表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

新・悪魔の辞典

作者: 馬路キレ子

 ある夏の日の事。

物販雑誌編集の会社に勤める私は、書類の入った鞄を持って、いつも通り家を出た。

妻に投げかける「行ってきます」の声は、私の戦争開始の合図だった。駅に着くと毎朝のラッシュアワーに澱む電車に揺られる。ギュウギュウに詰められた電車の酸素濃度が低下してゆく。周りに女性でもいれば、まだ涼やかな気持ちでいられるが、そこに居るのは、膨らむ腹をスーツのボタンが飛んでしまうほどボンと突き出して、ハンカチを額から流れる汗に当て、肌着に染みきって湿気が浮く中年男性ばかり。別に中年男性を非難するわけではないが、暑い夏の時期に、これを見るのも触れるのも苦痛である。


私は、戦争を生き延びた。駅を降りて、腕時計を見た。


 まずい。いつものペースが完全に乱れている。時間的に見れば5分ほどの遅延。通常であれば、気にすることもない小さな遅れだったが、私の上司は時間にうるさい人で、例えば自分の部下が一分、一秒でも遅れれば、今日一日の戦争を確実に『ふい』にする。


 私は、小走りに近い速度で足早に歩みを進め、社がテナントに入ったビルの前の大通りに差し掛かる。いつもと概観の変わらない大通りを渡ろうとすると、私の死角から思わぬものが飛び込んでくる。


私は、猛スピードで突っ込んできた自動車に後ろからねられ、両足を横骨折した。


 全治一ヶ月。幸いにも当たり所が良かったのか、足の骨が何本か折れる程度の単純骨折で済んだ。知らせを聞いて駆けつけた妻は、涙の溜まった心配の眼差しで私を見、目が赤くなるまで徹夜で看病をしてくれた。対照的にその後にかかってきた上司の電話は、非常に冷淡で冷酷な皮肉に富む私への誹謗中傷の数々だったが、車内規定にある病気休暇という形を変えられるはずもなく、上司は渋々長期休暇を承認した。


 決して丈夫なほうではない私にとって、この事故は生まれて初めての大怪我の体験だった。私は年甲斐も無く、ただ痛みに対して無防備に泣いた。泣きじゃくった。

 ただ、その中でも不幸中の幸いだったのは、仕事が繁忙期を過ぎていたことだった。「仕事仕事」と忙しい毎日を送っていた私が居なくとも、会社は回ってゆくという安心感。誰かの足を引っ張る事が嫌いな私にとってこれは、何にも代えられないものだった。


 私は事態を前向きに捉えようとした。よく考えればこれは、日ごろの激務に対する天からの恩赦ではないか。毎日戦場をあくせく右往左往していた私の精神と肉体を休めるための恩赦。上司の小言も聞かずに一ヶ月休暇がとれることを思えば、足の不自由というハンデはあれど、これは最高の休暇ではないか。


 そして私は思い切った行動に出た。喧騒に埋もれる都会の病院を抜け出し、山間にある静かな療養所にお世話になった。別に骨折程度なら、何処でも直せると高をくくった私は、療養所の使い古されたベッドに横たわりながら、窓から差し込む穏やかな風に伝わる土の匂いが、なんとも懐かしく感じた。


 山間の奥に見えるロープウェイ、店先のシャッターが疎らに閉じた寂れた街、ただすくすくと太陽の日差しを受けて育つ畑のビニールハウス。私の故郷は、冬になれば雪が背丈よりも積もる北陸の小さな街なのだが、この風景から来る郷愁感は、どこか俄かに故郷と重なる錯覚デジャヴを感じさせる。


 いつの間にか私は、都会での日常を振り返っていた。

思えば編集の仕事についてから、何度妻を泣かせたことだろう。ほぼ毎日休み無く働き、毎日記者とライターと上司との中間に立ってゴネりと相談に明け暮れ、満足に出来たと思った雑誌が酷評されながらも、隔週、毎月の締め切りに追われる。38度の高熱を出しながらも、得意先に回らなければならない日々。繁忙期は、ほぼ不眠不休で会社に寝泊りすることも多かった。


考えれば考えるほど、今までの日常が、ひどく病的であったことを認識させられる。



「看護婦さん。ここは良い所ですね」

「そうですか?こんな田舎が良いなんて、おかしな患者さんですわ」


それから私は、伸び伸びと充実した療養生活を送った。

毎日の通勤や、仕事の人間関係でストレスを感じることも無い、無音の中の日常は、いつの間にか病んでいた私の心への良い薬となった。


「ふう…」


しかし、人間とは不思議なものである。

ストレスを感じない毎日の充実感は、その内に満足を通り越して不満となる。

仕事というストレスの無い退屈な日常が、楽園とも思えたこの場所を平坦にしてしまったのだ。私は、厭きていた。


そこへ、見知らぬ風の男が私を尋ねて来た。


「退屈でしょう?」と馴れ馴れしく男は言う。

私は見栄を張って「そんなことはないですよ」と言ったが、男は返す返す私の心を読むように、「満足は不満足の始まりなのです」「こういう所に長く居る人は皆そうなのです」「隠すようなことではないですよ」などと核心をついてくる。

私は苛立つよりも先に、男の素性が気になった。


「いったいあなたは誰なんですか」

「ただのお節介ですよ。退屈した皆さんに、この本を配っているのです」


男は、まってましたと言わんばかりに一冊の分厚い本を私に差し出した。

本のタイトルは『新・悪魔の辞典』。

一度知れば、二度と忘れる事は無いだろう見覚えのある本のタイトルを見て、私は男に尋ねた。


「悪魔の辞典?あのアンブローズ・ビアスの?」

「おお、ビアスをご存知で?それは珍しい。著者は違いますが、ビアスの影響を受けたと聞いていますよ」

「へえ、それは…」

「それにしても良くご存知で。私は長い間この本を配っていますが、ビアスの名前を知っている人に出会ったのは、あなたが初めてですよ」

「今は編集の仕事をしてますが、その前は評論の方を少しかじってたので」

「そうですか。では、きっと気に入ると思いますよ。特にあなたのような退屈な人には…」

「ちょうど退屈していたんだ。これはいい。読んでみますよ」


パラッ…と私が本を開けた瞬間、それまで声が聞こえていたはずの男の姿は、スッと目の前から消えていた。きっと他の病室にも、この本を紹介して、地道な宣伝活動を繰り返しているのだろう。だとすると著者は彼か?いや、まあ深く考えるのはやめよう。タダで退屈しのぎが出来るのだ。彼には感謝の言葉を述べねばなるまい。


 ここで一つ著名な作家ビアスの紹介を…いや、ここでは技巧家の紹介と言おうか。

技巧家アンブローズ・ビアス氏の残した『悪魔の辞典』という本を、皆さんはご存知だろうか?いわゆる人間の表面と臆面に介在する習慣的な物や言葉を、氏の皮肉と冷笑に飛んだ意訳と独自の解釈を加えたものであり、過去参画していた新聞において隔週で発表されていた物をビアス自身が短編集として世に出し、その手の人に「ビアスと言えば?」と聞けば、この本の名前が帰ってくるような氏の代表作品として有名な物である。


「どれどれ、読んでみるか」


私は空白の1ページ目に見切りをつけ、2ページ目をめくった。

そして、その本の構成に驚いた。

編集者として、私の想像していたこの本の文章構成は、言葉のエッセイというか、作家に対する感想文というか、良くてビアスの評論に近いもの、悪くて空白の多い詩に近い構成だと思っていた。


 だが、この本は違ったのだ。


この『新・悪魔の辞典』は、本家『悪魔の辞典』の『A』から始まり『Z』で終わる仕組みにのっとり、『あ』行から始まり『わ』行で終わる本格的な辞書形式のものだった。目に飛び込んでくる数千、数万に及ぶ言葉の羅列の解釈からは、作家の苦心が見受けられる。


 私は興奮した。


この膨大とも思える語学の集約は、療養生活でくすぶっていた物読みとしての感覚を大いに奮い立たせたのだ。


私は早速、『あ』行の最たる『愛』を調べた。


■愛 (あい)

世間に増徴する麻薬。または重大な流行疾病。食事と同じで、得なければ死ぬと囁かれる。摘発する組織もなければ、絶滅させることもできない。過度に摂取すると迷惑をこうむる。善意で分け与えることもできるが、欲が絡むと弊害を生じる。為政者と偽善者が、金の次に口にする言葉。


「なんとも皮肉に満ちた言葉だ」


私は次に、『い』行の最たる『嫌』を調べた。


■嫌 (いや)

孤独を求める他人からの拒絶。または求愛の態度。男女で意味合いが違う。男の場合は、欲の対象外だということ。女の場合は、気を引いて既成事実を得たいということ。


「ははは、たしかに本家っぽさは出ているな」


私は次に『う』行の最たる『運動』を調べた。


■運動 (うんどう)

労働者を上手く束ねるための規則。獣の場合は群れとなるが、人間の場合はこの言葉になる。一つの宗教信者が、徒党を組んで現実を支配しようとすること。ごくまれに現状の支配者との戦いになるが、失敗して命を落とす例もある。


「流石に奥が深いな」


私は次に『え』行の最たる『絵』を調べた。


■絵 (え)

ごまかしの美学。目が潰されていなければ、世界に最たる共通言語。または精神異常を来たした者だけが描ける、心の中の妄想が具現化したもの。長く親しむと肉体を蝕む。瞬間的な妄想で終わらせられなければ、手をつけてはいけない禁忌の物。馬鹿には見えない。


「うん、たしかに」


私は次に『お』行の最たる『怒る』を調べた。


■怒る (おこる)

舞踏会で踊る貴婦人の腹の中に飼われた獣。平静な大人の下にある純粋な子どもの殺意。基本的には銃と同じ。長期間の嫉妬や挑発によって引き金が引かれ、瞬間的な排他欲が弾丸となって相手を射殺す。女に自由を与えると発病しやすくなり、これの予防接種を受けた男は、たいがい去勢されている。


「…」


私は読んでゆく内に、顔を強張らせていった。

いや、その内心は笑っていたのかもしれないが、筆者の独特な世界観に飲み込まれ、ページをめくる手と、文を追う目を止められなかった。


■過労 (かろう)

怠け者が作った言葉。休むための嘘。誰かが言い出すと止められない伝染病。為政者がこれを防ぐ場合は、見せしめに首を一つ落とせば良い。皆、死ぬまで喜んで働く。


■貴族 (きぞく)

庭に伸びた雑草を刈る芝刈り機。刈った芝が絡んで故障することもある。抑圧的な物を全て取っ払った快楽主義者。


■空間 (くうかん)

酸素のある密室。最初は広く感じるが、居れば居るほど狭くもなる。


■敬称 (けいしょう)

決闘の時に侮蔑と差別によって生まれた言葉。誰かを勝手に祭り上げられる時に使い、言われた者は押し付けられた不条理の中で自惚れる。


■孤独 (こどく)

人類が発明した、最初で最後の善行。どんなに群れて、他人に尽して生きた者でも、生まれる時と死ぬ時には、皆棺おけの中で独りになる。


■砂漠 (さばく)

貧困層の心の中。奴隷達の住む場所。欲深い者の末路。緑豊かな森も、水源豊かな川も、気候豊かな自然も、奴等に脅かされるとすぐに、全てが砂に埋もれてしまう。


■死 (し)

最も崇高で、最も自由に溢れ、最も刹那的な快楽の一つ。普通の人間では、その崇高さを考えることすら難しい。類語で自殺という言葉があるが、一度きりの大変趣き深いゲームで、絶望した現状を脱出できると望む者が体験している。体験者は地獄に収監されるが、俗世での垢が抜けず、もう死を得ているにも関わらず、また死を願ってしまう者もいる。


■好き (すき)

誰かを犯し、傀儡とするための免罪符。きんと同じで、増えれば増えるほど価値の下がる物。


■正義 (せいぎ)

偏見に満ちた一方的な重圧。または支配のための大義名分。為政者の多くが好んで使うが、その為政者に、この言葉の真の意味は理解できていない。復讐の類義語。


■戦争 (せんそう)

正義、あるいは略奪によって引き起こされる最高の非日常的エンターテイメント。取り締まるべき法が介在しない、唯一の治外法権が許されたショー。


■粗暴 (そぼう)

未開の奴隷達を呼ぶ総称。自分の事を棚にあげた嗜虐に満ちた民衆が、こぞって独りを指差して、口を尖らせながら笑うことの出来る魔法の言葉。


■退屈 (たいくつ)

肉を求めた蛮族が、食えないために残した鹿の角。そこに価値があるという事が理解できなくなった、老い先短い老人達が死に目まで言い続けるお経のようなもの。


■怠惰 (たいだ)

未来ある若者が現実に挫折した時に使う言葉。長期間慣れてしまうと逃げ出せなくなる、無常の病。


■知識 (ちしき)

他人を見下すための優等性を引き出す物。言うだけの愚者には、一生手に入れることのできない論理的な術。天才と自惚れる学者の自尊心の結集体で、これが一度論破されると今まで出来たピタゴラスが、とたんにニーチェになる。これは振りかざす時を間違えると、大変なしっぺ返しを喰らうという一例。


■通例 (つうれい)

おしゃべりの家畜が言う決まり文句。


■的確 (てきかく)

誰かをある一定の場所に縛り付けておく為に、上司が言う嫌味。またはコンプレックスの一角。


■当然 (とうぜん)

誰かが一方的に決めた価値観の押し付け。


■成金 (なりきん)

淡水の中で我が物顔で泳ぐナマズ。淡水という温床で育っているため、海中に放たれれば途端に死んでしまう。


■憎しみ (にくしみ)

健全なスポーツマンに最も必要な物。卑怯という手法が加わると、なお健全さを増す。


■塗り絵 (ぬりえ)

他人が描いた線を塗りつぶす事。多人数の芸術。


■捻れ (ねじれ)

ボルトを永続的に銅線で巻いてゆくと、いずれ起こってしまう事故。太陽の差込によって出来る影の部分。あらゆる生物に存在する違和感の感じ方、または霊長類であることの証明。


■野良 (のら)

群れを追い出された優れた社会不適合者。理論を売りにするジャーナリストより気分屋で、言葉を売りにするキャスターより口が回る。


■ノルマ (のるま)

馬の尻を叩く鞭。


■破綻 (はたん)

ラスベガスで有名なギャンブラーが、今日も今日とて莫大に銭を儲けた時に言った一言。「ギャンブルに勝つ方法?それはギャンブルをしないことだ」


■悲嘆 (ひたん)

愛するべき者が死んだ時に、涙や声で動く目盛りを量る天秤のようなもの。


■不等 (ふとう)

等しくないという差別の最たる事象。現状に優遇された者ほど口にする。


■変態 (へんたい)

過去、または未来から来た言葉巧みな旅人。罪を犯して捕らえられると皆口々に、1000年前の過去は許された、1000年後の未来には許されるでしょうと言う。時代と常識は普遍的に変わってゆくという事。または現代社会において、逸脱する趣味を持つ変身願望者。


■保身 (ほしん)

親と子が激流の川に落とされた時に、親は溺れそうな子を必死に抱きとめ、子は溺れまいと必死にしがみついて親を溺れさせる。激流の川が、足の着くくらいの浅さだと知らない愚か者を笑うための言葉。


■魔王 (まおう)

大多数に敵対された合理主義者。為政者がなるべくしてなったもの。


■神酒 (みき)

酒の神バッカスが、ゼウスに禁酒令を言い渡された時に悩み悩んで言った言葉。その精神は脈々と受け継がれ、現在では戒律の厳しさに耐えかねた坊主が使っている。


■無駄 (むだ)

この素晴らしい辞書を読んでいる、あなたの大切な時間のこと。



「…う!」


私が無駄という項目を見た瞬間。現実世界へ帰ってこれた。

熱中して読む内に、いつの間にか辺りは夜になっていた。

見回りに来た看護婦の声が聞こえる。


「もう消灯時間ですよ」

「ああ…はい」


私は悪魔の辞典を傍らに置きながら、暗くなった病室の毛布の中で、久々に得られた充足感に胸を躍らせながら、まどろみの中に落ちていった。


「まだ退屈ですか?」

「いや。あなたのおかげで退屈は無くなりました」

「そうですか。それは良かった…」


夢の中で、あの見知らぬ男と会話した。

この男は一体、誰だったのだろう。


「ふふふ…ははは…」


長い療養生活が過ぎていった。

だが、この悪魔の辞典を手にした私に退屈は無かった。

あの辟易するほど嫌だと考えていた戦争のような日常が、悪魔に囁かれた今は、とても楽しそうに見えたからだ。



【完】



■アンブローズ・ビアス

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%93%E3%82%A2%E3%82%B9

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ