夜の学校と白骨の怪 前編
人体模型の少年に「後日また訪れる」という約束をして、鹿島は自宅へと帰った。
用務員にも「時々見回りにくる」と話したら、安堵した様子で頼まれた。やはり怖かったのだろう。
あんなのに襲われたのなら仕方がない。とも思うが。
それを信じられるほど、大人というものは素直じゃない。
鹿島も然り。
何度か「あれは夢だったのではないか」と思いはしたが。
道中の胸の痛みは。あの少年の手の感触は。
夢だと片付けるには、少々現実的すぎた。
外に居る間は上着で隠していたが、自宅に帰って改めて見ると、シャツは血で汚れ、盛大に破れていた。繕ってどうにかなりそうなものではなかった。
「明日の朝には全て無かったことになるといいが」
そんな訳ないか、と溜息。
夢だったらと仮道に何度か思ったが、鹿島はここまで現実感溢れる夢を見たことがない。自分のことは大体分かっているから、そこは受け入れるしかない。
目下の問題は、これからどうするか。だ。
人体模型の少年とは、協力関係になった。だが、また今度見回りにくると告げただけで具体的な策はない。少年は、主犯である骨格標本をよく知っているような口ぶりだった。もしかしたら彼らの間に何かあるのだろうか。それすらも聞かずに帰ってきてしまったことを少しばかり悔やむ。
また空いた時間に学校を訪れるつもりだ。その時に出会えたら話をしよう。
とりあえずそれだけを決めた。
□ ■ □
数日後の夜。学校へ立ち寄ると、廊下でひとりの生徒に出会った。
最初は学校に忍び込んだ生徒かと思ったが、すぐに違うと思い直す。
影に溶け込むような詰襟、目深に被った学生帽。零れる髪は白く見えるが、桜のように淡く色付いているようにも見えた。この季節に詰襟とは。その疑問を口にするより先に、彼が軽く頭を下げ、白い指で帽子を脱いだ。
「こんばんは。良い夜ですね」
露わになったのは、濃い桜色の瞳。穏やかそうなそれを眼鏡の奥に湛えた少年だった。
「傷の様子は、どうですか?」
「ああ。だいぶ良い」
黒かったあの傷は、日が経つに連れて肌との境目が分からなくなっていた。数日経った今では、すっかりただの痣のようになっている。
少年は俺の返事を聞いて「それならよかった」と微笑んだ。
「模型さんから話は聞いてます。今日は俺が案内しますね」
「よろしく頼む。ところで、君は?」
名を問うと、彼は「ああ、ごめんなさい」苦笑いをした。
「俺は法口幹彦。あっちの方の」
と、窓の外を指差す。
「桜の木の下に骨があるんです」
「桜の木……? 骨がある。と、いうことは」
「うん。幽霊みたいなもの、ですかね」
少々照れたように笑う。模型の少年同様、彼の性格も穏やかなようだった。
「そうか。ところで……あの少年は?」
彼の名前を知らなかった。いや、名前はなさそうだったから、人体模型と呼ぶしかないのだが。それはどうにも口の中に妙な感情が残る。
なんというか、呼びにくい。
そんな歯切れがいいとは言えない呼び方でも、法口少年は察してくれたらしい。
「模型さんは、ちょっと他の所に行ってるんです。巡査さんには会いたがってましたけど」
会えるかなあ。と彼は言う。
そうか。と頷く。
「とりあえず今夜は、学校案内をしてあげてって頼まれたので、俺が」
「ああ。そうか」
失念していた。
校内を見回るとは言ったものの、教室や校舎の作りなどの詳細を知っている訳ではなかった。それが表情にでていたのか、法口はくすくすと笑った。
「任せて。ちゃんと大人には見つからないとっておきの順路を用意してますよ」
「いや、俺は許可を取っているから問題ないのだが」
「ふふ。俺が怒られちゃうので。それに――全員が見える所に居る訳でもありませんしね」
「そうか」
「そうなんです」
そうして、二人で学校の中を歩いて回る。
彼はひとつひとつ部屋を説明しながら、並んでいない椅子を片付け、残された板書を消し、日付を書き直していく。
「なあ、法口」
「はい?」
「それは、生徒のためにならんのではないか?」
「うん? いつもやってる訳じゃないですよ」
時々、気が向いた時にだけですから。という声に白墨の欠ける小さな音が重なる。
「巡査さんが見て回る間、ぼーっとしてるのもなんですし」
気にしないでゆっくり見てください。と彼は曜日を書き込んだ。
途中の教室には、色んな物があった。
鹿島には見えないが、法口が何か言い聞かせるもの。
ぽーん、と小さく音がするピアノ。
動かないのに存在感がある舶来物の人形。
雑音混じりのラジヲ。
物音。
気配。
視界を横切る影。
「やっぱり知らない人が来ると、少し賑やかだなあ」
「賑やか、で済ませていいのか?」
はい、と彼は頷いて窓の鍵を確認している。
「特に悪いことは起きてませんから」
「俺が刺された件は?」
「ああ、それはちょっと特殊な状況ですね。今、模型さんはそれで標本さんを追っていて」
今はどこにいるかなあ、という声にぱたぱたと足音が被さった。
かしゃかしゃ、という音も聞こえる。
……ぱたぱた。
……かしゃかしゃ。
「この音は」
「しっ。じっとしてて」
動こうとした所を、法口が袖を引いて制する。
何故だ、と問おうとしたが、彼が真剣な眼差しで首を横に振るものだから、意識だけを物音に向けて息をひそめる。
ぱたぱたぱた。
かしゃかしゃかしゃ。
音が近付いてくる。何かぼそぼそと言葉も聞こえてくる。
「だから、人間は――」
「――もう、あんな」
人体模型の声だ。相手の声は聞こえない。
ただ、ぱたぱたかしゃかしゃと、二人分の足音が通り過ぎていく。
「人間を見つけたら―――」
「そんな――勝手――」
息を詰め、耳をそばだてている壁一枚向こうに足音が遠ざかっていく。どうやら近くにあった階段を上っていったようだった。
「うん。行ったかな」
足音を見送りった法口は「ごめんなさい」と困ったように笑った。
「標本さん、人を見ると何をするか分からなくて。模型さんが説得しようとしてるんだけどなかなか」
「まあ、人の信念はそう簡単に変わるもんじゃないからな。そう言うのは分からんもんさ」
気にするなと言うと、彼は頷く。
「でも、これだと今日は模型さんに会えないかも」
「別に構わんよ。ただの見回りだけでもそれなりに効果はあるだろう」
法口はその言葉が意外だったのか、少々不思議そうな顔をして。
「そっか。それならよかった」
と、やっぱり穏やかそうに笑った。
□ ■ □
数日おきに鹿島は学校を訪れた。
出迎えてくれるのは人体模型だったり法口少年だったり。その日によってバラバラだったが、鹿島が学校を訪れる時はいつだって迎えにきてくれた。
三人は学校を見回りながら状況を聞き、現状を話し。どうすれば良いかを話した。
何か策はあるのかと聞いてみたが、返ってきたのは困った笑いだった。
対策はいくつかあるのだが、どうにも上手くいかないこと、あまり取りたくない手段もあることを彼らは話してくれた。
人体模型は、会う度に傷の様子を尋ねてきた。あまりに何度も聞くものだから、傷痕を見せてやった。それでも彼にとって人体とは不思議なものなのだろう。やはり心配そうな表情をしていた。
「お前さんは人体模型だろ?」
「そうだけど」
「だったら、人の身体については詳しいんじゃないのか」
そう言うと、人体模型はううんとあっさり首を横に振った。
「私は確かに人の身体を模した模型だけど。分かるのは身体の造りだけだよ。傷の治り方や、あなたに施した処置がどうんな影響を及ぼすのかは分からない」
「なるほど。それもそうか」
「だから、また様子教えてね」
「気が向いたらな」
鹿島が学校に通い始めてしばらく経ち、季節が移り始めた。
特段変わったことはなかった。用務員の怪我も、「学校の見回り、なにか出会いましたか?」という後輩の質問に答えられるような事もなかった。
今夜もきっと、そうなのだろう。
そう思っていた。
ところが、いつもなら見回り中のどこかで出会うはずの二人に出会わなかった。
代わりに出会ったのは、暗闇に白く浮かぶ骨。――骨格標本。
「ほう。今日はお前さんが出迎えか?」
骨は答えない。かしゃ、とどこからか音がした。
――人を見ると、何をするか分からないから。
法口の言葉を思い出した。それは身を持って知っている。だから距離は保ったまま、警戒を緩めず向かい合う。
「……会うのは、いつぶりだろうな」
骨は答えない。何か言おうとしているのか、かた、と小さな音がした。
そういえば、こいつの声は聞いた事がない。骨格はあれど声を出す器官を持たない。だから声など出ないのかもしれない。
そう思った瞬間。
「――は」
擦れるような音がした。隙間風のような音だった。
風の音だと言われたらそう思ったかもしれない。だが、鹿島の耳には確かに「声」として届いた。
その言葉に耳を傾けようとした瞬間。
白い影が。骨格標本が、動いた。
腕を振り上げ、尖った指先が鹿島めがけて伸びてくる。
「――っ!」
抜刀。
かつっ! と軽くも固い音がした。
視界の端に、きりきりと刃を押す白い骨がある。棒のように変形したその腕で、骨格標本は鹿島に迫る。見た目は軽そうなのに、その力はとても強い。
「ったく、不意打ちばかりしてきやがって」
刃の影から眼窩を睨む。相変わらず空っぽなのに、確かな視線を感じる。
そこには、何の迷いも見えない。
異物を排除しようとする、ただただ純粋な敵意がそこにあった。
「人 間――は、 … …え、」
消えろ。と、枯れ葉のような声は言う。
「は。何だ、喋れるのか」
骨が、刃と擦れて耳障りな音を立てる。
刃を引いて一歩離れる。が、逃がさないと言いたげに一撃が繰り出される。
棒のようにしなる骨が振り下ろされる。横に飛んで躱す。空を切った骨が床で跳ねた。その勢いを余さず使った白い軌跡が、鹿島めがけて伸びる。
刀で弾こうとしたが、それは叶わなかった。
がちり、と関節で刃を挟み込まれた。動かない。鹿島は刀を手放し、代わりに鞘を手にした。骨格標本が奪った刀を振り上げながら迫る。
弾いても弾いても、すぐにその次が襲いかかる。刀を鞘で弾けば、しなる骨が腕を打ち据える。迷いがない。恐怖や痛みというものがないのだろう。それ故の猛攻は、いなすだけで精一杯。人間相手の方がまだ。いや、比較にならないほど人間の方がマシだ。
手にした鞘が弾き飛ばされた。反対から横腹を掴もうとしてくる右腕を手刀で叩き落とすと、勢いを付けすぎたらしく、手首から先が割れ落ちた。
「おっと」
それを蹴り飛ばして距離を取る。上がった息を整える。
「ったく、厄介だな。お前にはデカい借りもあるし手心は加えんが……備品壊しちまうのはさすがに……」
どうしたもんか、というぼやきに。
「――いや、気にするな」
思わぬ所から返事があった。





