前編
夜の海には気を付けて
そこでは人魚が歌うから
人魚の歌には気を付けて
暗い海の底に引きずり込まれてしまうから
幼い頃の夢を見た。ひどく優しい声だった。あの声は、僕のお母さん?小さい頃に病気で死んでしまったお母さん。ろくでなしの父親に代わって、たった一人で僕を育ててくれたお母さん。近くに頼れる親戚も友達もいなくて、ずっと一人だったお母さん。僕はこんなに大きくなったよ。また会いたいよ…。
「何をしている!早く起きろ!」
懐かしい夢の余韻に浸っていると、突然荒々しく部屋のドアが開き、罵声が降ってきた。
「すみません。すぐに仕度をします。」
慌てて服に着替え、部屋を飛び出すと、廊下にある窓から太陽の光が差し込んでいるのが見えた。
やばい。もう朝日が昇っている。これはアーロンさんが怒るのも無理はない。
もっと夢の余韻に浸っていたかったけれど、これが現実なのだから仕方がない。僕はいつものように厨房でお盆を受け取ると、そのまま地下へと向かった。
地下扉の鍵を開け、薄暗い地下室に入ると、見慣れた大きなガラス張りの水槽が目に飛び込んできた。その大きさに、僕はいつも圧倒される。
ガラス越しに中を覗き込むと、水槽の主はまだ眠っており、僕はほっと胸をなでおろす。そのまま梯子をのぼって水槽につけられた小さな扉の鍵を開けると、その中に存在する唯一の小さな陸地にお盆を置いた。これで僕の今朝の仕事はとりあえず終了だ。ここからは、日が落ちるまでの長い時間が始まる。
することが無くなった僕は、とりあえず水槽の主の観察を始めることにした。
燃えるように赤いうねった髪、宝石のように透き通った深緑色の瞳、陶器のように青白い肌。これだけの要素をあげたらわかる通り、彼女は人間離れした美しさを持っている。
そして実際に、彼女は人間ではない。
彼女の下半身には足の代わりにうろこに覆われたしっぽが付いており、彼女は一日のほとんどを水の中で過ごしている。そしてアーロンさんや厨房の人たちは、彼女のことを人魚と呼んでいる。
僕にはどうして彼女がこんな小さな地下室に閉じ込められているのか全く見当がつかないが、日中の彼女の様子を見張ることが僕に与えられた仕事なのだから仕方がない。言われた通りに与えられた仕事をこなすしか、僕には選択肢がないのだ。
アーロンさんは、僕の命の恩人だ。唯一の親である母親に先立たれた後、身寄りのない僕を引き取って、ここまで世話をしてくれたのはアーロンさんだ。アーロンさんがいなかったら、生活力のない僕は、とっくに野垂れ死んでいただろう。
アーロンさんは一か月に一度、僕にお給料をくれる。僕はいつか、貯めたお金で一人暮らしをするのが夢だ。支給されるお金はわずかだし、実際に資金が貯まるまでどのくらいの年月がかかるのか僕には全くわからないけれど、それでも僕はアーロンさんに感謝している。
「ねえ、あなた。」
薄暗い地下室でぼんやり考え事をしていた僕は、その声がどこから聞こえてくるのかわからなかった。
「ねえってば!」
人魚が喋った!?
恥ずかしながらこの時まで僕は、人魚が僕たちと同じ言葉をしゃべれるということさえ知らなかったのだ。
「な、なんでしょうか」
予想外の出来事に、思わず声が裏返る。
「あなた、私に文字を教えてくれない?」
「え?」
予想外のセリフに、僕の頭はついに思考を停止した。
「どうせ暇なんでしょ?いつもいつも水槽の前で考え事ばっかして、時が過ぎるのをただ待ってるばっかり。」
それから人魚は、まあ私は気楽でよかったけどね、と面白そうに付け足した。
「でも僕、文字は全く読めないから無理だよ。」
「どうして?」
人魚は不思議そうに尋ねた。
「学校に行ったことがないんだ。学校はお金がかかるし、日中は仕事をしなくちゃいけないから。僕はもう、これ以上アーロンさんに余計な迷惑はかけたくないんだ。」
口に出すと、なぜか涙が出そうになった。僕は本当は学校に行きたかったのだろうか?
「学校に行けないなら、ここで勉強すればいいじゃない。どうせ日が落ちるまで、時間はいくらでもあるんだから。」
「え?」
「文字が読めるようになったら私に教えて頂戴。読みたい本があるの。」
人魚の声には不思議な魔力があるのかもしれない。その声は、長い間思考停止状態だった僕の脳内に、直接響き渡ってくる気がした。
思えば僕は、アーロンさんに引き取られてから、自分で何か行動を起こすということを全くしてこなかった。やりたいことがあったとしても、自分には縁がない、仕方がないと、浮かんできた泡をつぶすように、いつも自分の願望を押し殺して生きてきた。
「わかった。」
ほとんど反射的に、僕はそう答えていた。
「ありがとう。恩に着るわ。」
それから人魚は、吸い込まれそうなほど大きな緑色の瞳で僕をまっすぐ見つめると、
「私の名前はシャーロット。あなたの名前は?」
と聞いた。
「僕はカイ。これからよろしく。」
そう答えると、今まで何の変哲もなかった人生で、初めて新しいことが起こりそうでわくわくした。