3.傷付けたくない
ある日、珍しくジャサントはヴィオラのそばにいなかった。
こういう日は殆どなく、今まで数えるほどだった。
一人昼食を広げたヴィオラだが、その手は籠に入ったサンドイッチに伸びない。
ふたを開いたままぼうっと見つめるだけだった。
いつもならジャサントが隣にいて、それが当たり前で、それだけで安心できていた。
けれど今はいない。
それがヴィオラの心を不安定にさせた。
少しして、ジャサントはヴィオラのもとへ戻って来た。
「まだ食べてなかったのか」
「……別に」
ジャサントの姿を見たヴィオラは、ハッと息を呑んだ。
口の端から少し血が出ていたのだ。
「ジャス、あなた血が……」
「ああ……」
指でなぞると赤く染まる。ジャサントはそれをぺろりと舐めとった。その姿が妖艶で、ヴィオラは思わずぞくりとさせた。
途端に顔に羞恥が集まり、それをごまかすようにハンカチを取り出しジャサントの唇を拭う。
「汚れるぞ」
「平気よ。それよりどうして血が出てるの」
ヴィオラが心配するように眉根を寄せると、ジャサントはバツが悪そうに眉をしかめ目を背けた。
「ちょっと転んだだけだ」
「そんなはずないでしょう? あなたは竜人で、身体能力は抜群にいいじゃない」
竜人と人間の違いは竜化能力もあるが、基本的な体力が違うことにある。
ケンカでもしようものなら、竜人に勝てるはずはない。
臨戦態勢になればその体は鱗に守られ、口は牙を剥き、爪は鋭くなり、人間など容易く事切れさせるだろう。
だが竜人は比較的平和主義で、警備隊や傭兵など仕事で使う力以外はよほどのこと――例えば番との時間を邪魔されたときなどにしか使わない。
だから穏やかに共存できているのだ。
「なんでもない」
「なんでもないわけないじゃない……」
ジャサントが戻ってきて嬉しいはずなのに、心配ごとができると不安になる。
「ヴィオラが心配してくれるならたまに血を付けてこようかな」
「やめてよ……」
冗談か、本気か。
ジャサントは柔らかに笑う。
気にしたくないのに気にしてしまう。
突き放したいのに突き放せない。
それからもジャサントは度々血を付けてヴィオラの前に現れた。
ときには頬も腫れていた。
その姿を見るたびヴィオラは眉を顰めるが当の本人は「平気だから」と笑う。
理由を聞いても何も言わない。
生傷絶えない様子にヴィオラは不安が増す。
けれどその理由は意外なところで判明した。
「あいつ竜人っていうけど大したことないな」
「竜化しても爪が無いとかありえないだろ」
「最弱の竜人とか笑える」
何人かの男子学生がたむろして、笑いながら歩いていた。
会話の内容に胸騒ぎがしたヴィオラは、彼らが歩いてきた方向に早足で急ぐ。
「ジャス!」
校舎裏の木の根元で、ジャサントが座り込んでいた。
ヴィオラの声に目を見開き、眉根を寄せバツが悪そうにしている。
「どうして……」
「気にするな」
「でもっ……!」
「大丈夫だから」
憤り、先程の男たちを追い掛けようとするヴィオラの腕をとり、ジャサントは座らせた。
「情けないな。ヴィオラには見られたくなかったんだが」
「どうして反撃しないの……」
竜人は人間より身体能力に優れている。
ただでさえ力の差は歴然で、一瞬にして倒してしまうのだが、ジャサントはやられるままにしていた。それがヴィオラには理解できない。
「大丈夫だよ。竜化して体は守ってる」
「どうして? あんな人たち、一瞬で倒せるじゃない。やられっぱなしなんて、竜人なのに……」
ヴィオラの言葉にジャサントはゆるく首を振った。
「もう、誰も傷付けたくない」
その言葉にヴィオラは息を呑む。
「例え向こうから暴力を振るわれても、俺はもう人間を傷付けたくない」
「ジャス……」
ヴィオラは思わず胸元で手を握る。
ジャサントはヴィオラを傷付けた。
それが未だしこりとして残っている。
ヴィオラだけでなく、ひ弱な人間は何かと傷付きやすく、力加減を誤るとすぐにケガをしてしまう。
誰かを傷付け、その責任をとるくらいなら人間からの暴力くらい甘んじて受けよう。
ジャサントはそう思っていた。
「私はジャスが痛い思いをしているのは嫌だわ」
「大丈夫だから。でも、心配してくれてありがとう」
ジャサントの微笑みがヴィオラをざわつかせた。
見えない壁を作られているようで、これ以上は踏み込めなかった。