第三十五話 縁談
カリムの父に予想外の話が来ます。頑張れ、コウハク。負けるな、コウハク。(; ・`д・´)
天地宮。謁見の間。
カリムとジュリアンが模擬戦闘を繰り広げていた昼間。カリムの父、コウハク・ツチツカミは己の進退を決する岐路に立っていた。
ここにやって来るまでに、年中桜と梅の花が咲き誇る優美な庭を抜けてきたコウハクだったが、彼はその景色が、これから自分が向かう天国への入口のように思えて、吐き気を抑えるのに必死だった。
伏した頭、折り畳んだ身体の内で腹を撫でる。
胃が痛い。気分が悪い。酒の飲み過ぎで息が臭いだろうから、今日は辞退したい。
子どものような駄々を言って、断るつもりだったけれど、呼び出しの書状には、『酒や体調を言い訳に謁見を断ること許さず』とまるでコウハクが飲んだくれを演じているということを知っているかのような言い回しで、蛮勇を以て言い逃れする気は失せてしまい、渋々ながら参上している。
「面を上げよ」
許しをもらっても牛歩がごとき微々たる速さで身体を起こしていくコウハクに、シャムトリカは苛立ったように急かす。
「速く面を上げよ。そんなことをしても時間の無駄だ」
そこから、コウハクは一転すぐに顔を上げた。顔色は悪い。彼は特に病気を患ってはいなかったが心労のせいで、これから病に罹りそうなくらいには顔色が青い。
「コウハク・ツチツカミよ。健勝なような何よりだ」
「シャムトリカ陛下こそお元気そうで何よりでございます」
彼の顔色を見て、何をどう判断したのか、シャムトリカは悪戯っ子のような意地の悪い笑みを浮かべて言った。
艶のある黒の長髪に、煌びやかな王冠、加えて、美人の笑み。凡人ならばこれだけでシャムトリカに心酔しかねないが、コウハクは惚れるようなことはなかった。
生まれてからずっと生き延びることに神経を注いできた男である。女には一定以上の美しさを求めるが、それ以上に妾のニイサのような癒しを求めている。
そんな彼にとって、面と向かい、口を開けば厄介事しか言わないシャムトリカ王は悪魔にしか見えず、色恋の感情など微塵も感じなかった。
この場には、王剣百士というシャムトリカの護衛を除き、コウハクとシャムトリカしかいない。二人きりである。たとえシャムトリカがどういった密談を交わそうと外に漏れることはない。
「さて、コウハクよ。今日はどのような用で呼ばれたのか、わかるか?」
「いえ、失礼ながら全く想像がつきませぬ」
内心では、想像がつけばすっぽかすなり、対策を練っていると憤慨していたが、表情には出さない。ポーカーフェイスは彼が人生で身につけた処世術の最たるものだ。
「陛下が直々にお告げになるほどの大事。私には想像ができません。私は王族とは名ばかりの酒好きでございますので、できることと言えば宴会で使用する酒の吟味くらいのものでしょう。ああ、それとも緑豊かな別荘地の紹介でしょうか? 確かに私は各地に別荘地を持って酒好きの遍く王族と宴や旅行に行く機会も多い。そういうことでしたら納得です」
むしろ、それ以外の案件は言ってくれるなとばかりに意思を込め、コウハクはシャムトリカに媚びるように微笑む。
だが。
「違う」
彼の予想はシャムトリカのたった三文字の否定で粉砕された。
しかし、口を閉ざして厄介事を引き受けるわけにはいかないと、コウハクは抵抗を止めない。
「では……」
「縁談だ」
しかし、それを遮る形で端的に要件を言われてしまう。
「縁談? ……縁談とはシャムトリカ様の縁談ということですか?」
コウハクは混乱した。
シャムトリカ・アマガハラという王は、中継ぎの王として君臨していたはず。その王が一体どんな経緯があって、縁談に繋がるというのだろうか。とはいえ、コウハクの縁談ということもないだろう。というのも、コウハクは一人の正妻と一人の側室、そして一人の妾という三人の妻がいる。そんな家に追加で妻を増やそうとするだろうか? いや、しないだろう。
そこまで考えて、やはりコウハクは混乱した。
そして、思い至る。
「ああっ! わかりました! ジュリアン様の縁談ということですね!」
「いいや、お前のだ」
しかし、現実は無情だった。コウハクがこれはないと切って捨てた可能性こそが真実だった。
妻が三人もいるコウハクに縁談。それもよりにもよって、その話を持ち掛けてきたのがシャムトリカというアマガハラ王国でも最も権力を持つ王である。
コウハクの全身から汗が噴き出る。
衣服が肌に吸いつくが、そんなことに構っている余裕はなかった。
「私……ですか?」
「ああ、貴様の縁談だ。コウハク・ツチツカミ」
「私には既に妻がいます」
「知っておる」
「一人ではなく三人います。一人は正妻、一人は側室、最後の一人は庶民の娘です!」
「知っておる」
「ではどうして!?」
縁談。これはこと貴族間のことになると、単純に当人同士の問題にはなり得ない。
たとえば、今のところ夫がいないシャムトリカ。彼女にもし平民の夫ができた場合、夫の家は王の夫にふさわしい家格に引き上げられるだろう。シャムトリカの例が極端なものであったとしても、貴族間では縁談は政略結婚なのだ。
これまでは飲んだくれを演じることで王位継承争いから逃れてきたコウハクも、結婚相手によっては望んでもいない王位継承争いに参戦することだってあり得る。
そんな危険を孕んだ縁談に、コウハクが否定的な態度をとるのも無理もないだろう。
「縁談相手は余の腹違いの妹であり、今は亡き先王シャルム・アマガハラの娘、イノヴェリエ・ツクミハラだからだ」
「龍の巫女……イノヴェリエ様と私との縁談ということですか!」
「そうだ」
コウハクにとって、イノヴェリエとの縁談は絶対に避けたい事態だった。
相手は先王の実子であり、シャムトリカが縁談を気にするくらいには親しい親族。そんな相手とコウハクが縁を結ぼうものなら、即刻コウハクは血生臭い後継者争いをしている王族の仲間入りをして、毎晩暗殺に怯える日々を過ごさねばならないだろう。
「私にはそのような大役は務まりません! 他に適任がいるはずです!」
「いないのだ。……貴様以外には」
シャムトリカは淡々と続ける。
「たとえば、次期国王となるジュリアンとするには年齢差があり過ぎる。それに我と違って次代の王は多くの子を持たねばならないからな。そうなると我や其方と年齢の近いイノヴェリエは不適格だ」
「たとえば、フシャール四家が担いでいる王族達。これも駄目だ。ジュリアンに王位が移ればナルカマカロが排斥するだろう。移らなくても後ろ盾同士が勝手に候補者を暗殺する恐れがある。奴らは見境がない。誰がどちらの勢力についただの、誰が裏切っただのと何かあれば王族を暗殺する害虫共だ」
「その点、貴様は良い。貴様が飲んだくれを演じていることは知っている。この王都で生き延びるため、どの勢力にもつかず、どっちつかずの放浪王族としてあっちこっちへ旅行に出ては時間を稼ぎ、王位継承争いの終着を待っている」
「余が求めているのはな、コウハク。貴様のように妻を残して先立つ心配のない、龍の巫女という大役を終えたイノヴェリエに、人並みの幸せを与えてやれる王族なのだ」
シャムトリカの本音に、コウハクは絶句した。
飲んだくれを演じていることがバレていたこともそうだが、こうも明け透けに本音を言われては言い逃れしようがない。
それでも、コウハクは一縷の望みを持って、提案する。
「ち、地方の……平和な貴族な下で余生を過ごしていただく方が、気が休まるのではないでしょうか?」
「嫌じゃ。……それでは余が顔を見に行けないではないか。イノヴェリエに困ったことがあれば、余が駆けつける。そのようにしておきたい」
「そ……そうでしたか」
コウハクは舌打ちしたい気持ちを必死に抑える。
「コウハク・ツチツカミよ。事情は以上だ。この縁談、受けてくれるな?」
「………………………ははっ、喜んで受けさせていただきます」
「まあ、安心するといい。余が其方とイノヴェリエの安全を保障する。フシャール四家が手出しするつもりならば王の力で以て打ち滅ぼそう」
「……ありがたく」
消え入りそうな声で、コウハクはイノヴェリエとの縁談を受け入れた。
天歴334年。初夏。最盛期を終え、王統から外れていた叡智派の王族、コウハク・ツチツカミと現王統である武断派の王族であり、先王シャルムの娘、龍の巫女、イノヴェリエ・ツクミハラの縁談が秘密裏に決定することになった。
この縁談を機にコウハク・ツチツカミの名は、本人の望みとは裏腹に、宮中に轟くことになる。
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王都の北東部。
天地宮から見て、右側にコウハク・ツチツカミの本邸がある。そこにある四方を障子で仕切り、完全に外界から隔てた上で、いつもは部屋の外で控えている使用人達、家で寛いでいた正妻・側室、皆を強引に追い出して、コウハクは灯りをつけず、太陽の薄明かりだけが差し込む部屋で立った状態で震えていた。
拳を握りしめ、歯を食いしばり、視線は虚空を睨みつける。
「……最悪だ。どうして私が龍の巫女などという何年も龍に仕え、貴族の礼儀作法すら忘れた外れと結婚せねばならんのだ!」
コウハクは机に上に置いてあった書物や燭台を投げ、障子を蹴破り、箪笥を引き倒し、息も絶え絶えに座り込む。
「ずっと耐えてきた。幼少の頃は王族にふさわしい振る舞いを身につけるために寝る間も惜しんで勉学をさせられた! 学院にいた頃は媚びる陰気な貴族共の相手に時間を奪われた。成人すれば自由に動こうものなら王位を狙っていると馬鹿なフシャール共が騒ぎ出し、あわや命の危機。……そして、今度は行き遅れの王族の相手だと? ……ふざけるなよ。私に権威があれば、イノヴェリエとの縁談など否と一言で断れただろうに……本当に嫌になる」
コウハクは一頻り暴れてから、一息つく。
そして、姿見の前に立ち、打って変わって微笑む。
「うむ、しっかりと笑えている。相手はイノヴェリエ・ツクミハラ。龍の巫女という大役を終え、シャムトリカ王の寵愛も厚い王族だ。決して不快な思いをさせぬよう、優しく振る舞わなければならない。本音に蓋を、仮面で魅せろ。もう、ニイサに癒してもらうことはできない。常に仮面を、彼女の理想の仮面を被るのだ。コウハク・ツチツカミ」
その日、コウハクは正妻と側室を部屋に呼び、イノヴェリエとの縁談をシャムトリカ王から提案され、それを引き受けたことを告げた。
そして、正妻にはイノヴェリエが正妻になることを認めてもらうため、一晩中優しい言葉で慰め続け、合間に側室の機嫌を取った。
コウハクは仮面を被り続ける。
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アマガハラ王国。
ワルミ領。ここは王都同様に王家が支配する直轄領である。
理由はただ一つ。
ここが最上位である紫珠の神威獣、水龍の住処がある領だからだ。
中央に大きな湖、龍湖が位置し、その周囲に四方八方に大小様々な水運が巡り、陸地は動植物が暮らしている。
ワルミ領には民家はない。
ただ一つ、龍湖のほとりにある荘厳な一軒家を除いては――。
横に広く、縦は二階建ての一軒家には一人しか住人がいない。
その住人は一軒家の入口の反対側に位置する龍湖に面した縁側に胡坐をかいて座っていた。
黒色の袴を着たスレンダーな体形の女性。艶のある肌で、瑞々しい水色の髪を肩口で切り揃えている。
彼女の名は、イノヴェリエ・ツクミハラ。
幼少の頃から、龍の巫女として水龍に仕えるために王都を離れ、龍の巫女としてこれまでの人生を過ごしてきた。父であるシャルムの死に顔を見ることもできなかった。
彼女の知識は偏っている。
まず、幼少の頃だけとはいえ、ある程度王都で王族としての教育を受けたおかげでそれなりの礼儀作法を覚えたけれど、今では昔のことすぎてテーブルマナーは絶望的だし、言葉遣いも怪しい。
しかし、理術についてはこと王立術理院を卒業した学生よりも優れている。いや、学士よりも優れているかもしれない。
――というのも。
『ねえ、スイ。都から手紙が来たのよ。小さい頃の少しだけ遊んだだけの私に、今の今まで気にかけてくれて、逐一手紙を届けてくれるシャムトリカ姉さんから』
『それはそれは……良かったじゃないか』
イノヴェリエの前には何もいないし、彼女は何を声に出してはいない。
だが、彼女は確かに会話していた。
念話。彼女は息をするように自然にこの術式を発動している。
『もう! 大事な話なんだから、水中に隠れてないで出てきて!』
『やれやれ……うるさい奴だ。……ちょっと待っていろ』
少し経ち、龍湖の湖面が揺らぎ、波紋が広がる。次いで波が起き、湖面から水龍が姿を現す。
水しぶきがイノヴェリエにかかるが、彼女がそれを気にする様子はない。
『出てきてやったぞ』
「うん、ありがとう」
爽やかなに感謝を述べたイノヴェリエは、「それじゃあ本題」と言って、続きを話す。
「私、どうやら近々結婚します!」
『随分と急な……話でもないか。確か我を抑えるためにシャルムが亡くなってようだし、巫女を変えるという点ではいつも通りか』
「なんで納得してるのよ。これで私とお別れになるのよ。……スイは寂しくないの?」
不安そうな表情のイノヴェリエに、水龍はなんと言い返すか悩む。
イノヴェリエは口こそ悪いが、生来の寂しがり屋なのだ。水龍には人の美醜はわからないが、巫女として仕える前は幼女ながら凛とした佇まいと容姿の美しさから麗水の美姫として大事にされてきたからお前も大事にしろ、という内容の手紙が先王シャルムから送られてきていた。ただの親バカかもしれないが、確かに水龍の記憶でもイノヴェリエほど容姿に優れている人を見る機会はあまりないのでそうなのだろう。
しかし、そんな容姿をしているくせに彼女は心が弱い。水龍にしては短く、人にしては長い時を過ごした中で、水龍もそのことを学んでいた。
『別に縁談が今生の別れということでもない。なんならいつでも遊びに来るといい』
「王都の貴族は巫女以外がワルミ領に向かうことを許さないわ」
『……ふむ、ならこうしよう。幸い次代の巫女を決めかねているのなら、依然として我と其方の繋がりも消えてはおらん。……少し待て』
水龍から光り輝く水球が飛び、イノヴェリエに命中する。
水しぶき程度では騒がなかったイノヴェリエもこれには面食らったらしく、
「何するのよ!」
と怒る。
だが、水龍は落ち着いていた。
『何……其方が寂しいとうるさいから、ワルミ領を離れていても当分は我と念話を繋げるようにしたまでのこと。我を思い浮かべて念話術式を発動すれば、いつでも話し相手になってやる。……ふう、これで満足だろう?』
「腹の立つ言い方ね。……まあ、いいけど」
イノヴェリエは軽やかに縁側を飛び立ち、水龍の顔の上に乗る。
「感謝します……水龍様。私ね、本当は心細いのよ。みんなが同年代の子どもの遊んだり、学院に通っている頃、私はずっとここにいた。ここでずっと、スイと楽しく暮らしていた以外……私には何もないから。礼儀だって忘れたし、言葉遣いだって乱暴。怖いのよ、王都に戻るのが……」
『心配するな……其方は強い。何せ我が直々に鍛えたからな。気に入らなければ殴ってしまえ』
「もうっ、王族がそんな短絡的なことできるわけないでしょう!」
『なら、我を呼ぶといい。……育ての親として、少しくらいは手伝ってやろう』
「……うん」
イノヴェリエは水龍の頭部に抱きつく。
『それはそれとして、そろそろ降りろ。お前も大人になったのだ。端的に言って、重い』
「なっ、乙女に向かってなんてことを……」
『何が乙女だ! 人の基準からして、其方はもう乙女の基準からは外れているだろう!』
「うるさい!」
その日。ワルミ領の動植物は怯えることになる。日中、ずっと水龍の住処で爆発音が轟いたのだ。彼らは思った。きっと水龍の機嫌が悪いに違いない。絶対に近づかないでおこう、と。




