後編
その日、日付が変わる頃に、僕は部屋を出て、シャーロットが待つ地下室へと向かった。
僕たちが脱獄の計画を練り始めてから、今日で半年が経とうとしていた。
部屋を出た後、僕はいつもの通り厨房の近くにある鍵置き場から、地下室の扉を開ける鍵を取った。誰かに見つかったら“地下室に忘れ物をした”と言おう。地下室に向かうまでの間、僕はずっと心の中で、シャーロットと考えた言い訳を反芻していた。
「計画は、順調?」
予定通りに1人で地下室に入ってきた僕を見て、シャーロットが尋ねた。
「うん、順調だよ。ここへ来るまで誰にも会わなかった。」
とりあえず、ここまでの計画が順調に進んでいることに安堵しながら、それでも僕の身体は常に緊張で震えていた。
以前から用意していたスペアキーで、シャーロットのいる水槽の鍵を開ける。ここからはもう、後戻りはできない。この状態の僕を誰かが見つけたら、僕らの計画は一発で台無しになる。
お願いだから、誰も来るな。
鍵を開ける手が、緊張からくる嫌な寒さでガタガタ震える。ようやくカチリという無機質な音がして、シャーロットを閉じ込めていたガラスの水槽の扉が開いた。
「カイ、無理そうだと思ったら、私を放って1人で海に向かってね。」
2人を隔てるガラスの壁がなくなると、シャーロットは1番にそう言った。
「わかってる。約束は守るよ。」
水槽から出たシャーロットを、僕はそっと背負った。人魚であるシャーロットには、足がなく、陸地を歩くことが難しい。そのため、海までは僕がシャーロットを背負っていくことになっていた。
シャーロットの身体は、僕が予想していたよりずっと軽かった。普段から水の中で暮らしている人魚が、地上に上がるのは難しい。シャーロットは30分くらいなら平気だと言っていたが、やはり1秒でも早く海に着きたい。足音と物音に気を付けながら、できるだけ足早に海に向かう。いつもは10分くらいで到着できるはずの道のりが、今日は永遠のように長く感じられた。
海に着くまでは、計画は順調だった。だから、見慣れたはずの砂浜に、松明の灯りと見慣れた人影を見つけた時は、そのまま絶望で倒れてしまいそうなほどクラクラした。
「そこで何をしている。」
今朝聞いたばかりの聞きなれた声が、今は死刑宣告のように聞こえる。
「人魚を背から降ろせ。そして、お前はクビだ。以前からお前が、裏で人魚についてこそこそと嗅ぎまわっているのは気づいていたが、まさかこんな大胆なことをするとはなぁ。」
アーロンさんは薄ら笑いを浮かべながら、僕の方にゆっくりと近づいてきた。
「もう1度言う、今すぐ人魚を降ろせ。そうしたらお前の命だけは助けてやってもいい。」
「カイ、私を降ろして。」
シャーロットが呟いた。
「大丈夫だから。」
僕は背中のシャーロットに、そう返事をした。強がりや、根拠のない自信があった訳ではない。今までの会話から、僕はアーロンさんが、1つ大きな思い違いをしていることに気が付いたのだ。
「絶対に大丈夫だから。」
そう呟くと、僕はアーロンさんのいる海の方に向かって真っすぐに突き進んでいった。
「お前っ!?」
シャーロットを背に抱えたまま海に入っていった僕のことを、案の定アーロンさんは止めることができなかった。
欲張りなアーロンさんは、僕が人魚を商売に利用するためにシャーロットを連れ出したとしか考えていない。大切な商売道具を海に放すなどもってのほか。そしてシャーロットと共に、僕までが海に入っていくとは全く予想もしていない。
ざまあみろ!俺はお前とは違う!誰かを無理やり閉じ込めて、利益をむさぼり取ることなんて絶対にするものか!
事実、アーロンさんの製薬会社の利益のほとんどは、シャーロットの持つ不思議な力のおかげであった。文字が読めるようになったシャーロットは、僕が用意した本で、人魚の持つ力がいかに人間に重宝されているのかを知った。そして、改めて僕に脱走の協力を依頼したという訳だ。
僕たちは、はたから見れば2人とも、悪い大人にいいように利用され続けた可哀想な子供たちだ。だけど今の僕の心の中には、不思議とアーロンさんに対する怒りはなかった。
浜で何かを叫び続けているアーロンさんのことを無視したまま、僕は広い海の中を歩いて行った。そろそろ海の底に足がつかなくなってきた。クソみたいな人生だったけど、最期にシャーロットに会えて良かったなあ。こんな人生でも、これで最期なのだと感じると、途端にかけがえのないもののように思えてくるから不思議だ。
その時、僕の背中でシャーロットが歌を歌い始めた。満月の光に照らされた静かな海に、シャーロットのソプラノの歌声だけが響いてゆく。
夜の海には気を付けて
そこでは人魚が歌うから
人魚の歌には気を付けて
暗い海の底に引きずり込まれてしまうから
突然僕は、昔見た懐かしい夢の内容を思い出した。
忠告ありがとう、お母さん。
僕は徐々に、自分の足が足ではない何かに変わっていくのを感じた。シャーロットの歌は、まだ終わらない。自分の身体が人間から人魚に変化していくのを実感しながらも、僕の心は冷静なままだった。
だけどね、お母さん。
僕はそっと心の中で、ずっと前に死んでしまった母親に話しかけた。
このクソみたいな世界で、僕に唯一手を差し伸べてくれたのが、シャーロットなんだ。そう考えると、人魚の世界で生きていくのも、悪くはないだろ?
シャーロットの歌声が、僕の乾ききった心に響き渡る。海に響く人魚の歌は、僕にとって賛美歌のように聞こえた。
完