約束
にゃーにゃー鳴きながらまとわりついてくる猫たちをあやしながら部屋に入る。
部屋の中はきれいに整理されていた。母が掃除をしてくれたようだ。
母が山盛りに入れてくれたはずの猫たちのえさ皿は空っぽだ。
「はい、ごはんですよ-」
えさ皿にドライフードを入れると、黒猫のチョコが真っ先にガツガツと食べ始める。
三毛猫のミーコはチョコの脇から遠慮がちにボリボリ食べる。
茶トラのトーラは…… 2人が食べる様子をじーっと観察中。
別のえさ皿に取り分けてやっても、この猫はなかなか食べようとしないのだ。
チョコが満腹になって場所を離れてから、ようやくトーラの食事タイムだ。
いつもの食事風景。
わずか1週間ぶりだが、とても懐かしい風景……
ああ、僕は帰ってきたんだ……
しかし懐かしさと同時に寂しさを感じるのはなぜだ……?
僕は一週間、病院のベッドの上で意識を失っていた。
その間に夢を見ていた。
とても長い夢…… その夢の内容は…… 目覚めた時よりもさらにぼんやりとしている。
何か大切なことを忘れているような気がするのだが……
座椅子に座り、腕を組んで夢の内容を思い出そうとしていると、「ニャー」と鳴きながらチョコがひざの上に乗ってきた。
頭と耳をモフモフしていると、喉をゴロゴロ鳴らし始める。胸のふわふわな部分をモフモフすると僕の手をぺろぺろ舐めてくる。背中から尻尾の付け根の部分をすりすりすると、尻尾をピンと立てて目を細める。
気持ち良さそうにしているので、調子に乗って腰の辺りをすりすりすると「ニャン!」と言って僕の顔を見てきた。
「あ、ごめん!」
僕は反射的に謝った。猫のチョコに!? セクハラしたわけでもないのに?
視線を感じてふと見ると、ミーコとトーラは僕らの様子をじっと見つめていた。
僕も2人を交互に見つめてやる。猫はあまり目を合わせたがらないものだ。
しかし、今日の2人はどこかおかしい。
目を逸らすことなく僕の目を見つめ返してきた……
「ニャァァー!」
何を思ったか、チョコが僕の膝から降りて、ミーコとトーラの間に座った。
「何? チョコもにらめっこやるの?」
「ニャー」
チョコはこれが遊びだと思ったらしい。
「…………」
思ったの? 本当に?
「…………」
僕は3人に向かって話しかける。
「久しぶりに猫に戻って、戸惑っているのか?」
すると……
チョコ、ミーコ、トーラの3人は……
器用にも二本足で立ち上がり、「にゃー」と言ってにっこり微笑んだ。
病院での精密検査も終わり、2週間ぶりに仕事に復帰した。
市役所では相変わらずの情けない「仕事ぶり」なのだが、周りの人たちの反応は暖かかった。
顔の怪我は抜糸も済んで絆創膏を貼っているぐらいなのだが、僕が交通事故に遭った話は所内に知れ渡っているようで、みんな優しく声をかけてくれる。
僕はその話題をきっかけにして、所内のいろいろな人と話をするようにした。以前は仕事に関わる人たちとは事務的な対応しかしていなかったけれど、こうやって話をするようになると一人一人の性格や考え方などがわかるようになってくる。自分の居場所が増えていくような気持ちになる。
上司の指示の仕方などもきちんと観察して、自分の参考にしようと思った。いつか、僕にもリーダーの役が回ってきたら、役に立てばいいなと思う。以前なら自分が怒られない程度にやり過ごせばいいと思っていた仕事も、工夫してより短時間に多くの仕事をこなすようにしてみたら、楽しくなってきた。空いた時間に同じ部署の仲間に声をかけて手伝うようにしてみたら、他の人からも声がかかるようになってきた。こうしてチームワークというものが出来上がっていくのか……
ただ、僕には変えられないものがある。それは定時に帰ることである。
「吉原さん、今日もお早いお帰りで。デートですか?」
受付係の伊織さん、26歳独身女性が話しかけてくる。
「はい、これから彼女2人、男の相棒1人とお家デートですよ!」
「ふふっ、相変わらずですね吉原さん! 退院おめでとうございます!」
にっこりと笑う伊織さんは、年上だけれど可愛らしい女性だ。
以前なら『じゃあ……』と手を振って帰るところだが、今日は彼女に確かめたいことがある。
「あのう…… 伊織さん、家に銀色の猫を飼っていない?」
「銀色の猫!?」
「いないですよね…… すみません変なこと訊いちゃって……」
僕が帰ろうと歩き出したその背後から、
「あっ、吉原さん! ちがうんです、私びっくりしちゃって…… 家にいますよ、銀色の猫。コラットという種類の猫の親子が……」
「えっ!?」
「いますいます。職場ではその話一度もしたことがないから。なぜ知っているの?」
「会ってみたい!」
僕は興奮してカウンターに両手をついて、伊織さんに迫った。
伊織さんは一瞬引いたように見えたが、僕はそれ以上に興奮を抑えることはできなかった。
「えっ!? 家の猫にですか?」
「そうです!!」
僕は伊織さんの右手を両手で握りしめ、
「今度伊織さん家に行ってもいいですか?」
「ええっ!? 家にですか? いきなりですか?」
伊織さんは左手を口元に寄せ、驚いた表情をしている。
その反応を見て、僕は自分がとんでもないことを言っていることにようやく気づく。
伊織さんはマンションに一人暮らしをしていると以前話していた。女性の一人暮らしの家に年下とはいえ僕が訪問したいなんて……
僕はどうやって話を取り下げようかと思案していると……
「はい。いいですよ!」
伊織さんは少し顔を赤くしてそう答えた。
「えっ? いいの……?」
彼女の右手を握っていた手からすっと力が抜けそうになる。
すると彼女は両手で僕の手をぎゅっと握り返して、
「じゃ、約束ですよ!」
といって元気よく上下に振った。
伊織さんのふくよかな胸がぷるるんと振るえた。
「ところで……」
約束の日時を決めて、立ち去り際に、僕はもう一つの気になっていたことを尋ねる。
「その銀色の猫ちゃん、何歳ですか?」
「そうね-、たしか――――」
次回、いよいよ最終回です。あと1話、お付き合いお願いします。




