春風
三月下旬の風が、服の隙間から僕を冷たく撫でて来た。
早春という割に、春なんてないじゃないか。
そう思ったが、天気だけは良くて、雲ひとつない晴れだった。
僕は今空港に向かっている。
前を歩くのは葵のご両親で、そのさらに前を葵が歩く。
留学に行くにしては小さめな紫のスーツケースをカタカタ転がしながら、時折吹く風に胸の少し手前の長さの髪を揺らめかせている。
また綺麗になったなと思った。
前に会った時より、背が少し伸びたのではと感じた。
きっと、普段歩く姿勢が変わったからだろう。
今の彼女には自信しか感じなかった。
※
僕と葵がこの世界に戻って来たのは、今日から半年前のこと。
異世界に行ったのは9月の初めだったが、戻って来たのは転移した日だった。
戻って来たときは、はじめはそれを信じられなかった。
森の中の変な空気を吸って気を失い、気付けば戻って来たのだから無理もないだろう。
そんな僕が安心するきっかけは、戻って来て初めに目に入ったスマホのメッセージだった。
"雄貴!戻って来てる?"
葵からのメッセージに、相変わらずだなと思った所で気付けば安心していた。
それで、この世界に戻って来た事を実感した。
彼女にその事を口にするのは恥ずかしいので言ってはいないが。
それから、2人の予定の合間を縫って一度だけ集まった。
カフェで小一時間、異世界であった事を話した。
もちろん留学に行く話もして、予定通り行けそうだと言うから本当に良かったと思った。
その時に話した事で、特に印象に残っている事がひとつある。
僕が、異世界に行った事に意味があったのかなと言った時の事。
「それ自体には意味はなかったと思うよ」
「元々大体の事に意味ってないと思う。だけど、それに自分で意味を持たせたから、異世界での時間がかけがえのない物になったんだよ」
「異世界での生活は、些細なところに目標を持てたから楽しかったんだと思う。まあ雄貴と行ったからってのもあるだろうけど」
最後の一言は恥ずかしいから余計だと思ったが、確かにそうだと思った。
意味は自分で作るものだろう。
元は何の意味もないまっさらな所に、自分の意志を持つ事で意味が生まれる。
異世界での生活の中で、僕らはまず自立した生活ができる事を目標にした。
それに夢中になって、やがてそれはシミラというあの世界にしかいない生き物との戦いに繋がった。
初めから使命が用意されていたわけではなかった。
自分達で決めて、使命を作ったようなものだ。
「葵、言う事変わったな」
「へへ。あの世界での生活のおかげかもね」
異世界での生活を通して一番成長したのは、間違いなく葵だったろう。
僕はひとつ、そんな彼女に言っておきたい事があった。
「葵、ありがとう。葵と旅が出来たから、俺はあの世界で楽しく生きれた。初めにお店開いたのだって葵の力だし、旅を続けられたのも葵がいたからだと思う。」
「こちらこそだよ。楽しかったよ、あの世界での旅」
※
空港に着いた。
飛行機が発つまではまだ1時間近くあった。
葵のご両親の提案で、僕らは最後に2人で昼食を取る事にした。
空港にある寿司屋に入る。
実は、そこは2人で初めて少し遠出した時に入ったお店だった。
遠出と言っても、飛び立つ飛行機を眺められる場所にデートで行っただけで、海外に行ったとかではないが。
ただ、横浜市から成田市までの距離は、当時の僕らにとってはちょっとした旅行だった。
そんなちょっとした所に幸せを感じられるのは、本当に大切な事だと思う。
そして、その些細な幸せを共有できる人がいる事は、もっと大切な事だろう。
別れ際だからそう思うのかもしれない。
それでも、こんな大切な事に気付かせてくれた彼女には、溢れんばかりの感謝の気持ちでいっぱいだった。
寿司屋に入って、僕はおまかせ握りのランチを頼んだ。
葵は、ランチの「梅」を頼んだ。
「梅ってさ、ここだと一番安いやつだけど基本的なネタ全部あって私は好きなんだよね」
「あの時も同じ事言ってたよな」
そうだった?と彼女は笑いながら言う。
そう言う所は変わってないなと思った。
自分では気付いてないのかもしれないが、僕は葵からささやかな喜びの感じ方を学んだ。
どこの店に入っても、彼女は高いものを選ぶのではなくて、自分が最も嬉しいものを選ぶ。
高いものが喜びをくれるとは限らない。
「そう言う雄貴だって、あの時と同じやつじゃん」
「板前さん選りすぐりのネタほど旨いもんはないんよ」
笑いながら、僕らは目の前に出された寿司を食べ始める。
前にお任せを選んだ理由は、高いから安泰だと思ったからだった。
今これを選んだのは、思い出に浸りたかったからであり、おまかせは旬の食材を使う事が殆どだからだ。
別れは、その人との出会いが当たり前ではなく、儚いものであると教えてくれる。
食材の旬は、一年中は続かない。
つまり、当たり前ではないという事だと思った。
寿司ネタを通してその一瞬一瞬の尊さを感じるから、僕はおまかせにした。
それは今この場面に最も合うだろう。
「あー、うま」
同じ事を同時に口にしたので、一瞬だけ合唱したようになった。
それを見た板前さんは、可笑しさが堪え切れていなかった。
少し吹いたようだったから、僕も葵も恥ずかしくなった。
「とにかく。雄貴、ありがとうね」
気を取り直すかのように葵が言った。
今まで堪えていたのか、その目には涙が浮かんでいた。
「俺の方こそ、ありがとう」
「フランスに行っても、頑張れよ」
「雄貴も頑張ってね。浪人するんでしょ?」
ああ、と言いながら、僕はこの先の1年間の勝負を思い浮かべた。
ただ勉強に励む1年は、辛いことの方が多いかもしれない。
でも、この瞬間や異世界での出来事が支えになってくれるだろう。
これから言葉の違う世界で、終わりのない挑戦に挑む葵を想えば、僕の挑戦はそんなに難しい事には思えない。
まあ、目指すのは最高学府だが。
時計を見ると、飛行機の時間まで15分になっていた。
すぐに会計を済ませて、葵の両親が待つ国際線の搭乗受付まで急いだ。
ご両親に一礼して、僕は少しだけ距離を置いた。
葵の家族の時間を、少し離れた距離から見守る。
葵のお母さんは涙を流していた。
お父さんは泣いていないが、多分強がっているんだろうなと思った。
こういう時、男は気丈でいようとするものだろう。
それから葵が搭乗口に向かうのを、少し離れた所からご両親と共に見送った。
泣いてはいたが、葵の歩みに躊躇いはなかった。
葵が見えなくなった所で、僕はご両親に礼を言って、走ってある場所に向かった。
飛び立つ飛行機がよく見える場所へ。
そこは風が気持ちいい場所だった。
着いて少し経つと、葵の乗っている鶴のマークの飛行機が見えた。
ちょうど滑走路に向かっている。
時計を見る限り、飛行機は定刻通りのようだ。
飛行機はそのまま、滑走路を走り出す。
こうして見ると、飛行機は無駄のない形をしているなと思った。
少し離れたここまで聞こえるエンジンの音を立てながら、飛行機は一気に加速して離陸し、高度を上げていく。
綺麗な白の機体は、快晴の空とよく馴染みながら見えない位置までそうかからずに飛び立って行く。
「葵ー!!!頑張れよー!!!!」
喉が痛くなるくらい、本気で叫んだ。
飛行機が見えなくなるまで、息を切らしながら繰り返し叫び続けた。
さっきまでの冷気が嘘のような春の風が、僕の顔を撫でる。
その風が僕らの背中を押してくれていると、その時思った。
今までこの物語を読んで下さった皆様、本当にありがとうございました。
書き始めた頃は、読んでくれる人はいないだろうなと思っていました。
ですが実際は読んでくれて、ブックマークに登録してくれる方がいて、本当に嬉しい気持ちで一杯になりました。
それだけではなくコメントをくれた方もいて、その中には僕の小説を読み込んでアドバイスや考察をしてくれた方もおり、本当に感謝の気持ちで一杯です。
この小説で戴いた感想やアドバイスなどのコメントは、これからも宝物として取っていこうと思っています。
至らない文章だったと思いますが、また近いうちに小説を書こうと思っていますので、もしその作品が面白いと思って頂けたら読んで頂ければ幸いです。
ここまで読んで頂きありがとうございました。




