保健室の縁 1
私は今年の春からこの学園に入学しました。
早いもので、もうすぐ一年。冬休みが明けて、学力試験も終わりました。
春休みや卒業式、来年の話がちらほらと姿を見せ始める時期です。
私は、ずっとこの学校の制服に憧れていました。
中等部ができたと聞いた時、私は絶対この学校で中高を過ごすんだと思ってすごく喜びました。学校が家の近くだったからかもしれませんが、幼い頃から私はこの学校で高校生活を送るのだとそう信じていました。
それがまさか、中学から過ごすことができる、というのだけがうれしな期待外れ、と思っています。
そんな訳で。試験を受けて。春。
めでたくセーラー服に身を包むことができました。
祖母も、母も、ずっと着ていたこの制服は、私にとって大人の一歩でした。
委員会は保健委員を選びました。
やる事はそんなに多くありませんが、のんびりとした私には合っていました。
昼休みや放課後に保健室で待機して、怪我をした人や具合が悪くなった人の手当てをする。時々集まって、保健だよりや掲示物の話し合いをしたりもします。
保健室は好きです。
静かで、落ち着いていて。消毒薬の匂いがして。
当番でなくても時々訪れてしまう。そんな部屋でした。
いつからだったから分かりません。
そんな保健室で、気になる人を見つけました。
名前を覚えるのはあんまり得意ではありませんが、高等部の先輩のようでした。
中等部ができたというものの、校舎が増えたりはしていません。保健室は共用です。
なので、別におかしなことではないのですが。その先輩は時々ふらっとやってきて、ベッドで休んで帰っていきます。先生とも顔なじみのようで、とても慣れた様子で、カルテも自分で書き込んでいきます。
どんな名前の先輩なのだろう、とカルテを見てみたこともありましたが。
どうしてかうまく読めませんでした。
ただ、深い緑色に名前が汚れていたことだけは憶えています。
オレンジのフレームと、終始だるそうな雰囲気の先輩。
とても見覚えのある顔……なのですが、そんなことはないはずです。
中学生になったばっかり。本を読んで過ごしていた学校生活で、見覚えのある顔。しかも高等部だなんて。
居るはずがありません。私が知っているはずもありません。
なのに。
私はうっかりやってしまいました。
その日も夕方になって先輩はやってきました。
「あ、こんにちは。あの、先生は会議中で」
「……うん。みたいだね。ベッド、少し借りるよ。カルテは後で書くから」
「あ、はい」
あんまり長時間休むのは良くないのですが、先輩に関しては先生も何も言いませんし、貧血なのか顔色も悪く、フラフラとしているので追い出すこともありません。
だから先輩は、そのまま一番奥のベッドに姿を消します。
そして1時間くらいすると起きてきてカルテを書き始めるのです。
本当なら、保健委員である私が書かなくてはいけないのですが、先輩は常連さんですし、いつもきちんと書いてくれます。それに、先輩はなんだかんだで自分で名前を記入します。カルテを書かせてくれたことは一度もありません。
今日もそうして、ボールペンの先が転がる音を聞きながら、書き上がるのを待ちます。
ボールペンのボールは、インクが足りないのでしょうか。かりがりと紙を引っ掻くように、机を削るように転がる音がします。
いつもなら、先輩が書き上がるより先に昼休みが終わったり友達が呼びに来たりするのですが、今日はそんなこともなく。私はただ、先輩がそれを書き上げるのをじっと待っていました。
先輩は眠そうな顔でカルテを書き進めています。
名前は最後に埋めるのか、空欄です。
角張っている、トメとハネに力がわずかに入ったきれいな字で、症状や体温が書かれていきます。
その横顔。
深い緑にも見える黒髪。
オレンジフレームの眼鏡。
その奥の瞳――。
「やつづり、さん……」
「え」
先輩の顔が、ばっ、と上がりました。
先輩の目がいつもより大きく開いていて、こっちをじっと見ています。
あ。やってしまった。と、思いました。
「ぅえ!? あ、えっと……ごめんなさい!」
つい、名前を呼んでしまいました。でも、その名前は。先輩じゃないはずです。
だって。その人は。薬綴さんは――。
「その、ごめんなさい。知ってる人に似ていて、つい……!」
思わず手をバタバタと振って否定をします。頬がかあっと熱を持ったのが分かります。
ああ。なんて失礼なことをしてしまったのだろう……。
恥ずかしさと申し訳なさで、目頭もなんだかじんわりと温まってきました。
「あ。うん。そっか……」
そうならいいや、と先輩はかりかりとカルテを書き。
ボールペンをペン縦に戻し。
椅子を立ち。
先生の机の上に置いて。
「じゃ。ここに置いとくね。先生来たら、よろしく言っといてください」
「は、はい……」
そうして先輩はまだ微妙におぼつかない足で、でも足早にこの部屋を出て行こうとしました。
いつもだったらそのまま見送ってたかもしれません。
けど。
「――あ、あのっ」
私はおもわず声をかけていて。
「……何かな」
先輩は、その声に立ち止まってくれました。
聞こう。
聞かなきゃ。
そんな気がすごくして。
「先輩っ。その。お名前、聞いてもいいですか……!」
「え」
「あ」
「……」
「あ。あああああすみません私ったら名前を間違えるなんて失礼なことしたのに……」
「ああいや、それは構わないんだが……名前。名前か……」
後半はよく聞こえませんでしたが、先輩は少しだけ何かを考えるような素振りをして。
「……ヤゲン」
ぽつり、とその名前を教えてくれました。
「ヤゲン、先輩」
「うん。君は?」
「あっ。すみません……! 私、中等部の叶藤あやめといいます」
「……カナフジ、さん?」
先輩の目が、ぱちりと瞬きをしました。
「はいっ」
「……叶藤」
先輩は確認するかのように繰り返します。
私がはい、と頷くと「そっか」と聞こえました。口元を軽く握った手で押さえて、少し難しい顔をしていました。
「その。私の……珍しい苗字、ですよね。よく言われるんです」
「ああ。――そうだね。俺もよく言われる」
「そうなんですね」
「うん。……っと、それじゃあ、俺、用事あるからこれで」
「は。お引き止めしてすみません……!」
ばっ、と頭を下げて謝ると、先輩は「気にしないで」と少しだけ笑いを含んだ声で言って。
そのまま保健室の戸を閉めて行きました。
そして私はひとり。
保健室に残されました。
常々似ている。とは思っていました。
けれども本当に。うっかりです。その名前を呼んでしまうなんて、失礼なことこの上ありません。
「私ほんと……なんてこと……っ」
思わず頭を抱えてしまいます。
「……でも。ヤゲン先輩、かあ」
ヤゲン先輩、というらしいその人は。やっぱり薬綴さんではありませんでした。
「うん。そうだよねえ」
あり得ないのは分かっていました。
だって。
ヤゲン先輩は、私が写真で見たことのある「薬綴さん」と、ほとんど同じ年に見えました。
それは、もう何十年も前の写真だというのに、です。
□ ■ □
「……どうしたヤツヅリ」
部屋を開けたタヅナは、ベッドに突っ伏したヤツヅリを見て思わず言葉を零した。
いつも着ている白衣すら身につけず、眼鏡も枕元に放り投げられている。
はて。彼は表に行ったのではなかったか。タヅナは首を傾げる。外で消耗して帰ってくるのはいつものことだが、ここまでぐったりとしているのは珍しい。
「……表でさ」
とりあえず少し放っておこうか、と背を向けたタヅナに、布団に吸い込まれそうな声がかけられた。
「うむ」
背を向けたまま相づちを打つ。
「オレのこと、「薬綴」って呼んだ子が居た……」
「ほう?」
珍しいこともあるものだ、とタヅナは収穫してきた薬草を網の上に並べていく。
「名を教えたのか?」
「そんなことしないさ。その子が突然呼んだんだ」
ほう。と頷く。教えてもない名を言い当てられた。なるほどそれは驚くだろう。
だが、ヤツヅリの声にあるのは驚きではなく疲れのように思えた。
「そうだな。しかし、それだけではないようだが」
尋ねてみると、「うん」と布団に声が埋もれる。
「そもそもさ。オレ、表に名前を残さないようにしてるんだよ」
「そうなのか」
「そうなの。それなのに突然言い当てられたのも結構衝撃だったんだけど」
「うむ」
「オレの名前を呼んだ子……」
「……」
「……はあ」
「そこまで話したのなら溜息で誤魔化すな」
ぴしゃりと言ってやると、彼は「うん」と布団に顔を埋めたままもそりと頷く。
「その子がね」
「うむ」
タヅナの相槌にもうひとつだけ溜息を返し。
「昔の。オレの級友と同じ苗字だった」
ぽつりと。そう言った。