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9. 不器用な書記官と輝く鱗

美森の授乳が始まると同時に、マタ王の手元にある『不快』ランプが消灯し、『泣く』スイッチが自動でOFF側にパチンと下がった。並行して、『快』ランプが点灯する。


「このランプが点灯したら作業は成功です。この流れを何度か繰り返して、成功する場合としない場合を海馬のプリシラ書記官にファイリングして頂きます。」


ルビーネが指差す方に目をやると、下の階に眼鏡を掛けた少女が見えた。彼女はゆっくりと大きめの文字で何か記載しては、不慣れな手つきでそれをファイルに綴じている。時々、自分の指を挟んで痛がっている様子も見受けられる。


ルビーネが通信機を使って「プリシラ書記官」と声を掛けると、少女は驚いて手元の書類をばら撒き、こちらを向いて苦笑いした。


「もう少し慣れてくれば作業も早くなって、複雑な書類整理も熟せるようになるはずです。記憶が溜まってくれば、データ検索もできるようになります。」


マタ王は、『快』と『不快』のランプ、そして彼女の作業の見当が全く付かなかったのだが、取り敢えず前者が自分の仕事なのだということだけは理解した。


暫く彼女が記録していく不器用な字を観察していたのだが、失敗しながらも必死で作業に取り組む様子が何とも愛らしい。プリシラとは追々話してみようと思う。


「マタ王様のお仕事は、今後どんどん増えていきます。今は整備中の計器もそれに伴い使えるようになりますので、少しずつ慣れていかれて下さい。」


ルビーネはそう言うと、少しだけ寂しそうな表情を見せた。


マタ王は不思議に思い、首を傾げた。今の会話でそんな表情になるような箇所があっただろうか。


「マタ王様」


『快』ランプが点灯してからというもの、部屋の至る所から生い茂っている神経細胞(海藻)が物凄い速さで弾けたり成長したりを繰り返している。ルビーネが何か一言二言告げたようだったが、辺りの騒々しさに上手く聞き取れなかった。



◇◇◇◇◇



「自分で行けるわ。大丈夫よ。」


今しがた、どっと押し寄せ流れてきた数々の来訪者に面食らっている少年へ、その内の一人が彼がしようとしていた案内を手で制した。透き通るようなアクアマリン色の髪に、シャンパンゴールドの鱗を持つ人魚だ。他に、鱗は同じ色だが、柔らかなローズクォーツ色の髪の人魚も連れ添っている。


二人が泳いで行く先には十二指腸(シャワー室)があり、そこを通過すると二人の身体はゼリー状に変わった。


暫く泳ぐと、イソギンチャクの森に着いた。奥は深く、どこまでも続いていて先が見えない。森には数多くの作業員が一定間隔に並んでいて、流れてくる様々な形や色のカプセルを、割ってはイソギンチャクへ投げ入れるという作業を繰り返している。


時折、頭上をハゴロモコンニャクウオのような優雅な(ひれ)を棚引かせながら、全身真紅の人魚が森の奥へと泳いでは消えて行く。


二人は、イソギンチャクが途切れて開けた場所に降り立つと、底の方から伸び出てきたチンアナゴやニシキアナゴに全身を突かれて身体検査を受けた。(くす)ぐったくて思わず身を(よじ)る。暫くすると、何も問題が無かったのか元いた場所へ沈んでいった。


アクアマリン色の髪の人魚は、近くのイソギンチャクへ近寄ってそれを掻き分け、中を覗き込んだ。すると、網目状の血管(トンネル)の中を、鮮やかな赤い魚や半透明の美しいタコたちが同じ方向へ流れるように泳いでいるのが見えた。


もう少し奥へ目をやると、中央に真っ直ぐなリンパ管(トンネル)(そび)え立ち、中に男が一人立っていた。頭からは髪の代わりに無数のウミヘビがうねっていて、肌は陶器のように白い。瞳には色が無く、月光石のように怪しい光を帯びている。彼は、覗いている人魚たちに気付くと掌を上にした状態で“こいこい”とジェスチャーした。


二人は、彼の異様な外見に一瞬怯んだが、アクアマリンの髪の人魚が唾をゴクリと飲み込み、後ろで怯えているもう一人の人魚へ視線を移した。


「先に行くわよ。」


そう言うと、イソギンチャクを掻き分けていた手を広げ、力を込めて奥へ押しやった。すると、彼女の身体は見る見るうちに砕け散り、イソギンチャクの中へと吸い込まれていった。


その欠片のいくつかは手前の血管(トンネル)へ取り込まれ、残りは奥のリンパ管(トンネル)へ向かって流れて行く。手を広げて構えていたウミヘビヘアーの男の元まで辿り着くと、欠片は人の形を成して彼の腕の中へ落ちた。


再構築されたその身体にはゼリー状になる前の色味が戻り、人魚の尾鰭の代わりに水掻きのある足が付いた。シャンパンゴールドの鱗はそのまま光り輝いている。


男は彼女を抱えたまま、先程のチンアナゴたちと同様に頭のウミヘビで身体検査をし始めた。(ひし)めき合っている蛇には絶句するものの、よく見ると美術室の石膏像程に容姿端麗である。首はすらりと長く、そうかと思えば全身各所に付いている見事な筋肉は正に芸術そのものである。それに気付いてしまえば、鼻先がぶつかる距離で突かれる刺激に身悶えしてしまい、彼女は涙目で真っ赤になった。


問題がないと分かると、男は腰の砕けた彼女の尻をパーンと叩き「行け」と一言だけ告げて立たせると、次はお前だと言わんばかりにこちらを覗くもう一人の人魚に向かって手を広げた。


一連の流れを窺っていたローズクォーツ色の髪の人魚は、自分もあれをやられるのかと思うと身震いして益々青ざめてしまった。



◇◇◇◇◇



「ねぇ、ルビーネ、これ何?」


マタ王は、ひらひらと舞い降りて来た光り輝く何かを一枚手に取ると、ルビーネへ(かざ)して見せた。


彼女はそれを見た途端、さっと表情を変えたものの「綺麗ですね」と一言告げたきり、すぐまた元の柔らかな笑みに戻った。


「基本動作のまとめをしたら、休憩にしましょう。」


マタ王は頷くと、掌程のその欠片を表裏返しながら見つめていた。


欠片は、シャンパンゴールドに輝いていた。



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