昭和40年1月 雪空の下の記録
東京オリンピックの閉会式から二ヵ月経った昭和三九年の年末。
オリンピック招致による経済効果は、人々のオリンピック熱が冷めるとともに薄れ、日本国内は証券不況または構造不況と呼ばれる不景気に喘ぐようになっていた。
多くの人が年末の楽しみにしていたのが、大晦日に放送される紅白歌合戦だった。
この年の「第一五回NHK紅白歌合戦」は紅組司会が江利チエミ、白組司会は宮田輝であった。宮田輝はNHKのアナウンサーである。
トップバッターは紅組が朝丘雪路、白組が北島三郎。トリは紅組が美空ひばりが柔を歌い、白組は三波春夫が俵星玄蕃を歌い語った。俵星玄蕃とは講談「忠臣蔵」に出てくる架空の人物で、槍で俵を刺して放り投げるという技の持ち主である。
年越しの蕎麦を食べ、銭湯での早めの入浴を済ませて、人々はテレビの前に集まった。東京オリンピックを機会に広まったカラーテレビでこの年の紅白歌合戦を観た人も多かっただろう。NHKや主要民放の本格的なカラー放送は昭和三五年頃から始まっていたが、紅白歌合戦は、この回からカラー放送された。ブラウン管に鮮やかに映し出された紅白の彩りに、人々は興奮した。
色鮮やかな夢を人々に見せた昭和三九年が暮れた。
翌昭和四〇年一月一日金曜日。東京の最低気温は六・四度、最高気温は一一・二度。北北西の風が吹き、時折陽が射すが曇りがちの寒い一日だった。皆震えながら雨戸を開け、冷たい水で顔を洗ってから身支度を整え、正月の挨拶を交わした。
なお、北海道札幌市の元日の最低気温は零下七・七度、最高気温は零下一・七度。積雪は二八センチほどあった。福岡県福岡市は最低気温五・二度、最高気温は一一・九度であった。
終戦から二〇年目のこの年、トヨペットクラウンは発売一〇周年を迎えた。純国産車として売り出されたクラウンは、昭和四〇年一月にグレードSを市場に投入。仕様は、一九八八cc、一二八ps、四速MTで五人乗りだった。左右それぞれ二つ目のフロントに、王冠のエンブレムをつけていた。前部座席、後部座席いずれもベンチシートで、コラムシフト形式、ウインカーはハンドルと組み合わされた半月系の金属リングを動かすことで点灯させた。国産自動車の生産と普及は、戦後の日本が力を注いできた復興の、一つのマイルストーンであった。
一月三日、日曜日の午後二〇時一五分、NHKの大河ドラマ第三作目「太閤記」が始まった。主演の大公秀吉は緒形拳、織田信長は高橋幸治、石田三成には石坂浩二がそれぞれ配役されていた。原作は吉川英治の新書太閤記。全放送の平均視聴率が三一・二%であった。
テレビアニメーションの「未来からきた少年スーパージェッター」の放送開始は一月七日、放送局はTBS。大相撲初場所は翌週の一月一〇日から。優勝は長崎県出身の佐田の山。佐田の山は場所後第五〇代横綱に昇格した。
前年に完成していた富士山レーダーは、観測開始の準備を進めていた。昭和三四年の伊勢湾台風など、大型の自然災害が続いており、正確な気象データを得る必要性が増していたのである。この富士山レーダーの正式な観測開始はこの年の四月一日。
一月一一日、伊豆大島周辺には大風が吹いていた。静岡県石廊崎で観測されたこの日の最大風速は二一・二メートル/秒。西からの風だった。翌日も二〇メートル/秒を越える強風が吹いた。
二一時頃、大島役場にほど近い元町桟橋近辺で小火が出た。急ぎ駆けつけた消防隊員らが消火にあたり、間もなく鎮火した。その後、午後一一時過ぎ、今度は元町桟橋近くの寿司屋から出火。二階座敷にあった石油ストーブを酔客が倒したらしい。その火はまたたく間に燃え広がった。
小さな町の人々は、寝床について間もなく鳴り始めた半鐘に怯えた。寿司屋を火元とする火事は元町の集落を燃え広がった。小さな町を燃やす炎は、遠く対岸の伊豆半島からも見えたそうだ。
鎮火は翌朝六時四五分頃。全焼戸数は四一八戸に及んだが、幸いなことに死者はいなかった。
その頃、佐藤栄作総理大臣は訪米の途についていた。一月一三日、一四日と続けてアメリカのジョンソン大統領、マクナマラ国防長官と会談した。前年に行われた中国の核実験に関連して、日本の東アジアにおける軍事的な位置づけを確認した。
佐藤総理は、その長い任期中に、日韓関係の修復、沖縄返還などを実現し、戦後の日本の地位回復、向上に努めていた。これらが評価され、後にノーベル平和賞を受賞する。
日本が復興を急速に進めていた頃、東アジア、東南アジアでは戦後の混乱がまだ続いていた。朝鮮戦争、ベトナム戦争と続き、南北対立は先鋭化していた。そんな中、イギリス主導でマレーシア連邦再編が進められた。前年、マレーシア連邦に北ボルネオが強引に併合された。それへの抗議を示す意味で、インドネシアがこの月、国際連合から脱退した。この後、八月にはマレーシア連邦からシンガポールが分離独立した。
一月一三日の夜、新潟市内のガソリンスタンド経営者の自宅の電話が鳴った。二〇時三〇分頃のことだった。この日の新潟地方は前線が通過中で、すでに一三センチメートルの積雪があった上に、二四センチメートルの降雪があった。
電話口の、警察を名乗る男は、その家の自動車が路上に停めてあり、通行の妨げになっているので移動させて欲しいといった。
家人は誰も思い当たることはなかったが、取りあえず状況を見ようと、三女が家から出た。この三女はデザイナーをしていた。三女は家を出た後、行方不明となる。これが新潟デザイナー誘拐殺人事件と呼ばれる一連の出来事の発端であった。
家族は三女を探すが見つからない、次第に夜の闇は深くなってゆく。
ガソリンスタンド経営者の家に、再び電話が入る。三女を連れ去った犯人からであった。
翌日の午前一〇時までに現金七百万円用意せよとの指示だった。家にいた家族は相談し、新聞紙で札束を偽造した。そして眠れない夜を過ごし、翌朝の犯人からの指示を待った。
翌一月十四日、それまで降り続いていた雪は止んだ。一一時五〇分、犯人から電話がある。犯人は、国鉄新潟駅の待合室まで現金を持って来るようにといって、電話を切った。家族は偽造した札束を持って新潟駅の待合室に行き、犯人からの接触を待った。
しかし、犯人は現れなかった。状況に戸惑う家族に、案内所から声がかけられた。電話がかかっているというのだ。電話に出ると、一三時二七分発の柏崎行きの列車に乗り、沿線に赤い旗を見つけたら、そこで現金を投げ落とせとのことだった。電話の声は中年女性のものだった。
家族はすぐに切符を購入し、指定された列車に乗り込んだ。平日の午後の車内は、乗客はまばらだった。窓際に座席を取り、走り始めた列車の窓から線路脇に目を凝らした。
赤い旗は、駅からほんの一キロメートルほど走ったところにあった。列車に乗り込んでいた家族は、その旗に気づくのに遅れ、指定された場所で現金を落とすことは出来なかった。もっとも、落とすことが出来たとしても、それは偽の札束であった。犯人に接触できず、偽の札束であることがばれてしまった場合、三女に危害が及ぶのではないかと考えて躊躇し、札束を投げ落とす機会を逃した、ということかもしれない。
なお、この列車から現金を投げ落とすという現金の受け渡し方法は、この数年前に公開された映画、黒澤明監督の「天国と地獄」を模倣したものであった。
犯人との接触に失敗した家族は、さらに不安を募らせていた。
三女の遺体は、同日の一七時二七分、新潟市関屋海岸の松林を抜ける道路上で発見された。この事件に、警察がどの段階で関与していたかがわからない。警察が新聞紙で札束を偽装するということを認めるとは思われない。この偽の札束を持って家族が犯人と接触しようとしていたときには、警察にはまだ誘拐のことは知らされていなかったのかもしれない。
三女の遺体発見後の捜査は警察の手で進められた。身元の確認のための連絡が家族のもとに届いた。そこで家族は三女の身に起こった最悪の事態を知ることになった。
司法解剖の結果、三女は一四日の朝九時までには殺害されていたことがわかった。つまり、七百万円の本物の札束を用意してあったとしても、三女が生きて帰ることはなかったのである。
警察は精力的に捜査を進めた。そして、現場に残されたタイヤ痕、足跡、不審人物の目撃証言などから、自動車修理工場経営者の息子が容疑者として浮かび上がった。この男の逮捕は一月二〇日。取り調べの結果、前年の新潟地震により工場が被害を受け、さらに工場経営者である父親の病気などで経営不振となってたことから、金目当ての犯行であったと自供した。
駅に電話をかけてきた中年の女性など、共犯者についても不明なままであったが、裁判の結果、この男の死刑が確定した。東京小菅の東京拘置所に収監されたが、昭和五二年五月二一日の朝食中に拘置所内で自殺した。職員の目が離れていたときに窓硝子を割り、その破片で頸動脈を切るという方法だった。
一月二〇日、日本航空がジャルパックの海外旅行第一弾を販売開始。ヨーロッパ周遊で、冬至の価格が六七万円強。それでも二〇組以上の申込があった。参加者一行は同年四月に出発した。
同じく一月二〇日、日本各地で平常値の二〇倍の放射能が検知された。ソ連の核実験によるものだった。
一月三〇日、東京では雪が降った。三〇日と三一日は東京の最低気温は零下になった。人々は薄っすらと雪に覆われて、一月最後の週末を過ごしていた。