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からまり・めざすは・からっぽな 1

 鹿島宗一郎は、ある日突然その生を終えた。

 夜道で起きた喧嘩を止め、その相手から刺されて死んだ。

 逆恨みというヤツだ。

 それはあまりに突然で。どうしようもなかった。

 

 そして、ふと気付けば。

 一寸先も。自分の掌すら見えない闇の中に立っていた。


「ここは、一体……」

 漏らした声は冷え冷えとしていた。

 温度は感じないが、身体の芯から冷えるような感覚がする。寒い。

 死後というものを信じる訳ではないが、ここがそうだと言われたら信じそうな寒さだ。

 自分の心臓が止まる直前。腹から胸にかけてぱっくりと開いた身体の中が冷えていく感覚は残っている。試しに服の上から腹をさすってみる。特に何もない。多少ひんやりとしているくらいだ。

 胸に手を当てる。体温はもちろん。鼓動のひとつも感じなかった。

 ああ、やはり俺は死んだのだ。身体が冷たいのは仕方がない。


 ここには何もない。何も見えない闇の中だから、何かあっても分からない。

 このまま自分はどうなるのだろう。まさか、ずっとこの闇の中に立ち尽くしていろなんてことはあるまい。多分。それにしても、死して尚意識があるとは思わなかったから、何をすればいいかも分からない。己の人生でも振り返ればいいのだろうか。

「人生……人生、か」

 ふむ。と顎に手を当てる。わずかに伸びた髭が指先にざらりと当たる。

 と。


「その人生、満足だったか?」

 声がした。


 少々ぶっきらぼうなその声は、どこで聞いたものだったか。ひどく懐かしい声だったが、すぐに思い出せるほど鮮やかな記憶ではなかった。

 遠いとおい、過去の思い出にあった声。

 名前はなんと言ったか。いや、名乗らなかったか。

 思い出そうとするより先に声が再度、同じ言葉を問いかける。

「ん……」

 さて。俺の人生はどうだっただろう?

 考える。

 

 人の命はいつ終わるか分からない。それは常々思っていた。

 軍靴が響くこの国で、いつまでも気楽に過ごせるとは思っていなかった。大国を相手に戦う国だったし、職業柄、暴力や死は他人より身近にあったと思う。だから、やりたいことをやってきた。持ち前の正義感を信じて、真直ぐに生きてきた。常に背筋を正し、前を見据えて。

 真面目と正義感が服を着ているようだとか、もっと肩の力を抜けだとか言われても、上手くできなかった。それこそが自分なのだ、あるべき姿なのだと信じて頑に守っていた。誇りにさえ思っていたかもしれない。

 しかし。その末路がこれである。

 満足だったか、と言われると。頷くには中途半端にも思えた。

「……わからんな」

 不満はなかったが、足りたかは分からない。

 声はその答えに満足したらしい。くくっと小さく笑う声がした。

「そうかそうか。それじゃあ、満足だったと頷くまでこっちに居ろよ」

 顔を巡らせても姿は見えない。そもそも自分の手すら見えないのだ。誰かの姿など捉えられる訳がない。

「お前さんは」

 誰だ、と問う。答えはなく。代わりのように、胸が痛んだ。

 その痛みに胸を押さえようとして――手が、服の中に沈んだ。

「は……?」

 身体の中に手が埋まった。暖かくも冷たくもない、ぐにゃりとした何かが手を包む。

 だが、それが何かを考えるより先に、膝の力が抜けた。

「は――、っ」

 呼吸はできる。だが息苦しい。胸が。心臓が、じりじりと痛む。


 じりじりと。

 じりじりと。

 じりじりと。


 まるで細い糸で締め付けられるような。今すぐに胸を開けて引きちぎりたくなるような。

 そんな風に痛む胸を押さえようとしたが、指は何かを握りつぶすだけ。指の間をぐちゃりとした何かがすり抜けていく感覚がするだけだ。

 何も掴めなくて。けれども苦しくて。乱れた呼吸を整えようとして。

 

 意識の。

 底で。

 目が。

 回って。

「――」

 ふと、痛みが去ったことに気が付いた鹿島は、見覚えのある場所――あの学校の廊下に座り込んでいた。

「ここは」

 学校。(とき)()学園の第三校舎。見たことのある景色だ。

 何故こんな所に座り込んでいるのか、状況が理解できなくて思考を巡らせる。

「あ。久しぶりですね」

 そこに静かな声がかけられた。

 そちらを向くと、見覚えのある少年がそこに立っていた。

 夜の闇に溶けそうな詰襟に、仄かに浮かぶ桜色の髪。胸を押さえる鹿島を見下ろす瞳は、眼鏡の向こうで穏やかに笑っていた。

「俺達のこと、覚えてます?」

「……ああ」

 頷く。

 鹿島の人生でたった一度きりの、人ならざる者との戦い。忘れられる訳がなかった。

「法口」

「はい」

 呼ぶと、彼は嬉しそうに頷いた。色のせいか、その笑顔は春を思わせる。

「随分と久しぶりだが。お前さんは変わらんな」

「はは、俺は幽霊みたいなものですから」

 まだ胸が痛む気がする。呼吸を整えながら立ち上がると、法口が手を貸してくれた。

「鹿島さん。その、ごめんなさい」

「何がだ?」

 あの一件以来、顔を合わせたのは一度だけのはずだ。なのに、どうして開口一番謝られなくてはならないのか。

 その疑問を法口は予想していたらしい。あの、と少し言いにくそうに口ごもって、自分の胸に手を当てた。

「ここに、鹿島さんを呼んだのは。俺にも責任があるから」

「お前さんに?」

 法口は少々困ったように頷く。

「うん。厳密にはその胸の傷がね。こことあなたの繋がりを切ることができなくて。その――っ、っと」

 彼の頭がぐらりと傾ぎ、声色が変わった。

「まどろっこしい。俺が説明した方が早いだろ」

 頭を軽く抑えて開かれた目から、穏やかな色が消え失せた。立ち方も雰囲気も、一瞬で全てが別人へと変貌していた。

 ああ、あの夜に骨を転がしていた方だ、と鹿島は理解する。

 もうひとりの法口は首を押さえ、眉を寄せて首を回す。

「簡単に言うと、だ。お前の心蔵はとっくの昔に人間のものじゃなかったってことだ」

「……?」

 鹿島は胸に触れる。ついさっきまで痛んでいた胸だったが、それは嘘のように消え去っていた。身体の感触もしっかりとしている。

 人のものでなかったとは、どういうことだろうか。というか、そもそもこの傷は。

「――ああ」

 あの夜。胸にあった黒い傷だ。

 忘れていた訳ではないが、それは積み重なる年齢と共に薄れていた。見た目にもうっすらと残るだけの傷痕。意識しなければその由来すら忘れそうなほどだった。

「その身体に詰まってたのはな、その辺の――そう、こういう」

 そう言って彼は、廊下の隅の影で何かを掬って見せる。手には黒くどろりとした何かがあった。滴るそれが、ぼたりと重たげに落ちる。床に落ちた瞬間、その重さが嘘のようにさらりと霧散した。

「この学校に燻ってる何かだ」

 そんなものが、傷を埋めるだけではなく身体に詰まっていたのだという。

「なるほどそれがあったから、俺は今ここに居ると」

 あの夜、傷を塞いでくれた何かが、元あった場所へ身体ごと戻ろうとしたということだろう。納得感はある。同時に、健康診断では特に問題がなかったのだが、と場違いな感想も浮かぶ。

「お前、物分かりがいいな。そして分かりやすい」

「悪かったな」

 それは部下にも散々言われてきた。嘘は上手くないという自覚もある。いや、今はそんなのどうでも良い。

 あの夜、自分を助けたのは人体模型だと思っていた。彼があの時なんと言っていたかは忘れたが、今の話を聞くに、実際処置をしたのはこの少年なのだろう。

「つまり。お前さんが俺の命の恩人ってことか?」

 そう言うと、彼の表情が歪んだ。なんというか、心底嫌そうな顔をした。そしてすぐに、それがくだらない物だという様に鼻で笑い飛ばし、追い出すように手を振った。

「お前を助けるって判断を下したのはあの模型だ。そういうのはあっちに言え」

「そうか」

「そうだ。俺はあれを使えるだけだからな」

「何に使うんだ?」

 一瞬彼はめんどくさそうな視線を向けたが、「そうだな」とさっき黒い物体が落ちた場所を靴で蹴る。

「あの中に沈んでいる物を手繰り寄せて、その辺の噂に利用する。で、こいつが夢に見たらそれを喰う。それだけだ」

「ほう。法口はそれを知ってるのか?」

「一応な。どこまで理解してるかは知らねえし、お前らだって別に知らないでいいことだ」

 彼は視線を逸らして溜息のように言葉を吐く。珍しく彼の目に他の感情を見た気がしたが、それは一瞬で元の色に戻る。

「ひとつだけ知っててもいいのは、そうだな。お前はあの時から、とうに人間とかけ離れた存在で。これから先の、夢の種だったって訳だ」

 なるほど。と鹿島は小さく頷く。彼はそれを面白そうに眺めている。

「それで」

「うん?」

「それで俺は、これからどうなるんだ? お前に食われるのか?」

「いや? 俺に人を食う趣味はねえが」

 本当だろうか、と視線を向ける。

 本当さ、と濃い桜色の目が笑う。

「……まあいい。それじゃあどうするって言うんだ」

「んー。そこなんだが。考えてねえんだよな」

「考えてない」

 思わず繰り返した。

「お前を引き寄せたのは確かに俺だが、夢の種になるならそれでいいからな。好きにしろ」

 それに、と彼の言葉は続く。

「お前の胸がな、言うんだよ」

 胸にとん、と指が触れる。

「窮屈だって。――確かにその人生ちょっと読んだが、真直ぐすぎて肩が凝る」

 言葉が詰まった。

 

 真直ぐに生きてきた。姿勢を正し、前を見据え。

 真面目と正義感が服を着ているようだとか、もっと肩の力を抜けだとか言われたが。

 そんな自分を信じ、守って生きてきた。

 肩が凝ると言われたのは初めてだった。憤りより、そうだったのかという感情が湧いた。

 途端に、自分が纏っていた何かが、ひどく重苦しい物だったような気がした。

 

「別に、お前の生き方はどうでもいい。ただ、こいつはさ。お前を巻き込んだ時のことを時々夢に見て、心配したり寂しそうにしてんだよ」

「心配?」

 聞き返すと彼は小さく笑った。胸に触れた指が、何かを巻き取るようにくるりと回る。

「お前の胸に押し込んだ闇。それが何か悪い影響を与えてないか、人間として真っ当に生きてられてるか。そんな些事だ」

「なるほど」

「だから、俺は思ったんだ」

 視線を少し落とした目が、嬉しそうに伏せられた。

「お前がここにやってきたら。こいつはもっと悩むんじゃないかって」

「俺の人生なのに、法口が悩むのか?」

「ああ。お前がこれまでの生き方を振り返って、抱えて、死してなお生き続ける。それも、こいつが夢に見てたから。あの時助けたから、なんて理由でだ。そんな状況、悩まない訳がない」

 言い分だけ聞けば嫌がらせのようだが、実際どうなのだろう。

 どうにも内面が見えない少年だ。考えていることは分からなかった。

「そんな理由で悩むもんなのか」

「どうにも繊細な奴だからな」

「困らせるようなことしてやるなよ」

「くくっ。それが俺の性分だから仕方ねえ。と、言う訳でだ」

 少年は踵を返して数歩、廊下の奥へと進む。

「こっちに居ろよ。もう人のしがらみは何もねえ。コレまでのお前は全て捨てて、存分に肩の力を抜いてみろよ」

「む。しかし」

 そんな生き方ができるのか。急に言われても、分からない。

 足元がふわりと掬われたような感覚がする。

 自分が生きてきた世界は不安定だと思っていた。安寧ではないとは知っていたが、思った以上にあそこはしっかりしていた。色んなものが自分を縛っていた。

 しかし、ここには何もない。名前も立場も、きっと年齢すらも関係ない。下手をすれば、ここでは一番の若輩者という可能性だってある。

 なんだか急に、自分を作っていた輪郭が消えたような気がした。

「俺に、そんな生き方ができるだろうか」

「だから真面目すぎんだって。人の勝手で死にかけたり死んだりしてるんだ。そろそろ勝手になってもいいんじゃねえの? 俺はお前の生き方に何も言わねえよ」

 そうして彼は歩き出す。

「……うむ」

 肯定とも否定ともつかない頷きをひとつだけ闇に残して、鹿島は少年の後へと続く。


 不思議と、足音は聞こえなかった。

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