表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/33

第十六話 勝敗決す

 

「えいっ! えいっ!」

『おおーっ!!』

「えいっ! えいっ!」

『おおーっ!!』


 島津隊の撤退により、主だった西軍の武将はいなくなった。太刀をかざした家康は自身の勝利を誇示するため、将兵たちに勝鬨を上げさせた。


 勝敗が決したと見て、南宮山東麓に陣取っていた長束正家隊、長宗我部隊らも伊勢街道から撤退していった。南宮山の毛利勢は中腹に陣を敷いた吉川広家が道を譲らず、最期まで戦に参加出来ないままに終わり、西軍の敗北となったために何もせぬまま、撤退した。

 

 西軍にとって誤算だったのは、毛利元康(もとやす)率いる別動隊一万五千余の軍勢が、九月十三日から近江の京極高次きょうごくたかつぐの大津城を攻めていたことであった。高次が降伏し、大津城が開城したのが十五日。つまり、関ケ原の戦いが行われた当日である。一万五千もの別動隊が本戦に参加出来なかったのが、最期まで響いた形となった。

 元康らは西軍の敗北を知るや、東軍を迎え撃つべく、大坂城へと引き返していった。


 一方、家臣の進言により、討ち死ぬよりも落ち延びることを選んだ三成は、居城である佐和山城を目指した。しかし、東軍が主な街道を封鎖。検問所を設置し、逃亡した西軍の諸将を捜索していたため、三成は馬で佐和山城を目指すことを諦めて、山中を行くことにした。



 家康は三成が本陣を置いていた天満山の西南、藤古川畔に本陣を移して、味方した諸将と引見した。


「皆々方、実に大儀であった」

『ははーっ!!』


 家康の労いの言葉に、福島正則を始めとした諸将は頭を垂れた。家康は頷き、諸将に声を掛けた。


「うむ。皆々、苦しからず。おもてを上げられい」

『ははっ』

「皆の働きにより、三成方に付いた大名らは逃げ出した。我らの勝利である」

『おめでとうございまする!』

「小早川殿、脇坂殿、赤座殿、小川殿、朽木殿。貴殿らの働き、誠に天晴れであった。感謝致す」

「かたじけないお言葉、畏れ多いことでございまする」

『畏れ多いことでございまする』


 小早川秀秋の後に、四将が続けた。福島正則や細川忠興など前列に座す者たちは一様に振り返って、寝返った彼らを蔑むように見やった。

 寝返られた側の戦意喪失や戦略・戦術的なことを鑑みれば、()()()という時期の寝返りは効果的なはずであり、また、そうするように調略をする――したというのに、いつの世も〝裏切り者〟や〝寝返った者〟は白い眼で見られがちである。

 しかし、家康は寛容な好々爺の如き面持ちで頷き、続けて言った。


「さて。三成は落ち延び、恐らくは自らの佐和山城を目指すであろう。そこで貴殿らには、このまま先陣として、佐和山城を攻めて頂きたい」

『はっ』


 秀秋たちは殊勝に頭を下げた。寝返った者は、その忠誠心を試されるように、次の戦で先鋒を任されるのが通例であった。この時の彼らも同様であった。出自を嵩に懸かる秀秋も神妙にするしかなかったのである。


 その日のうちに秀秋と脇坂らは、三成の佐和山城攻略に出陣した。佐和山城は三成の父の正継、兄の正澄が留守居役であった。

 秀秋らが佐和山城を攻め始めたのが十七日。正継、正澄らはよく守ったが、城兵は二千八百余。およそ二万の兵に攻め立てられ、翌十八日、兵数の差そのままに多くの兵が討ち死にし、正継、正澄は自刃して、佐和山城は落ちた。

 これで、三成は戻るべき城をも失ったのである。



 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ