或る一夜
昔の話をしよう。
それは、夏にしてはやけに涼しい夜だった。
夜風が頬を撫でて、気が付いた。
そこは夜の校舎だった。多くの人が歩き回ってすり減った木の廊下で、まるでうたた寝をしていたかのように、壁により掛かって座り込んでいた。
どこもかしこも静かで、様々な事を思い出すのに少しだけ時間がかかった。
何故、俺はここに居るのだろうか?
――。
ああ。そうだ。思い出した。
近所の学校に幽霊が出るという話を、酒の肴にしていたのだ。
用務員や教員に怪我人が出てると言うし、見回りに行かなくては、という話もしていた。
それが人為的な物ならば、我々警官の仕事だ。とはいえ、立場的に考えると自分のやるべき仕事ではない。部下に見回りをさせれば良いだけの話だった。
だが、部下の「幽霊怖いんですか?」という売り言葉をつい買ってしまった。実に情けない話だが、酒の勢いで言ってしまったのだ。「怖い訳ある物か」と。
そうして、俺はひとり。夜の校舎に挑んで――。
「挑んで……どうした?」
声が擦れている。思い出せない。胸が苦しい。頭と胸が痛む。
――胸?
気が付いてしまえばその痛みはどうしようもなく本物だった。胸を貫くような。いや、貫かれたような痛みが規則正しく響く。
視線を落とすと、きちんと着ていたはずの木綿のシャツは。
なぜか穴が空き、黒く汚れていた。
「――」
「あ。声をあげるのはやめてね」
「――っ!? ……痛、ぅ」
心臓が跳ねるかと思った。いや、事実跳ねようとしたのだろう。
ずきりとした痛みに耐えきれず、思わず身体を折った。
「だれ、だ」
掠れた声を吐き、腰に佩いた剣の存在を確かめる。
気配は隣にあった。近寄ってきた様子はない。ずっと隣に居たのだろうか?
その気配は立ち上がり、ぱた、と足音を立てた。
「答えたいんだけど。残念ながら私には人間に対して名乗る名前がないんだ」
ぱた、ぱたり。
靴音は俺を回り込むようにして進む。正面で、靴音が止まる。
痛みをぐっと飲み込んで顔を上げると、子供がひとり立っていた。
ずるりと伸ばした長い髪。暗闇では逆に目立つ、舶来の人形を思わせる淡い色をしたそれを無造作に束ねている。顔の半分は髪に覆われていて見えないが、その目と口は微笑みを湛えていて、聞き分けの良い子供のように見えた。
少女のような髪と顔立ちだが、服装から少年だと判断する。
夜の学校に、子供。
髪。雰囲気。仕草。色んな物に違和感を感じる。だが、それ故にこの場所に馴染んでいる。そんな気もした。
「子供が、こんな時間に何をしている」
「うん。あなたの様子を見てた。あ。今無理して動いちゃ駄目だよ」
少年はしゃがみ込んで、俺の胸をそっと指差す。
「それ、やっと塞がってきてるんだから」
「……? 何を、言っている?」
「え? ああ。もしかして覚えてないのかな?」
そうだなあ。と彼は天井を見上げて考える。髪がさらりと揺れる。
「あなたはね。刺されたんだ。真正面からこう、ざっくりと」
刺された。
その一言が、記憶を呼び覚ます。
□ ■ □
学校に到着してすぐに、用務員から話を聞いた。
曰く。数日前に理科室で白い影に襲われたという。
「ええ、慌てて逃げ出したのでご覧の通りですよ」
と、その時に擦りむいたという腕をさすって見せた。
とりあえず巡回をするために鍵を預かり、校内を見て回る。静かで涼しい夜の校舎。何もないじゃないかと思っていると、どこからか物音がした。
足を止めて耳を澄ます。かた、かた。と音がする。この先だ。
教室の前までやってきたが、音は微かに続いている。
思い切って戸を開け、部屋を照らすと。
骨格標本があった。
一瞬足を止めたが、誰かの悪戯だ。すぐにそう思った。
「ったく、心臓に悪い……」
最近聞く話とはこういう悪戯が原因だろう。きっと、用務員もこれに驚いて転んだのだ。
幽霊の正体は大体が枯れ尾花だ。さっさと元の場所に戻して帰ろう。
溜息をついて灯りと上着を机に置く。
よいしょ、と標本を動かそうとして気が付いた。
本来、骨格標本には骨を支える台や棒が付属しているはずだが、それがない。自立している。何故だ、と疑問を持つのは容易かった。
同時に部下の怪談話を思い出す。校内を徘徊する白い影の話だ。
いやいや、そんな馬鹿な話があるものかと一蹴する。
けれども。背筋に何か、寒い物が走った。
見上げる。虚ろな眼窩があるはずなのに、目が合った気がした。
そして、ぎちり。と。その標本は軋む音を立てて動き――。
□ ■ □
「うん。見つけた時は理科室に血だらけで倒れてたよ」
「あ。ああ……」
「このまま放っておいたら死んじゃうと思って、傷だけは塞いでもらったのだけれど」
そうだ。剣を抜く暇もなかった。至近距離で腕を掴まれ、胸を突き刺してきたのだ。心臓をひと突きだろう。胸の痛みと同時に、刺された瞬間の恐怖も蘇る。心拍数が上がり、呼吸が乱れる。
「その様子だと思い出したみたいだね」
思い出せるが、俄には信じられない話だった。動く骨格標本に刺されたなど、笑い話にもできない。
「色々と信じ難いが……概ねは。あと」
「あと?」
「疑問が、ある」
そう言うと彼は首を傾げた。
「俺は、胸に穴をあけられた。間違いないか?」
「うん。間違いないよ」
「ならば。これは、どういうことだ」
重い腕を動かして胸に触れる。服はまだしっとりと濡れているが、指先に体温を感じる。心臓は確かに動いている。まだ痛みはあるが、触れても傷は分からない。
「俺は何故生きている?」
「それは、ええと。おう、きゅう……そう。応急処置を、したから」
「心臓を貫かれて応急処置で済むのか? それに、傷の治りが早すぎる」
「うん。あなたの傷は深かったから。少し……ええと。なんて言えば良いのかな。すまない、上手く説明できないのだけれど。まあ、応急処置だよ」
「……?」
「身体に空いた穴に、代わりの物を詰めてもらったんだ」
「……」
それは大丈夫なのかと視線で問うと、曖昧に笑い返された。
「ねえ。今度は私が質問をしてもいいかな」
「ああ」
頷くと、少年は「ありがとう」と一言置いた。
「あなたはこんな夜遅くに学校に来てどうしたの? 用務員でも教師でもなさそうだし、なんの人?」
「巡査だ」
「じゅんさ」
少年は言葉をそのまま繰り返す。言葉の意味が分かっていないようだ。
「町の見回りと治安維持を仕事にしている」
「なるほど。外の。なんかそういうの聞いた事あるけど」
なんだっけな。としばらく唸り、「まあ、いいや」と向き直った。
「あのね。巡査さん。思い出したのならいいんだけど。この学校、大人は夜にあまり近寄らない方が良いよ」
「いや。そういう訳にはいかない」
「どうして?」
首を傾げられる。
「この学校で、夜に怪我人が出ていると聞いている」
「そうだね。巡査さんもそのひとりだ」
「そうだな。この学校には危害を与える何かが居るという事は分かった。だが、大人が対処できなくて、学生がこの学校で安心して暮らせる訳がないだろう」
その言葉である程度納得したのか、彼は「なるほど」と考え込む。
「でも、その怖さは身を以て知ったでしょ?」
「だからこそ、だ」
「夜の学校に近付かなければ、あなた以上の傷をつけられることはないと思うんだけど」
「それは可能性の話だろう」
絶対にないと言い切れない限り、引き下がるつもりはなかった。
「うーん……強情だなあ」
困ったように少年は呟く。
「我々にはその位の覚悟がなければならんのだ」
「なるほど」
「分かったのならそれでいい。邪魔は――」
「それならさ。その仕事、手伝わせて」
「――は?」
にこにこと提案された言葉を聞き返す。少年は人差し指を立て、言う。
「勿論、協力はするよ。情報、提供だっけ? そういうの。巡査さんを襲ったのは骨格標本だ、とか。分かることなら教える」
「……ああ」
確かに見た物は骨格標本だった。それが夢や幻覚ではないことを、彼は肯定した。
「他の件もそいつの仕業か?」
「そうだね。人間を襲ってるのは全部彼だ」
そうかと頷くと、彼は少し不安げな顔をした。
「私の話、信じてくれるるの?」
「まあ。実際目の当たりにしたからな」
「そっか」
少年はほっとしたように声を和らげた。
「もっと簡単に言うとね。“学校の怪談話”が人間を排除しようとしてる。目的はあの部屋――理科室に近付けないこと」
「理科室に?」
そこに何があるのか、と視線で問う。
「あそこは私達の居場所だからかな。最初は驚かして追い返すだけで済んでたんだけれど、逃げる時に怪我をしたり、怪我をさせたり……このままだといつか大変なことになるんじゃないかと心配してたし、巡査さんは事実死にかけた。今回は私が見つけて止めたけど」
彼は本気なんだ。と寂しそうに言う。
顔は常に笑っているが、声色の方が感情豊かで分かりやすい質らしい。
「それは」
「うん。何故かって思うよね」
少年は疑問を先回りする。頷く。
「理由は簡単さ。大人は噂を信じないから」
なるほど、と視線を少年から外して頷く。
西洋の文化が入ってきて早50年余。
夜は明るく照らされ、様々な物が解明され。妖怪、怪談、幽霊。これまで数多語られてきたそう云う類いの話は廃れつつある。子供たちの間では未だ信じられているのかもしれないが。大人には通用しない。
科学を。新たな文化を。学問を。知ってしまったから。それ故に。
それはきっと、学問を修める子供達にも伝わり。更に加速するのだろう。
「ふふ、巡査さんはすぐ分かってくれて嬉しいな」
少年はにこりと微笑んで言う。
「骨格標本はね、それが許せないんだって。こうして存在しているのに、否定されるのが我慢ならないって言うんだ。まあ……その気持ちは、分かるよ」
でも、と彼は続ける。
「賛成できないんだ。私は、生徒も先生も好きでさ。どんなに身体を弄られても、中身をバラされても、気持ち悪いとか怖いとか言われてもね。それが彼らの知識になるのなら、それ以上の事はない」
「献身的だな」
「そういうものから生まれたからかな。それに、信じてくれない人が増えたとしても、他の誰かがどこかで噂話(私達)を信じてるから、こうして存在していられる。実際、私達を信じて、肯定してくれた人も居たから」
もうこの学校を出て行っちゃったけどね、と置かれた声は、好きだと語っていた饒舌さと熱を急に失っていた。混じっているのは寂しさ、だろうか。
けれどもすぐに言葉は続く。今度は強い意志を込めて。
「だから。今度は私がこの学校や生徒を守る番かな、って思ってるんだ」
「お前は……」
一体何なんだ。と問いかけようとしたのを飲み込んだ。
これ以上踏み込んではいけないような。そんな気もした。
彼は「学校の怪談に分類される何か」だろう。それで納得すべきだ。何も考えず飲み込むべきだ。だが。そこじゃない。俺が知りたかったのはそんな大きな枠ではなく。
「君は、一体何なんだ?」
「私?」
「ああ、君自身だ」
「正直に答えて、信じてくれる?」
一瞬、言葉に詰まった。
だが、彼が自分を助けてくれたというのなら。今までの言葉に偽りが無いというのなら。
信じるしかない。
「ああ。信じよう」
「ふふ……ありがとう」
そう言って少年は、顔を覆っていた髪を綺麗に束ね直し、手袋を外した。
そこにあったのは、皮膚を剥がれた肉のような赤黒い肌。
血は流れていない。ただ、表面が乾いて突っ張っているのがなんとなく分かった。
「私は、人体模型」
「人体、模型……」
「そう。怖くないように姿形は整えるように心がけてはいるけれど、見ての通り」
上手くいかなくてね、と彼は恥ずかしそうに手に視線を落とした。
「名は、ないのか?」
「名前? 人体模型じゃ駄目なのかな?」
何か不思議なことがあるだろうか、という表情で人体模型は首を傾げる。
「ああいや。それならいいんだ。俺は鹿島。鹿島 宗一郎」
「カシマ。うん。良い名前だね。それじゃあ――」
少年は再び手袋をして、その手を差し出す。
「手袋で申し訳ないけど。素手はちょっと気になっちゃうでしょう?」
「ああ、構わない」
「よろしくお願いします」
「よろしく」
その手を握り返した。
温かくも冷たくもない。小さな手だった。





