疑っていた手が、少しだけ優しかった
「ねえ、こっちにおいでよ」
唐突な声に、思考が止まった。
低く、感情の温度を一切含まない声。
私はソファで体操座りのまま、彼をじっと睨んだ。
無表情でベッドに寝そべる彼は、黙って手のひらでベッドをぽんぽんと叩く。
まるで、ペットを呼ぶかのように。
「……何を企んでるの?」
そう問いかけても、彼は何も答えなかった。
寝間着はゆるく着流され、前が少しはだけている。視線を逸らそうとしても、
その赤い瞳は、じっとこちらを見据えたままだ。
逃げ場を探して立ち上がろうとしたそのとき――
「おい」
背後から、静かな声とともに、何かが近づく気配がした。
「ちょっ、なに――」
気づいたときには、彼にお姫様抱っこされていた。
床が遠ざかり、世界が一瞬ふわりと傾く。
「ちょっと、下ろしてってば!」
「……黙ってて」
「はっ!? なにそれ命令?!」
「うるさいと落とすよ」
「!!」
雑に、けれど丁寧すぎるくらい慎重に、ベッドの上へと降ろされた私は、気づけば彼の隣に座らされていた。
身体は緊張でこわばり、呼吸がうまくできない。
でも、彼は何もしてこない。ただ横になったまま、真横で、視線だけをこちらに向けていた。
「……ここ、苦手なんでしょ」
「え?」
「この部屋。屋敷。伯爵。全部、嫌いなんだろう」
彼の瞳が、わずかに伏せられる。
「でも……ここでなら、少しくらい眠れるかと思って」
「……なんで」
「俺が隣にいれば、たぶん伯爵もそう簡単には手を出せない」
「…………」
「そういう契約なんだ、俺たちの“婚約”って」
その言葉に、胸の奥が不意に鳴った。
これは芝居? ただの契約? それとも――。
「……だったら最初から、髪とか引っ張らないでよ。乱暴で無神経で、最低」
「……ごめん」
「……え?」
「慣れてない。女の人」
そっぽを向いて、小さく、まるで吐き出すように呟いたそのひと言に、不覚にも心が揺れる。
彼の手が、私の肩にそっと触れた。
冷たかったけれど、どこか頼りなくて、柔らかくて――
「今夜は、何もしないから。ここで、一緒に寝るだけ」
「……信用できるわけないでしょ」
「……なら、信じなくていい。」
そう言って、彼は布団を半分だけ持ち上げた。
無理やりでもない、命令でもない。
ただそこに、静かな“居場所”のように広げられたスペースがあった。
そして私は――
ほんの少し、心の重さを手放すように、その隣へと身体を滑らせた。
……カーテンの向こうでは、夜が静かに深まっていく。
不安と恐怖に満ちたこの屋敷の中で、ほんの少しだけ、光が差し込んだような気がした。




