風上の記者
想像しながらじっくり読んでもらえると嬉しいです。
怖さより、安堵感があった。8割雑音のラヂオから聞こえてくるのは、天皇閣下の声か。それとも夢幻か。
鬱屈した人々の間を抜ける。私にはどうしても確認せねばならないことがあった。薄茶のモダン建築のドアを叩くと、中肉中背といった格好で、丸メガネをした男がいた。
「いらっしゃい」
軽く会釈する。申し訳程度に仏壇を拝み、いつもの革張りの席につく。
「一人はまだ還ってないみたいだな」
その一人とは、増田仁平。外国語が堪能だった彼は、どこからともなく英字新聞やらを入手してきて、そこからの情報と、常人とは思えない行動力で、押しも押されもせぬ一流のジャーナリストだった。そして、増田を有名にさせたのが、国際戦争を批判的に報道したことである。そこに、私は報道の真髄を見た。結局それら記事が広く世に出ることはなかった。しかし、噂として報道界、文芸界などに広がった。その頃彼を知らないものは、相当な若手かもぐりであった。
仏壇を一瞥した。いや、不吉なことを考えるのはよそう。
「私たち、どうなるんでしょうね、これから」
思案顔のまま固まった。
「なるようになるさ」
諦めの自嘲である。
なるようにしか、ならなかった。報道で世の中を変えられる状態ではなかった。この国は、もうそこまで来てしまった。
1936年の7月、私は取材で旅順に来ていた。このごろの動乱を一度目に収めたかったというのもある。朝に関東庁で約束の人と会い、長春行きの列車に乗った。そのうち暑いので帽子を脱ぎ、カバンにしまう。ふと隣を見ると、雑な紙束を控えめに開いている人物と目があった。私と同い年くらいに見える男である。
「小説は、結構読む方ですか」
私はなぜか話しかけた。
「いえ、小説はからきしです」
男は、特徴的なふとぶちのメガネを上に持ち上げる。
「旅順には、旅行ですか」
私は良い格好したくなり
「いえ、取材ですよ」
得意そうに言う。
「そうですか、満州には行かれましたか」
私はなぜ満州なのかと聞いた。
「それはここでは言えませんが」
男は読んでいた紙束を私に渡すと、帽子を深くかぶり直しながら
「これ、読んだほうがいいですよ」
渡された紙束をざっと見た。
「この後、なにか予定はありますか」
私が特にないと伝えると、この後一緒に大連で降りないか、ということだった。少し考えて了承すると、彼はまた帽子をかぶり直し、ポケットから別の紙束を出して読み始めた。時折何かをつぶやいている。
大連に着いた。旅順から乗って、大連で降りる人は多くおらず、降り場は昨日より空いている。増田は歩きながら読んでいた紙束をポケットに戻すと、話し始めた。
「増田仁平です。増える方の増田に、仁義の仁平です」
私も軽く自己紹介をする。一通り終わると、増田は言った。
「私もフリーの記者なんです。旅順には…、まぁ取材で来ました」
少しだけ驚いて
「では、先程の記事はあなたですか」
増田は微妙な顔をして続ける。
「いえ、正確には私が翻訳したものです」
米語がわかるのかと聞くと、コートの襟を直しながら
「ドイツ語もできます。それと、フランス語も少し」
感心しながら尋ねた。
「どこに連れて行ってくれるんですか」
増田は少し悩んで
「私達の事務所です。詳しいことはそこで」
それから30分ほどだった。着いたのは壁が薄茶で塗装された簡素な作りの家屋で、表札は削られている。
「まぁ、適当に上がってください」
案内された部屋は、机が一つしかなく、その周りには大量の新聞と雑誌が散乱している。「少々汚いですが、すみません」
床に散らかった新聞束を除けると、奥の方から椅子を出してきて
「どうぞ」
私は言われるままに座り、増田の言葉を待った。茶葉をポットに入れながら、何やら思案顔である。
「戦争は、どう思われていますか」
唐突に聞かれた。
「えぇっと・・・、必要なことかと」
このごろの恐慌や社会不安を考えれば仕方のないことだろう。海外と劣らない国づくりをしていく上で、国土を増やしていく必要もある。
増田は少し頷いて
「来年、日本と支那は戦争をはじめます」
私が疑いの目を向けると、増田は肩を竦めて
「戦争とは、虐殺です。政治家が戦争を始め、国民たちが死ぬのです。もちろん敵も味方も関係なく。欧州大戦は知っていますよね。始める前まではすぐに終わると思われていたのが、4年以上続いたのです。その間に沢山の人が死にました。皆家族がある一人の人間です」
一つ息継ぎをして更に続ける。
「戦争を始めさせてはだめなんです。始まってからいくら止めようとしても、止まらないんです」
増田は真剣な顔で言う。私は納得した。
「電車の中で話せないと言ったのは、このためですか」
一つ頷くと
「こんな事言ったら今の世の中じゃすぐ投獄ですよ」
「再来年戦争があるのは、ほとんど確定事項です。確かな筋から、関東軍がどのような計画をしてるか、というのを入手しました。もちろん、他言無用でね」
「私たち記者は、直接人を助けられません。その代わり、報道で人の心を動かすことはできます。国民は本当のことを求めています。そして、知る権利もあります。それを私は守りたいんです。」
その熱量に私は圧倒された。冷めた緑茶で喉を潤し、後先考えずに言った。
「一緒にやりましょう。いや、やらせてください。」
私は勤め先に電報を打った。帰国後、住み慣れた4畳半も引き払い、荷物は手帳と万年筆だけである。8月には事務所を東京、墨田に移し、それと同時に増田も帰国した。
さて、増田が帰国して半月ほどが過ぎ、墨田での暮らしにも慣れてきた。増田はというと、珍しく国内の新聞、それも地方紙ばかりを引っ張り出してきて徹夜で読んでいる。メモと独り言も抜かりない。そろそろ私も退屈してきた折、突然増田から
「飯でもいきませんか」
と誘われた。別に断る理由もない。午後6時に「大澄」で待ち合わせだという。「大澄」は典型的な割烹と言ったところで、値段もそれなりだ。いや、ここに二人いるのだから、別に待ち合わせじゃなくても良いような気がするが。
私が6時すぎに「大澄」に着くと、増田は既に奥の座敷に座っていた。いつも通りに雑な紙束を広げて読んでいる。
「こんばんは」
増田はメガネを上げて一瞥し
「どうぞ」
自分の斜め前の席を指さした。増田の周りには新聞が散乱しており、地面に物を置く癖は相変わらずだ。
「私たちが作る予定の新聞について、ちょっと話し合いませんか」
これは話が長い時の顔だな。増田は徳利を振るいながら言った。
「まず戦争について国民がどう思っているか、調べました」
合点がいった
「最近地方紙ばかり読んでいたのはそのためですか」
「えぇ、散々読んでやっと少しずつ見えてきたものですから、その報告を、と思いまして」
「まず、戦争を必要だと思っている国民はかなり多いです。かなり多いと言っても、全員ではありませんよ。100人いたら、93人くらいのものです」
「彼らの所得は、ピラミッドで言うところの、一番下から先の尖っているところを除いたくらいですかね。ちょっとわかりにくいですか。そうですね、下の下から高の中くらいといった表現がいいでしょうか」
「なるほど」
「私が驚いたのは、高の高は反戦なんです。金持ちは皆戦争の無益さを知っている。それも全員じゃありませんよ、もちろん。比較的、と言うやつです」
「キリシタンや、マルクス主義者なんかが多いようです。この頃の弾圧で数は減らしているようですが」
「だから、知っている人は知ってるんですよ。戦争の意味のなさや恐ろしさなんかをね」
「それが一般層には知られてないんです。私はそう言う人にこそ情報は届けるべきだと思っています」
増田はさらに真剣な表情になった。
「新聞の名前は『中立新聞』です」
「一般層に知られていない現状を、中立の立場で伝えるんです。思想とか、そう言うものは無しにしましょう。それと、お金がない人にも読んでもらえるように、安くなくてはいけません」
「まず第一刊は、社会活動家の方など比較的受け入れやすい方向けにタダで配布しましょう。とにかく知ってもらうのが大事です。」
「風向きを変えましょう。私たちで」
これをきっかけに、増田と私は動き始めた。9月の初めには記事も完成し、あとは印刷会社に依頼するのみだった。
「このご時世で社会派の新聞を刷ってくれる会社なんて、頭おかしいですよ」
増田は笑った。ただ、私はそんな「頭のおかしい会社」に心当たりがあった。
「私の知り合いを当たって見ます」
「やっぱり、あなたを誘って正解でした」
私はその日に高崎行きの列車に乗った。
1936年10月、私と増田の前には刷り上がった新聞の束が置いてあった。印刷所の名前を掲載しないという条件で、なんとか刷ってもらった。3400部ある。一番上の一部を取って読み流す。【欧州大戦の悲劇】という見出しが躍る。起きた事実を増田は一切脚色しなかった。軍部批判も書かず、欧州大戦でどのくらいの被害が出たか、ということを見開き両面に簡潔にまとめた。
増田が一番こだわったのは、挿絵を入れることである。従来の新聞は、写真はあってもイラストが載っていることは意外と少なかった。なんでも、知識のない人に読んでもらうには、文字だけでは飽きられてしまうということらしい。
また、この間に事務所に机が増えた。私の旧知であるイラストレイターの嶋田万治を加えたからだ。嶋田は丸メガネで中肉中背。口下手だが絵を描かせると上手い。独特のタッチで違和感のない、器用な絵を描くのだ。増田も彼の絵が気に入ったようで、事務所に飾ると言って画用紙を買ってきたこともあった。来客が来たら恥ずかしいという理由で嶋田に断られていたが。
こうして、第一版『中立新聞』は発行された。有名活動家の手に渡ると、その読みやすさで瞬く間に話題となり、2週間後には新たに4000部の増刷が決定した。その後も不定期ではあるが、2、3週間に一つのペースで新聞を作り続けた。
第10刊が発行される頃には高崎の印刷所では増刷が追いつかず、急遽大阪の印刷会社に依頼したほどであった。この10刊からは、活動家や読者からの寄稿を掲載するページを設けた。さらに、分け隔てなく広告を募った。今まで専ら増田の貯金に頼っていたが、これで当面の活動資金を手に入れることができた。また、寄付の申し出は全て断っていた。思想ではなく、事実を書くということにこだわった。
「第1刊と比べて、大分分厚くなりましたね」
増田は刷り上がった第10刊を見て顔を緩めた。
「これからも、この姿勢は変えずにいきます。戦争を止められなくては、意味ないですから。目的と手段を取り違えないように頑張りましょう」
1937年6月、『中立新聞』は第34刊であった。順調に発行部数は伸びている。大手民間新聞の調査では、【戦争が必要である】と答えた割合は、63パーセントに留まったという。しかし、反戦活動に対する締め付けも一段と厳しくなっていた。私たちに賛同してくれていた社会活動家たちも、かなりの数投獄されている。増田はこのごろ、他社週刊誌にも寄稿を求められるようになり、かなり忙しくしている。
「私の見立てでは、来月あたりに関東軍は作戦を実行に移すでしょう。多分、7月の初旬ごろに」
「この一ヶ月が勝負です。風向きは間違いなくこちらです」
6月17日、『中立新聞』第35刊が完成した。今回はいつになく気合を入れ、渾身の出来であった。翌朝、いつものように高崎の印刷会社に速達で送った。しかし、帰って来た物に私は唖然とした。そこには新聞束ではなく、茶封筒があった。
【今後、皆さんの『中立新聞』の印刷をお受けできなくなりました。全国の印刷会社に一斉に公安が入ったそうです。私共は、黒判定でした。あと少しという時に、こんなことになってしまってすみません。】
藁版紙に殴り書きだった。私はすぐにそれを増田に伝えに行くと
「予想はしてましたよ。しかしまぁ、全国一斉とは」
いつもは体裁を崩さない増田も、この時ばかりは頭を抱えた。予備で確保してあった印刷所も、全国一斉ではどうしようもなかった。この日から、反戦を訴える新聞は世に出なくなった。
7月7日、私と増田は久しぶりに事務所にいた。なんでも、軍部が計画している作戦が、今日か明日には決行されるということで、二人でラヂオを聞いていたのだ。午後10時ごろ、緊急放送という名目で流れたのは、中国の盧溝橋で日中の軍隊が衝突したというニュースであった。
「ダメでした」
増田の顔には後悔の表情が滲む。
「どうすれば良かったんでしょうかね」
増田は独言る。私は掛ける言葉が見つからなかった。
「去年と比べて、戦争の残酷さを知る人はものすごく増えたと思います。でも、軍隊の力には勝てませんでした」
「私はこの国が怖いです。最近の軍幹部には、狂気すら感じます。ブレーキのない列車に乗っているような、そんな感じです」
「『中立新聞』はどうしますか」
分かりきったことを聞いた。
「やりますよ、もちろん。」
「私は再び支那に行きます。戦争の現実を自分の目で見て、そのまま国民に伝える。これが私に与えられた使命ですから」
机に向けられていた視線が、不意に話私の方に向いた。
「一緒に行ってもらえませんか。私としてはあなたがいると、心強いのですが」
「いいですよ」
私は即答した。
「いいんですか。死ぬかもしれませんよ」
増田はいまさらそんなことを言う。
「それは日本にいても同じでしょう。私だって置いていかれるのは嫌なんです」
「そうですか」
増田は少し驚いたような表情をした。
それから増田の行動は早かった。すぐに日本にいるドイツ人記者に連絡し、中国までの同行許可をとった。墨田の事務所には、嶋田と協力者数人が残り、送られてきた原稿をいち早く新聞にできる体制を整えた。
また、印刷に関しては大阪の会社が請け負ってくれた。第10刊の時に増刷を依頼したあの会社である。大量に刷ることは難しいが、2000部程度なら隠れて印刷できるかも、と言うことだった。
7月18日、私と増田は満州にいた。日本軍と中国当局の交渉は難航している。戦争が本格化するのも時間の問題だった。
「状況は緊迫しています。来週末くらいが山場でしょう」
「軍部は一気に大量の兵士を投入して決着をつける予定のようです。しかし、これでは市民が・・・」
国同士が勝手に始めた戦争に、無関係の市民が巻き込まれる。これは増田が最も危惧していたことだった。
「行きましょう」
私と増田は列車に乗った。北京行きである。最前線に着いたのは26日の午後だった。
「これは・・・ひどいですね」
私たちは日本軍第3師団に同行を認められた。そこで見たのは紛れもない虐殺の現場だった。私たちは必死にカメラを回した。持ってきたフィルムはすぐに使い切った。増田は急いで原稿を作成している。私はそれを受け取ると、現像が終わっていないフィルムとテープを袋につめた。嶋田に短い電報を送る。そして、原稿と袋を知り合いの記者に渡した。
「これを日本に持って帰ってもらえませんか。『中立新聞』の事務所まで」
輸送便は軍関係の物資で一杯だった。考えた末に、これしか方法がなかったのだ。
「原稿は読まない方がいいですよね」
記者が聞く。
「いえ、読んでもらって構いません。その後はお任せします」
無事に届くかどうかはわからない。それでも彼を信頼する他なかった。
1週間後、嶋田から電報が来た。どうやら無事に届いたようだ。これには増田もほっとした表情を浮かべていた。ところが、この1週間の間に戦況はさらに悪化していた。
日本軍は北京、天津一帯を制圧。交戦は避けられないところまで来ていた。13日には、上海で戦闘が始まった。そして、この日に、『中立新聞』第37刊が発行された。第1刊と同じ見開き両面だけの新聞になったが、写真やイラストで戦争の現実を脚色せずに伝えた。
しかしこの時、国内では好戦的なムードが高まっていた。大手報道各社は挙って開戦論を展開し、反戦の流れは1年前と同程度まで落ち込んでしまった。
「勝ったとか、負けたとか。スポーツじゃないんですよ。全く」
増田は読んでいた国内紙から顔を上げ、つぶやいた。そして、私に3ページの原稿用紙を渡すと
「これ、事務所まで届けられますか」
「私の見立てでは、この戦争はすぐには終わりません。1年、いやもっとかかるんじゃないですかね」
「私は最前線で、できる限りの取材をします。それを確実に届けてほしいんです。あなたにしか頼めません」
どんなに体を張って取材を続けても、それを国民に届けられなくては意味がない。私はフッと息を吐いた。
「分かりました。本当はここに残りたかったですが、仕方ないですね」
1941年11月、私の往復生活も3年を超え、『中立新聞』も第100刊を迎えていた。増田の懸命な取材は、国内外に新たな風を吹き込もうとしていた。
まず一つは、有志が集まって、多言語版『中立新聞』を発刊したことである。これにより、支那の主に国民党地区では反戦の機運が高まっている。また、日本でも好戦論が下火である。長引く戦争による不景気などが原因だ。ようやく増田の想いが結実してきた。
一方で戦死者は日本側だけで18万人以上、負傷者は40万人を超えた。戦争による損害としては過去最悪であった。
翌月8日、旅順行きの船がざわついている。私は船を降りるや、上海行きの列車に飛び乗った。翌朝8時、増田が拠点とする記者寮にたどり着く。列車の中では一睡もできなかった。明らかに普段と違う、記者たちの異常な喧騒の中に増田を見つける。
「驚きました」
その驚きは日本に対してか。それとも私が想定より早くきたことか。
「あなたがこんなに早く来られるとは思いませんでした」
「こうなると、わかっていたんですね」
「えぇ、だいぶ前から。本当はもっと早く起きると思っていたんですけどね」
昨日午前、日本海軍がハワイを攻撃した。続く午後、ホンコン,マレーシア,フィリピン,グアム島,ウェーク島でも軍事行動を開始。これは事実上、アメリカ、イギリスとの開戦を意味していた。
「あぁ、結局私は、また戦争を止められなかったんですね」
「この戦争がどうなるかは、私も予想できません。しかし、世界を巻き込むモノになるのは確実です。暴走列車どころか、暴走戦艦ですよ」
増田の乾いた笑いが、頭の中を巡った。これは『中立新聞』の、事実上の敗北だった。増田は、いや私たちは、戦争を止められなかった。
「一度日本に帰りましょう。私たちにできるのは、支那事変の惨さを伝えることだけです」
増田は前向きだった。私たちはその1週間後に支那を発った。
実に4年ぶりの帰国となった増田は、事務所について早々に仕事を始めた。
「第101刊は、支那の現状を書こうと思っています。どうでしょうか」
「国内は、再び好戦ムードです。日本軍が勝利するたびに歓声が起こるこの現状は、正直異常だと思います。その勝利に何人死んだのかをまるでわかっていない」
その熱意に満ちた目は、『中立新聞』第1刊の頃と全く変わっていなかった。
「まだ、少ないですが可能性はあります。止めるのは無理でも、被害を少なくすることはできるかもしれません」
1943年、12月。日本軍の戦況は最悪だった。アメリカ軍の作戦により、日本軍は各島への物資補給が難しくなり、餓死者も続出。続く連敗により満身創痍だった。国内状況も悪化している。この年『中立新聞』は、第108刊で発刊を停止した。増田がいなくては、この新聞は成り立たないからである。
「増田さん、大丈夫ですかね」
嶋田が心配そうにやって来た。
「サイパン島はまだ大丈夫なようですよ」
私は新聞を指差しながら言った。そこには【堅守の砦、サイパン】と書かれていた。しかし、この戦況ではサイパン島もいつ陥落するかわからない。私は、増田なら死にはしないだろうと思った。
1944年6月15日、サイパンが陥落した。朝のラヂオを聴いて、私と嶋田は愕然とした。二人の脳内には、最悪の事態がよぎる。
「増田さん、大丈夫ですよね」
嶋田が言う。私は何も言えなかった。ふと、増田がサイパンに行く前に置いていった缶があることを思い出した。私は増田の机の周りの新聞を片付けると、その缶を開いた。そこには、幾つかの紙束が入っている。その中に、私の名前が書いてあるものを見つけた。
【私の見解ですが、この戦争が終わるのは45年の9月だと予想しています。もちろんですが、日本本土も攻撃を受けることになるでしょうし、敗戦は9割です。突然ですが、君は原子爆弾を知っているでしょうか。アメリカ軍が密かに開発を進めている、大量破壊爆弾です。日本で言うと、大阪の街を一瞬で吹き飛ばすことができます。そんな兵器です。これが、本土に投下されるかもしれません。私はそれを危惧しています。】
まるで未来人だな、増田は。嶋田の名前が書いてあるものもあった。気になるが、そっと仕舞っておいた。
同年8月から始まった空襲の影響で、私と嶋田は新潟に疎開していた。嶋田の実家である。新潟の田舎には珍しい、モダン建築だ。東京は死者で溢れた。私たちの事務所も、焼けてしまっているのではないだろうか。増田は、「戦争は残酷です」と言った。それは本当の意味での真実だった。数えきれないほどの人が死んだ。日本はどうなってしまうのだろうか。
翌年7月、日本はポツダム宣言を受理しようとしている。これを受理すれば、戦争は終わる。増田の予想は外れた。危惧していた原子爆弾は投下されなかったし、戦争が終わるのは2ヶ月早かった。私が疑問に思ったのは、当初、ポツダム宣言を受理しないとしていた軍部が、突然宣言を受け入れたことだ。そして翌週、ポツダム宣言は正式に受理された。
怖さより、安堵感があった。8割雑音のラヂオから聞こえてくるのは、天皇閣下の声か。それとも夢幻か。
鬱屈した人々の間を抜ける。私にはどうしても確認せねばならないことがあった。薄茶のモダン建築のドアを叩くと、中肉中背といった格好で、丸メガネをした男がいた。
「いらっしゃい」
軽く会釈する。申し訳程度に仏壇を拝み、いつもの革張りの席につく。
「一人はまだ還ってないみたいだな」
その一人とは、増田仁平。外国語が堪能だった彼は、どこからともなく英字新聞やらを入手してきて、そこからの情報と、常人とは思えない行動力で、押しも押されもせぬ一流のジャーナリストだった。
そして、増田を有名にさせたのが、国際戦争を批判的に報道したことである。そこに、私は報道の真髄を見た。結局それら記事が広く世に出ることはなかった。しかし、噂として報道界、文芸界などに徐々に広がった。その頃彼を知らないものは、相当な若手かもぐりであった。
仏壇を一瞥した。増田のことを思い出しそうになるのをグッと堪えた。
「私たち、どうなるんでしょうね、これから」
思案顔のまま固まった。
「なるようになるさ」
諦めの自嘲である。
なるようにしか、ならなかった。報道で世の中を変えられる状態ではなかった。この国は、もうそこまで来てしまった。
最後まで増田は帰らなかった。しかし、墨田に新しくできた会社があった。
所長の名前は増田仁平、報道に人生をかけた男である。
気鋭の記者六人を新たに加えて、『中立新聞』第110刊の原稿を作成していた。なんでも、ポツダム宣言受理に関して、すごい情報を掴んだらしい。戦争を止めることはできなかったが、新聞を通して増田が伝え続けた想いが結実しようとしていた。
※この小説は史実を基にしたフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
じっくり想像しながら読んでいただけたでしょうか。
面白いとか、つまらないとか、ありがちとか、なにか思うところがあったら評価から教えてください。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。