表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/33

第三十三話 元和偃武

 

 秀頼、淀殿は自刃したが、秀頼には側室の産んだ男児がいた。国松と名付けられたその子は、まだ八歳であった。伏見に匿われていた国松は捕縛され、洛中引き回しの後、六条河原で斬首にされた。豊臣家の血筋は根絶やしにする――という徳川の執念が感じられる。

 同じく、捕らわれていた長宗我部盛親も斬首にされている。


 秀頼には娘もいた。国松の妹にあたるこの子は千姫の養女となり、鎌倉の東慶寺で尼僧となることで助命された。これは、血筋は男にのみ伝わり、女には伝わらない――と当時では考えられていたからである。


 また、家康は京都の豊国神社を破却させた。秀吉が、豊国大明神として祀られていたからである。滅ぼした相手の血筋の者が〝神〟であるのは、何かと都合が悪かったのだろう。


 七月。朝廷は後水尾(ごみずのお)天皇の即位に伴い、元号を〝慶長〟から〝元和(げんな)〟へと改めた。


 様々な戦後処理を済ませた家康が京都を発ったのが、八月四日。二十三日には駿府城に戻った。

 年が明け、元和二年一月。家康は〝鯛の天ぷら〟を食べてあたった。これは家康の死因としてよく扱われる。もっとも、亡くなるまでの期間が長過ぎるため、天ぷらの(くだり)は中ったのではなく、ただの食べ過ぎとの説もあり、死因は胃癌であったとも言われる。

 四月十七日、家康は駿府城で死去。享年七十五歳。当時の平均寿命を考えれば十分に長寿であり、大往生であった。


 死去後、家康は神として祀られることとなった。その神号を何にするか――を秀忠に問われた知恵者の一人、金地院崇伝は慣例的な尊称の、


「〝大明神〟がよろしいかと存じます」


と述べた。もう一人の知恵者である天海僧正は、


「〝大権現〟がよろしかろうと存じます」


と言った。秀忠が、


「何故じゃ?」


と問うと、天海僧正はさも当然のこととして言った。


「〝大明神〟は、げんが悪うございまする」


 天海僧正の言葉に秀忠が眉を顰め、


「何故じゃ?」


と繰り返して問うと、天海は姿勢を正して続けた。


「〝豊臣大明神〟は破却されてございまする」

「おお! そうであった。確かに〝大明神〟では験が悪い」


 そうして、家康に〝東照大権現〟の神号が後水尾天皇から贈られ、神として祀られることとなったのである。



 〝元和偃武(えんぶ)〟という言葉は、〝偃武〟が武器を納めて用いないという意味で、応仁の乱から続いていた戦国時代が、大阪夏の陣を最後に、大名同士が争うことがなくなった――と宣言したものである。



                             ―完―



 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ