保健室の縁 4
先輩は白衣のポケットに手を突っ込んだまま、しばらく黙っていました。
「……変かな?」
「え。えっと……変、では。ないですよ?」
似合っているかどうか、と言われると、似合っているのだと思います。
少しだけよれたそれは、長年着続けた制服のように、先輩が着ている事が当たり前のようにも見えました。
どうしてそう感じたのかは分かりません。
先輩は私の答えに「そう」とだけ答えて、言いにくそうに口を動かします。
「……ん。実は話しておかなきゃいけないことがあって」
「?」
普段は着る機会のない白衣を着て。
私に離したい事があって。
それはつまり。
「何かの罰ゲームですか?」
「いや。そうじゃなくて」
咄嗟に答えてしまったらしいその言葉に、先輩は自分でくすりと笑いました。
「は――ははっ。君は本当、叶藤に似てるな」
「へ?」
私は確かに叶藤ですが、それは。その呼び方はなんだか、別の人のことを言っているようでした。
そもそも、先輩は私のことを「叶藤くん」と呼ぶのです。
呼び捨てにするような、先輩がそれだけ親しそうに笑うような叶藤が、他に居るのでしょうか?
いえ、この苗字、親戚以外で出会ったことはありません。
ならば。その「叶藤」は一体。
「あの。先輩……?」
「うん」
「先輩は、一体誰のことを話してるんですか?」
「――」
先輩のくすくすと笑っていた声が、ぴたりと止まりました。
聞いてはいけないことを言ってしまったのでしょうか。眼鏡の奥の目が、なんだかひんやりとしているように見えました。
ですが、それはすぐに伏せられて。先輩は小さく溜息をつきました。
「うん。ごめん。別に怖がらせるとかそんなつもりないから。……今日はその。話をしにきたんだ。オレは君に、謝らないといけない」
「え。私、何も……」
謝られるようなことはありません、という言葉はポケットから抜かれた左手でぴたりと止められました。
「ううん、謝らなきゃいけないんだ。ごめんね。叶藤くん」
「一体、何がでしょう……?」
「オレな、君に嘘をついてたことがある」
「へ? 嘘ですか」
先輩は申し訳なさそうにうん、と頷きました。
「全部ここが原因なんだけど。まずはオレの名前」
「名前。ヤゲン先輩じゃない、のですか?」
「うん。それ、嘘。偽名ってやつ。本当のオレの名前はね――ヤツヅリという」
「や、つづり……」
繰り返すと、先輩は「そう」と頷きました。
「薬に綴ると書いて、ヤツヅリ。それがオレの名前」
「えっ」
「君が何度も話して聞かせてくれた薬綴ってね、オレのことなんだ」
「――」
薬綴。
それは。これまで何回も話していた名前でした。
確かに、ヤゲン先輩はあの写真によく似ていました。
それが。まさか。
本人だと。先輩は言いました。
「は……はは。先輩。エイプリルフールは来月ですよ?」
「うん。だから、嘘じゃないんだ」
「ああ……」
そうですよね、と言葉がこぼれました。
悲しくはありません。でも。これ以上踏み込んだらよくない気がしました。
でも、その一歩は先輩の方から踏み出してきました。
「それから、今日はね。この縁を切りにきたんだ」
「縁?」
問い返すと、先輩は「そう」と頷きました。
「縁。こうして出会って、言葉を交わした事実は消えないけど、これから先の、オレと君との接点を」
「えっ……?」
「まあ、オレとの縁は切ってしまうけどさ。これだけは話しておきたくて」
「縁を、切るって……なん、ですか?」
「ああ。突然言われても分かんないし、実感もないよね。でも、それでいいよ」
頷いた先輩がポケットから出した右手には、ハサミが握られていました。
もしかしてそれで私は刺されたりするのでしょうか。
「刺したりしないから心配しないで。オレは人を治療するばかりでね、自慢じゃないけど傷つけるのは得意じゃない」
「先輩……エスパーですか」
「いや、君の表情が分かりやすいだけさ」
「う」
思わず呻いた私に、先輩は笑うこともせず視線を落として、言葉を続けます。
「オレはね、人間じゃないんだ。とっくの昔に人間であることを捨てたんだ。だから、縁を切るとか、そういうこともできる。――この学校、噂話多いだろ?」
「……はい」
「オレはそういう存在なんだ。高等部だともっとはっきりした話があるんだけどね。そこはいつか、誰かに聞くといい」
でもさ。と先輩は言います。
「こうして仲良くなったり話をしたりするような関係って言うのは、あんまりいいことじゃないんだ」
だから、この縁を切らせて。と。
先輩は言いました。
「大丈夫、忘れるのは今日のことだけ。君は俺の真実を知る前の状態に戻るだけ。君の知る「ヤゲン先輩」は卒業したんだから、今後オレに会っても誰か分からない。興味も持たないさ」
「どうして、ですか?」
「ん?」
「私、別に誰かに言ったりしません。だから忘れるとか、縁を切るとか。そういうのしなくても――」
「それは」
「それは……」
「オレが決めたことだから」
「……」
「オレは、表に立つような人じゃないんだ。得意なのは後方支援。皆を見守る保健委員。叶藤だってよくオレを引っ張り回してたけどさ。オレはそういうヤツなんだよ」
先輩はハサミを握り直して、少しだけ刃を開きます。
「オレはね。この立場であることを選んだんだ。それは叶藤くん。君のおかげさ。全く君らはよくやってくれる」
刃を見下ろす先輩の目は、懐かしそうに笑っているけれど、なんだかとても冷たいものに見えました。
私の方を、ちらりとも見てくれません。
「……ヤツヅリ、先輩」
けれども、名前を呼ぶと頷いてくれました。
「うん。そう。薬綴兼斗。それがオレの名前。その昔、突然飛び降りて命を絶った生徒。叶藤晃の同級生。だから、卒業なんてしない。人じゃないから、この学校から離れられないから。正直、たくさん出会う生徒なんて覚えてらんない。――勿論、君の事もね」
なんか嘘ばっかりでごめんね。と。
何かをすくった手の平に視線を落として笑う先輩に、夕日が射しました。
その顔は、笑っていたけど泣いてるような、何かを怖がっているような。
そんな気がして。
手を伸ばすと同時に。
しゃきん。
涼しげな金属音がして。
くるくると視界が回って。
かくりと膝の力が抜けました。
それから。
最後に。
「叶藤くん。叶藤のその後を知ることができて――君に会えて。それだけは、よかったよ」
そんな声だけが。
聞こえたような。
気がしました。
□ ■ □
「ヤツヅリ」
「――ああ、タヅナ。ここで待ってるとか珍しいね」
昇降口へ戻ってきたヤツヅリを待っていたのは、灰色の狐。タヅナだった。
「お前がハナブサに頼み込んだと聞いてな。どんな無茶をと思ったんだが」
「無理とか、する訳ないじゃないか」
「……そうか?」
「そうだよ」
ヤツヅリは靴箱を通り過ぎて、タヅナの前に立つ。
「オレは置いて行かれたんじゃなくて、見送ったんだって言ってやっただけ」
「ほう」
「その方が性に合うなって。思ったんだ」
「わざわざ白衣まで着て」
「これがオレの正装だから」
「装備じゃなくてか」
「ん。そうだよ。正装。今日の装備はハサミひとつだ」
そう言って笑うヤツヅリの表情は。
ここひと月ほど見ていた重いものではなく。
これまで見ていたどこかぼんやりとしたものでもなく。
「そうか。毒はどうなった?」
「さあね。もしかしたら致死量でもう死んでるのかも」
「は。冗談を」
「はは。ま、こうして話してられるってことは、そう言うことさ」
「そうか。――ならばお前はサボった分の薬草仕分けを手伝え」
「はいはい」
多少。ほんの僅かだけ。
軽いものに見えた。
□ ■ □
ヤゲン先輩が卒業して、数ヶ月が経ちました。
体育祭も終わり、梅雨が近付いてくる。そんなちょっと夏に近い季節です。
私も2年生になりましたが、保健委員は相変わらず続けています。
保健員はとても楽しいです。
そうそう。時々保健室に、気になる人がやってくるのです。
名前を覚えるのはあんまり得意ではないのですが、高等部の先輩のようでした。
時々。本当に時々ふらっとやってきて、ベッドで休む所までは見かけます。
ただ、そのベッドから出て行く所は見たことがありません。
気が付いたら、空っぽなのです。
他の保健委員の子に聞いてみても、そんな人見なかった、とか。
もう帰ったんじゃないか、って言われてしまいます。
その先輩がどこに行ってしまうのかは分かりません。
友達は幽霊じゃないかとも言います。
そんな話もあるのだと言って、私を怖がらせます。
けれども。
いや。そうだったとしても。
私には悪い人のような気がしません。
きっと、幽霊だったとしても優しい幽霊なのではないかと。
理由もなく、思ってしまうのです。





