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第六話 江戸への帰還

 

 七月二十五日に下野国小山にて一致団結し、石田三成を討つと決議した家康方は西進を開始。

 会津征伐を中止した家康は、


「最上義光、伊達政宗だてまさむねらと連携して、上杉景勝に当たるべし」


と上杉景勝の抑えに、次男で結城家の養子となっていた結城秀康ゆうきひでやすを宇都宮に残した。これは、あくまで〝抑え〟であり、むやみと戦端を開かぬようにと厳命して、家康は江戸城に帰って行った。


 八月四日には、先遣隊として西進する福島正則ら諸大名に、井伊直政いいなおまさ本多忠勝ほんだただかつを督軍役に派遣した。また各大名に、『その指示に従うように』――との書状を出している。

 家康自身は八月五日に江戸城に戻った。そこで家康は諸国の大名に多数の書状を送った。その多くは味方をすれば、恩賞として領地を加増する――など、調略するためのものである。

 たとえ味方に引き入れるまでいかなくとも、『どちらに付くか』――と迷わせるだけでも、その大名は身動きが取れなくなる。そこまで計算ずくで書状を送っているのである。

 人の心の機微を読んだ、経験豊富な家康らしい策略であった。また、これは二百五十万石を誇る家康ほどの大大名でなくば、効果を発揮しない策である。



 一方、石田三成も伏見城を落とした後、八月五日に佐和山城に一旦戻り、こちらも各大名に大量の書状を送っている。これらも調略の書状であるが、家康と違い、加増などの恩賞については明言されていない。主君の豊臣秀頼ならばいざ知らず、一家臣の三成の立場では確約出来ないからであろう。

 この頃の三成は、家康に従い会津征伐に向かった豊臣恩顧の大名の切り崩しを狙い、頻繁に書状を送っている。五大老の一人である毛利輝元を擁し、豊臣秀頼の名を出せば、幾何いくばくかはこちらに付くだろうとの目論見であったが、これは当てが外れた。家康に同行した豊臣恩顧の大名からは、誰も三成方に付かなかったのである。

 この戦は家康と三成の諍いと捉えられ、しかも、日頃から彼らと確執があったのは三成の方であった。豊臣大事、お役目大事と人心を顧みなかった三成憎し――で彼らは結束していた。

 共通の敵こそが、結束力を強める。皮肉にも、三成こそがそれを体現していた。

 加えて、伏見城攻めに際して、在坂、在京していた諸大名の妻子を人質にしようとしたことも、彼らの恨みを買った。実際には、積極的だったのは長束正家らであったが、あたかも三成の指示であったかのように伝わったのだ。

 しかも、大阪城内の玉造たまつくりの邸宅にいた細川忠興の妻、ガラシャを人質として確保する際に死なせてしまったことが大きい。彼女はキリシタンであるため、教義で禁止されている自殺――自害は出来なかったが、人質になるのを良しとせず、家臣に自らを切らせて死んだ。その報に接した三成は、諸大名の妻子を人質にする策を断念、放棄した。

 後に事態を知った細川忠興は激怒したという。

 三成は兵六千余を率いて美濃方面へ出立、九日に垂井たるい、十一日には大垣城に入った。


 この頃、清洲城に戻った福島正則を、石田方は説得しようと試みた。何せ、豊臣恩顧の大名筆頭格であった正則である。彼を引き込めば、他の武将も雪崩を打ったかのように、西軍に付く可能性があったからだ。

 この交渉には他の奉行が当たり、三成自身は参加していない。犬猿の仲の両者では、纏まるものも纏まらなくなる。


「某が出向けば、この話はご破算になろう」


 そう言って、身を引いたのである。それくらいは、三成にも分かっていた。


 交渉は難航した。


「さて、どうしたものか」

「そなたは、豊臣恩顧の大名ではないか」

「さりとて、此度は三成の勝手ではないのか?」

「治部少輔殿は、豊臣の治世を憂いたため、挙兵したのでござる」

「それはそちらの言い分。内府殿にも言い分はあろう」


などと、正則も後続の東軍を待っていたのか、のらりくらりと返事を先延ばしにした。やがて、後続の大名たちが清洲城に続々と到着。この交渉は決裂した。

 結果だけを見れば不首尾に終わったが、だめで元々。やってみる価値は十分にあった策だった。

 不首尾となるようなら、石田方は清洲城を攻めるつもりであったが、その頃には東軍の軍勢が膨れ上がったために、攻撃を断念している。

 

 八月十四日には、黒田長政、細川忠興、池田輝政、浅野幸長ら先鋒の主だった大名が清洲城に集結。その間も、福島正則は家康に出陣の催促を何度も送っていたが、まだ家康は江戸を動かずにいた。


「内府殿が動かぬなら、我らも勝手にやらせてもらう」


 焦れた福島正則は有志を募り出陣、美濃の岐阜城を攻め始めたのが二十二日。東軍のの主力二万四千余による城攻めに抗しきれず、翌二十三日には岐阜城は開城、城主の織田秀信おだひでのぶ――信長の嫡孫は降伏した。秀信側は前日の攻防で兵の損耗著しく、また、攻め手の一人池田輝政が前の岐阜城主だったであったため、城内を知り尽くしていたこともある。秀信は弟らとともに自刃しようとしたが、福島正則らは前主君の孫である秀信を死なせては面目が立たぬと、これを説得して開城に至らせたのである。

 これに前後して西軍は毛利秀元もうりひでもと吉川広家きっかわひろいえ、安国寺恵瓊ら毛利勢を中心に、鍋島勝茂なべしまかつしげ長宗我部盛親ちょうそかべもりちか、長束正家ら三万余の主力が東進の途上にある安濃津あのつ城や伊勢上野城などを攻めた。大軍で包囲された城は次々と落城や開城となったが、これらの攻略に日数を取られ、東軍の進行を聞き及んで、ようやく美濃へと転進した。



 

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