からまり・めざすは・からっぽな 2
人体模型は理科室の奥で、ひとり夜空を見ていた。
星が綺麗だと言えたら良かったのだけど。残念ながら、空には薄雲がかかっていた。
「あ。ここに居た。あの、模型さん」
今大丈夫かな、と、桜色の少年が姿を現した。
彼とはさっき、部屋に戻ると言ったのにどうしたのだろう?
「こんな時間に珍しいね。どうし……」
人体模型の言葉は途中で詰まった。
その後ろに立っていた影に目が留まった。
背が高い男性。闇より明るく、月陰より暗い灰色の髪。
真っ直ぐな紫の目は、なんとも言いようのない表情を隠しもしない。
ええと、と人体模型は考える。
知っている。でも、知らない顔だ。
「あ、あれ?」
心当たりはあるけれど確証はない。本当にそれで合っているのかと思案する。
「久しぶりだな」
二人が人体模型の元へやってくる。顔をまじまじと眺めてみるが、本当にそうなのだろうかという疑問が拭えない。
「鹿島さんだよ」
幹彦の言葉で、やっぱりそうだったと確信する。あの時死にそうだった巡査だ。骨格標本を止めてくれた人間だ。もっと瑞々しい……いや、若い、と言うのだ。そんな姿だった気がしたのだけど。
「カシマ。うん、カシマだ。その、何と言えばいいのだろう……。ちょっと見ない間に、随分と。変わったね」
「お前さんは変わらないな」
姿は多少変わっても、その声は確かにカシマだった。なんだか胸の辺りが詰まるような、熱いような。不思議な感じがした。
「うん。私は人形だから。それでカシマ。今度はどうしたの?」
また何かあった? と問うと、カシマは頭を掻きながら「それがな」と言いにくそうに口を開いた。
「その。死んでしまってな」
「え」
思わず上げた声に、カシマの眉も頷くように寄せられる。
「ちょっと、しくじったというか。うん、まあ。そんな感じだ」
「えっ……」
「……」
「えっ……ええ!? ちょっとカシマ。死んだってなんで!? それならどうしてここに!?」
思わず詰め寄りかけた人体模型に、鹿島は「落ち着け」と言い聞かせる。
「あー。よく、分からないんだが。聞いたところによると。この胸の傷が、死んだ俺をここに引っ張ってきたらしい」
とん、と軽く握られた拳が胸を叩く。
「――あ」
それだけで、人体模型は原因を理解した。
同時に、背筋がひやりと冷えるような感覚がした。
あの時、やはり自分は取り返しのつかない判断をしていたのだ。死なせてはいけないと思った結果、彼の人間としての在り方を奪っていた。
それは、とても酷い事に思えて、自分がその一端を担ったことに頭がくらくらした。
「あ、あの……それは。私が。あの時」
「いや、お前さんが気にすることはひとつもないからな」
死んだのも事故だ、と鹿島は言った。
「でも、人間と言うものは」
人間というものは、この学校にやってきては去っていくものだ。
例外は幹彦しか知らないし、その幹彦だって人間だった頃を知らない。
「まあ、そんなこともあるだろ。と、言う訳で、だ。しばらくここで世話になる」
「……それは、いいの?」
「うん?」
何がだ、という鹿島の視線に、人体模型は不安げな言葉を質問にする。
「ええとだね。それは。カシマは、ずっとここに居るってことだよね?」
「ああ、そう言うことになるだろうな」
いつまでかは分からんが、と鹿島が幹彦に視線を向ける。それを受け止めた幹彦は申し訳なさそうな顔をした。
「どのくらいかはちょっと分からないけど。そうですね」
「なるほど、法口でも分からんのか」
「うん……。役に立たなくてごめんなさい」
「いや、それはそれでいいさ」
そう言って細められた鹿島の視線は、人間を眺めてばかりだった模型に読み切れるものではなかったが。
以前ほど張り詰めたものはないような、そんな気がした。
□ ■ □
「ところで」
人体模型が淹れたお茶を一口飲んだ鹿島が、言いにくそうに口を開いた。
「うん?」
「お前さん達の事は何と呼べばいいんだ?」
「え」
「名前とか?」
二人が視線を交わして首を傾げる。
「私は、人体模型で」
「俺は、法口幹彦、ですね」
「うん、それだ」
指摘して湯呑みに口をつけると、二人の首はもう一度傾いた。
「法口は。まあいい」
「はい」
「問題は模型。お前さんだ」
「私?」
こてん、と人体模型の首が三度傾く。緑のリボンで結わえた髪が揺れる。
そう、と頷く。
「人体模型ってのが、どうにも呼びにくい。お前さん個人に名前はないのか?」
そうは言っても、と、彼は首を傾げるばかりだった。
「私は、人間じゃないからなあ」
考えたこともなかった、とその表情は語っている。
「いや、そうじゃなくても。だ」
何と言えばいいのか分からなくなってきた。ポケットに入っていた煙草を取り出し、くわえる。火をつけようとして――ふと手を止めた。
「そういやここは禁煙か?」
「? それは、なに?」
人体模型は初めて見る物だったらしい。不思議そうにくわえた煙草を見ている。
「煙草だ」
「たばこ?」
首を傾げる人体模型に、幹彦が煙草というものについて軽く説明をする。
「用務員さんが吸ってるの見たことあるから、別にいいと思いますよ」
そう言って、奥の部屋から灰皿を出してくれた。
幹彦に礼を言って火をつけ。
「で、本題だ」
紫煙と共に話を進める。
「模型ってのは、どこにでもあるんだ。言ってしまえば骨格標本だって模型だ。お前さんはそんな大量にある内のひとつとして自律してるのかもしれんが、それは、俺や法口を「人間」って呼ぶようなもんだ。というか、俺らだってもう「幽霊」の中のひとりだろ」
「まあ。それは確かに」
「そうだけど」
二人は苦笑いで頷く。まるで兄弟のような仕草だ。
「そんな呼び名じゃどうかと思ってるんだ。お前さんはもう、立派に人格を持っていると思っている。ならば、名前も持ったって良いんじゃないか?」
「……?」
「法口はそう思わないか?」
それでも不思議そうな顔をしている模型から視線を外し、幹彦に話を振る。
彼はそうだな、と少し考えて頷いた。
「鹿島さんの言う通りですね。じゃあ模型さん。名前を考えよう」
「えっ」
幹彦の言葉に人体模型が目を丸くした。
そんな表情が珍しいのか、彼は口に手を当ててくすくすと笑う。
「だって、鹿島さんの言う通りだよ。俺達はこれまで当たり前に呼んでたけどさ」
ね。と桜色の髪が揺れる。
「う、うん。二人が、そう言うなら……でも」
どんな名前がいいんだろう。と、人体模型は俯く。
「そもそも名前って、どうやってつけるものなの?」
「んー。そこは俺より鹿島さんの方が知ってるかな?」
幹彦の視線がこちらを向く。なるほど、彼は名前をつけるという機会に遭遇したことが無かったらしい。名前をつけるならか、と煙を吐く。
「親が子供につける場合の話だが。どういう人になって欲しいか、という想いを込めたり、季節に応じた名前をつけたりするな」
「親……。私にそんなもの居ないよ?」
至極当たり前の回答だった。人体模型は無機物だ。人形なら制作者などあるかもしれないが、備品だとあまり期待はできない。だろうな、と頷いて言葉を続ける。
「作られた季節とかは覚えてないか?」
「うん、残念だけど、作られた時も目が覚めた時も、どの季節だったかはちょっと」
「ふむ。じゃあ、名実一体でいくか」
「めいじつ、いったい」
人体模型は鹿島の言葉を繰り返す。つぶやきながら首が傾いた。
「名は体を表すってことだ」
「だったら。私はやっぱり模型なのでは?」
「そうだけどな。名前として呼ばれるなら……あー。そうだな。理想や噂話から、己を形作る名前をもらう。とかもある」
「理想……」
「その理想を名前に戴くことで、存在を肯定する。噂話なんて曖昧なもんに振り回されるんだ。好きに名乗って、こっちがそれを振り回してやってもいいんじゃないか?」
例えば、と視線で幹彦を指す。
「法口。お前はどんな話だった?」
「え。ええと……狂い咲く桜の木。その下で花見をする死体。とか?」
「そう。だったら「サクラ」とかな」
「サクラ」
サクラ、と小さく何度か繰り返して、ふふ、と彼は笑う。
「うん。うん……いいね。俺、それ気に入った」
首を傾げる人体模型の隣で、彼は穏やかに言う。
「ね、鹿島さん。俺、サクラって名乗ってもいいです?」
「うん? 別にお前さんが名乗りたいというなら良いんじゃないか?」
彼が名乗りたいと言っているのに、鹿島に止める理由はなかった。
幹彦はそれが嬉しかったらしい、白い指で机に何度か文字を書き、嬉しそうにしている。
一方人体模型はというと、その指を不思議そうな……いや、不安そうな目で覗き込んだ。
「ねえ、ミキヒコ」
「うん?」
「ミキヒコは、ミキヒコじゃなくなっちゃうの?」
不安そうな声に、幹彦は「そうじゃないよ」と優しい眼差しで否定した。
「なんて言うといいのかな。「幹彦」はあの木の下で眠ってる骨の名前だから、俺とは分けても良いんじゃないかなって思うんだ」
「……そんな簡単に、捨てられるものなの?」
人体模型の問いに、彼は苦笑いする。
「簡単じゃないよ。実際の所、俺は根元で「法口幹彦」であることは捨てられないと思う。けど、もう骨になって何年経ったか分からない。とっくの昔に根っこに絡まって、桜の木の一部になってるかもしれない。だったら、少し位は前向きになってもいいかな、って」
それに、と言葉が続く。
「あだ名みたいなもの、でもいいんじゃないかな。最初は」
「ふうん……」
「いつか慣れるよ。その時に自分がどう受け入れるかは分からないけどさ」
それよりさ、と幹彦は言う。
「俺より模型さんの名前だよ。ね、模型さんはどんな人になりたいんだっけ?」
「答えを知ってるような口ぶりだな」
ふと、紫煙と共に思ったことが零れた。おっと、と煙草を咥え直すと、幹彦は少しだけいたずらっぽく目を細めて微笑んだ。
「心当たりがある、ってだけですよ」
「ほう」
どうなんだ、と今度は人体模型へ視線を向ける。
うーん、と考え込んでいた人体模型は、小さな声でその名前を口にした。
「私は……ハナブサみたいに、なりたい」
「英?」
その名を繰り返すと、人体模型はこくりと頷いた。
「うん。ハナブサは、何も知らなかった私に人間のことを教えてくれた人なんだ。学校っていうのは、みんなが笑ってて、幸せな場所であるべきだって。私は、あの人の気持ちを大事にしたい、から」
「ほう。じゃあ、それで良いじゃないか」
「え」
人体模型の視線が跳ね上がる。きょとんとしたその目には「自分がその名前を使うのか」と書いてあるようだった。
「俺はその教師のことも、どんな人物だったかも知らないが、お前さん達をここまで動かすほどの人物だ。その志と一緒に名を受け継いだってバチは当たらんさ」
人体模型と幹彦は、目を見合わせて瞬きをした。
「ハナブサ……だって」
「うん。俺は似合うと思うよ」
戸惑い気味の模型に対し、幹彦は優しく頷く。
「模型さんは英さんみたいに暖かくて、柔らかくて、優しい人だから」
「そう、かな」
「うん。そうだよ。それにさ」
繋がれた言葉に、人体模型は首を傾げる。
「俺は、あの理科室でお茶を淹れてくれる人が居るとすごく嬉しいし、あそこで待っててくれる人の名前は「ハナブサさん」がいいな」
人体模型がぱちぱちと瞬きをして。
かあ、っと頬が朱に染まった。
「わ、私が。そんな。英みたいに……なれる、訳……っ」
「そうかな」
「そうだよ」
「えー。俺はできると思うけどなあ。ね。鹿島さんもそう思いませんか?」
「俺はその教師を知らないんだが。まあ。法口がこう言うんなら、なれるんじゃないか?」
「ほら」
「うー……ミキヒコの意地悪」
「ふふ、俺はサクラだよ。ハナブサさん」
「うぇ、その名前でいきなり呼ばれたら心臓が跳ねそう……ミ……サクラは意地悪だ……」
唸りながらも、その顔はなんだか嬉しそうで。
なるほど彼ならきっと、その理想に近づけるだろう。そんな気がした。





