理性ごと、君に奪われて
この屋敷に足を踏み入れてから、俺は確かにおかしくなった。
初めて門をくぐったあの日の、張りつめた空気をまだ覚えている。
高い天井にはひび割れた漆喰、壁には色褪せた肖像画が並び、どれもが冷たく俺を見下ろしていた。
――それでも、爵位をやる、という甘い囁きに心は揺れた。
その瞬間、俺はもうこの屋敷に捕らわれていたのだろう。
最初は、理性が勝っていた。
この屋敷の主人が何を企んでいるのか、使用人たちの視線の奥に潜むものは何か。
目に見えぬ違和感を、全身の神経を尖らせて警戒していた。
けれど夜が更けるたび、胸の奥がじわじわと侵されていった。
考えが霞に溶け、心が知らぬ熱に染められていく。
まるで見えない糸で心臓をくるりと巻かれ、誰かにゆっくりと引き寄せられていくように――。
今は、かろうじて理性は残っている。
けれど、頭の奥で別の“俺”が静かに目を開く気配がする。
その瞬間が来ると、俺はもう俺じゃなくなる。
胸を焦がす衝動がせり上がり、視界が赤く染まる。
そして気づけば――彼女のことを、どうしようもなく愛おしいと思ってしまう。
違う、これは俺の意志じゃない。
そう必死に言い聞かせても、唇は勝手に彼女を縛る甘い言葉を零していた。
「君さえいれば、俺の世界には何もいらない」
初めてその言葉を口にしたとき、俺自身が一番驚いていた。
けれど三日も経つ頃には、それはもう呼吸のように自然に口をついて出るようになっていた。
彼女が目を丸くして頬を赤らめるたび、胸がきゅうっと締め付けられる。
――まるでそれが、ずっと欲しかった日常だったみたいに。
夜になると、屋敷は深い水底のような静けさに沈む。
石造りの廊下を冷気が這う音、使用人が食事を運ぶ金属の音。
鍵の外れる音、皿の置かれる音、そして扉が閉じる音――
それが遠ざかるたびに、現実は霞み、俺の世界は彼女だけになっていく。
腕の中の温もりがすべてだった。
髪に触れた瞬間の、ふわりとした香りに心が震える。
彼女の瞳が俺を見つめ返しただけで、胸が熱くなり、言葉にできない幸せで満たされる。
――こんなはずじゃなかったのに。
理性は必死に叫ぶ。「逃げろ」と。
けれど、彼女の瞳とぶつかった瞬間、世界がふっと止まった。
数秒、言葉も呼吸も失ったまま、ただ互いを見つめ合う。
その短い沈黙が、なぜか永遠のように甘く重くのしかかって――
気づけば、もう一歩も動けなくなっていた。
頭が割れるように痛いのに、その痛みさえ甘く感じてしまう。
そして、悟る。
俺の中の“本来の俺”すら、もう彼女を手放したくないと思っていることに。
術にかかっているはずなのに、理性まで恋に堕ちていく。
その矛盾が、俺をさらに深く彼女へと沈めていく。
胸が痛いほどに苦しいのに、同時にとろけるほど幸せだ。
もう半分は俺じゃない。
残りの半分も、甘い闇に抱かれる日を待っているのかもしれない――。




