中編
日が落ちた後、僕はそのまま隣町にある古本屋へと向かった。僕はアーロンさんから今までもらったお金は、全て一人暮らし用の資金として貯めていたので、本を買うお金には全く困らなかった。
そして適当な本を3冊くらい手に入れると、今まで感じたことのない達成感と高揚感が僕を襲った。
次の日から、僕とシャーロットの奇妙な協力関係が始まった。僕はいつものようにシャーロットの水槽にお盆を運ぶと、そこからは日暮れまで水槽の前で勉強をする。シャーロットは基本、僕の勉強に口を出さない。ただ黙って、水槽の中から勉強をする僕のことを見つめている。
「カイが勉強をさぼらないように、見張っているのよ。」
ある日シャーロットが冗談めかしてそう言ったことがある。
「これじゃあどっちが監視係かわからないな。」
冗談に冗談で返すと、シャーロットは明るく笑った。
僕たちは、はたから見たら水槽に閉じ込められた可哀想な牢人と、生活のために幼いうちから働くことを強要された可哀想な牢番だ。だけど僕たちは、まぎれもなく協力者で、共犯者で、お互いがお互いのかけがえのない存在だった。
この時間がずっと続けばいいのに。僕は不意に、でも強くそう思った。
僕たちの秘密の協力関係が始まってから、半年がたった。僕はもう、世の中にあるたいていの本を難なく読みこなせるようになっていた。文字が読めるようになったら、シャーロットに文字を教えるという約束も、もうすぐ果たされようとしている。シャーロットの集中力は凄まじく、僕を超えるスピードで文字の読み書きを習得していっている。
「それでね、私もだいぶたくさん文字が読めるようになったし、そろそろずっと読みたかった本も読めると思うのよね。」
嬉しそうに話すシャーロットの前で、僕はようやく重い口を開いた。
「そのことなんだけどさ、本を読むのはもう少し待ってくれないかな。」
「どうして?」
心外といった様子で、シャーロットの目が見開かれる。
「本を買うお金が、もうないんだ。」
実際に、勉強が進めば進むほど必要になる本の数は増えていった。初めは3冊だった手持ちの本も、今では15冊くらいに増えている。そして、手持ちの本が増えれば増えるほど、僕の貯金は少なくなっていった。
「もっと働く時間を増やしてもらえないか、アーロンさんに相談しているところなんだけど…。」
「信っじられない!」
シャーロットが僕の前でキレたのは、これが初めてだった。
「10年近く働いて、一生懸命貯めたお金がどうして古本15冊分にしかならないの!?どうかしてるよ!」
「え?」
「アンタ、ずっと騙されてたんだよ!学校に行く権利も奪われて、ずっとあの金の亡者に安い金で利用されてきただけなんだよ!」
「そんなこと言うな!」
感情に任せて声を出すと、自分でも思ってもみなかったほど大きな声が出た。
「アーロンさんは、僕の命の恩人だ。」
言い聞かせるようにゆっくりと言葉を出すと、なぜか鼻の奥がつんとした。
だって仕方がないじゃないか。お金も身寄りもない僕が、たった一人で生きていける方法なんて、この世界には存在しない。だったら何も望まず、考えず、黙って働くのが一番楽で、賢いやり方じゃあないか。
「私と一緒に逃げようよ。」
シャーロットがぽつりと呟いた。
「ここにいたら、カイまでだめになっちゃうよ。私と一緒にここを出て、広い海で、一緒に暮らそうよ。」
シャーロットの目はどこまでも優しく、まっすぐに僕を見つめていた。
僕は本当は、アーロンさんが善意で僕を育てているのではないということに、心のどこかで気づいていた。だけど、全部気づかないふりをした。現実を知るのが怖かった。この世界で、僕のことを本気で気にかけてくれる大人が一人もいないだなんて、そんな現実に気が付きたくはなかった。
だけど、自分の願望を一つずつ殺していくうちに、僕の心はとっくに限界を迎えていた。だからシャーロットの気遣いは、僕の乾ききった心に久しぶりにゆっくりと染み渡った。
「ありがとう。」
涙で声が震えた。
僕は、シャーロットの脱獄の日に、死んでしまうのかもしれない。不意に一つの可能性が、僕の頭に浮かんだ。もちろんシャーロットの気遣いは嬉しいが、僕の体にはシャーロットのような鰓はない。僕が海で生きていくのは、到底不可能だ。
だけど、まあいいか。
不思議と死ぬことに恐怖はなかった。