人々の間にざわめきが起こる。しかし、それは失望ではなく、心配の声だった。
「大丈夫ですか?」
「怪我はありませんか?」
「楽器なら、街の楽器屋さんに頼めば…」
その優しさに、ハトホルの目に再び涙が浮かんだ。
「みんな…ありがとう。でも、特別な楽器だから…」
「それなら」
突然、群衆の中から若い男性が前に出てきた。ケペトは見覚えがあった。確か、王宮の…
「アケム!」
そう、アケムだった。彼も楽器を持っている。小さなドラムのようなものだ。
「僕たちで何かできることはありませんか?音の調和祭は、街の人たちにとっても大切なお祭りです」
「でも…」ハトホルが困った顔をする。
その時、イシスが前に出てきた。
「ちょっと待って。もしかしたら、これは偶然じゃないかもしれない」
「どういうこと?」ケペトが尋ねる。
「楽器が壊れたのは、新しい調和を作るためかもしれない。神々だけじゃなく、人間の皆さんと一緒に」
新しい可能性
イシスの言葉に、その場にいた全員が静かになった。
「人間と神々が一緒に音楽を…」ネフティスが本を見ながらつぶやく。
「そんな記録は…ない。でも…」
「でも?」
「『未来への扉』という記述があるわ。『神々と人々の心が一つになるとき、新たな調和の時代が始まる』って」
セトが腕組みをしながら言った。
「面白そうじゃないか。俺は賛成だ」
「セト様…」
人々がざわめく。セトの存在に気づいた人たちの中には、少し緊張する者もいた。
「おいおい、そんなに警戒するなよ」
セトが苦笑いを浮かべる。
「俺だって音楽は好きなんだぜ」
「本当ですか?」
ミラが恐る恐る尋ねる。
「ああ。特にケペトの歌は最高だ」
「セト!」
ケペトが赤面する。
その微笑ましい光景に、人々の緊張もほぐれた。
ラーが前に出て、威厳を保ちながらも優しい声で言った。
「皆さん、もしよろしければ、一緒に新しい音の調和祭を作ってみませんか?神々と人間が協力して」
「本当に?」
「いいんですか?」
「もちろんです」
ハトホルが元気を取り戻した声で答えた。
「むしろ、お願いします!」
アケムが一歩前に出る。
「僕たちで力になれるなら、喜んで協力します」
他の人たちも次々と同意の声を上げる。
「よし!」ケペトが手を叩く。
「それじゃあ、みんなで最高の音の調和祭を作りましょう!」
準備開始
その日の午後、ハトホル神殿は今までにない賑わいを見せていた。神々と人間が一緒に座り、楽器の修理や新しい音楽の相談をしている。
「この音とこの音を合わせると…」
ハトホルがフルートを吹く。
「こうなりますね」
ミラが自分のフルートで同じメロディーを奏でる。
「素晴らしいわ!」
イシスが拍手する。
「人間の音楽には、神々の音楽にはない温かさがある」
一方、セトは壊れた楽器の修理を手伝っていた。
「セト様、器用なんですね」
アケムが感心しながら言う。
「意外か?」
セトが笑う。
「破壊の神だからって、壊すことしかできないわけじゃない。直すことだってできるさ」
「それは…考えたことがありませんでした」
「多分、みんなそうだろうな。でも、破壊と創造は表裏一体なんだ。古いものを壊して、新しいものを作る」
その時、楽器から美しい音色が響いた。セトの手で、楽器が元通りになったのだ。
「すごい…」
アケムが目を丸くする。
「ありがとうございます、セト様」
「様はいらない。今日は仲間だろ?」
ケペトはその光景を見ながら、心が温かくなるのを感じていた。神々と人間が自然に交流している。これこそが、本当の調和なのかもしれない。
「ケペト」ラーが近づいてきた。「あなたの力が必要よ」
「私の力?」
「ええ。みんなの心をつなげる力。それがあれば、きっと素晴らしい音楽ができる」
ケペトは周りを見回した。神々も人間も、みんな楽しそうに音楽に取り組んでいる。でも、時々ぎこちなさも見える。
「やってみます」
ケペトは静かに目を閉じ、いつものように心を開いた。すると、みんなの気持ちが流れ込んできた。
『楽しい』『嬉しい』『少し不安』『でも期待している』『一緒に作りたい』
様々な感情が混じり合っている。でも、その根底には同じ想いがあった。
『みんなで美しいものを作りたい』
アケムとの距離
練習の休憩時間、ケペトは一人で神殿の屋上に上がっていた。街を見下ろしながら、今日の出来事を振り返っている。
「考え事?」
振り向くと、アケムが階段を上がってきた。手には二つのカップを持っている。
「イシス様が作ってくれたお茶です。どうぞ」
「ありがとう」
二人は並んで座り、静かにお茶を飲んだ。夕日がテーベの街を美しく染めている。
「すごいですね」アケムが言った。
「神々と人間が一緒に音楽を作るなんて」
「私も驚いています。でも、とても自然な感じがして」
「ケペトさんがいるからでしょうね」
「え?」
「あなたがいると、みんなが自然に笑顔になる。神々も人間も関係なく」
ケペトは頬を赤く染めた。
「そんなことないです。みんなが優しいから」
「謙遜しないでください」
アケムが微笑む。
「あなたの力は本当に素晴らしい。でも…」
「でも?」
「無理はしないでくださいね。みんなの気持ちを感じ取るのは、きっと疲れるでしょう」
ケペトは少し驚いた。自分の能力について、そんな風に心配してくれる人は初めてだった。
「大丈夫です。みんなの優しい気持ちを感じるのは、むしろ元気になります」
「そうですか。でも、もし辛くなったら、遠慮なく言ってください。僕にできることがあれば、何でも」
「アケム…」
二人の間に、温かい沈黙が流れた。
「あの」
アケムが少し恥ずかしそうに言った。
「実は僕、音楽は得意じゃないんです。でも、今回は参加したいと思って」
「どうして?」
「ケペトさんが頑張っているから。少しでも力になりたくて」
ケペトの心臓が早く鈍った。こんな想いは初めてだった。
「ありがとう…」
「あ、でも変な意味じゃないですよ!」
アケムが慌てて手を振る。
「その、友達として…」
「友達…」
「あ、いえ、もしケペトさんが嫌でなければ、ですけど…」
ケペトは微笑んだ。
「もちろん。私も、アケムさんと友達になりたいです」
「本当ですか?」
「はい」
アケムの顔が明るくなった。
「それじゃあ、これからは『アケム』って呼んでください。敬語も不要です」
「でも…」
「友達でしょう?」
ケペトは少し考えてから、小さく頷いた。
「アケム…君」
「完璧です」アケムが笑った。
夜の音楽会
夜になると、神殿の中庭で小さな音楽会が開かれた。今日練習した曲を、みんなで合わせてみようということになったのだ。
「それでは、始めましょう」
ハトホルが指揮棒を構える。
最初はぎこちなかった。神々の音楽は完璧すぎて、人間の楽器とは微妙に合わない。人間の音楽は温かいが、神々の音楽の美しさには及ばない。
「うまくいかないな…」
セトがぼやく。
「もう一度やってみましょう」
ハトホルが励ます。
「待って」
ケペトが手を上げた。
「みんな、一度楽器を置いて」
「え?」
「まず、心を合わせましょう。音楽は技術じゃなくて、気持ちだから」
ケペトは中央に立ち、みんなを見回した。
「目を閉じて、今の気持ちを感じてみてください。嬉しい気持ち、楽しい気持ち、一緒に何かを作る気持ち」
みんなが目を閉じる。
「今度は、隣の人の気持ちも感じてみてください。同じような気持ちを抱いていることが分かりますか?」
ケペトは静かに自分の力を使った。みんなの心をそっとつないでいく。
すると、不思議なことが起こった。神々と人間の境界が曖昧になり、みんなが一つの大きな心になったような感覚になった。
「今度は、その気持ちで音楽を奏でてみてください」
みんなが楽器を手に取る。
そして、演奏が始まった。
今度は違った。神々の完璧な音楽と人間の温かい音楽が、美しく融合している。まるで一つの大きな楽器のように、みんなの音が調和している。
「すごい…」
「これは…」
音楽が終わると、みんなが感動で言葉を失っていた。
「今のが、本当の調和なのね」
イシスがつぶやく。
「ケペトちゃん、ありがとう」
ハトホルが涙を浮かべる。
「これが私たちが探していた音楽よ」
「でも、これはみんなで作った音楽です」
ケペトが微笑む。
「私一人では、こんな美しい音楽は作れません」
アケムが拍手を始めると、みんなも続いた。
「明日の本番が楽しみですね」
ミラが言う。
「ああ、楽しみだな」
セトも嬉しそうに答える。
その夜、ケペトは自分の部屋で日記を書いていた。
『今日は不思議な一日だった。最初はハトホルちゃんの楽器が壊れて大変だったけど、結果的にはもっと素晴らしいことが起こった。
神々と人間が一緒に音楽を作る。考えてみれば当然のことかもしれない。心があるのは、神々も人間も同じだから。
アケム君とも、もっと仲良くなれた気がする。友達って言ってくれたとき、とても嬉しかった。
明日の音の調和祭が楽しみ。みんなで作る音楽は、きっと今日よりもっと美しいものになる。
そして、これは始まりな気がする。神々と人間が一緒に暮らす、新しい時代の』
ペンを置いて、ケペトは窓の外を見た。
月明かりに照らされたテーベの街は、いつもより美しく見えた。
明日から始まる音の調和祭。それは確かに、新しい時代の始まりになるのかもしれない。
ケペトは微笑みながら、ベッドに向かった。明日もきっと、素晴らしい一日になる。