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それは「私」 前編

 人体模型があった。

 授業で訪れる子供達からは興味深そうに。時には気味悪そうにその身体を眺められ。教師が説明をする声を聞き。内蔵を取り出され、あらぬ方向にそれを押し込まれながら。

 理科室の片隅に、彼は在った。

 

 自分に意識があると気付いたのがいつだったかは覚えていない。

 ただ。辺りが暗くなって人の気配がなくなると、泡のように意識が浮かび上がってくる。

 身体が動かせる。何かを触る事ができる。

 それは彼にとって戸惑いの大きなものだった。なにせ、長年動くことはもちろん、こうして「思考する」ということすら頭になかったのだ。

 幸いにも、というべきか。これまで目の前で交わされる会話を聞いてきたから、言葉に困ることはなかった。けれども、分かることは少なかった。


 自分は「人体模型」であること。

 ここは「学校」や「教室」と呼ばれる場所であること。

 ここは明るい間だけ、たくさんの人たちがやってきては去って行くこと。

 自分は、そんな人達とは異なる存在であること。

 その場に立ち続けて得られるのはこれくらい。いや、これでも上等だと、彼は「思った」。


 この部屋にはもうひとつ、似た存在が居た。

 内蔵も肉もない、それを支える中身だけを取り出したもの。骨だけの骨格標本。

「お前は」

 ある夜。かしゃり、という音と共に聞こえた声に、人体模型は目を覚ました。

「お前は、何か」

 目の前に、骨が立っていた。

「人体模型と、呼ばれているよ。あなたは?」

 問い返すと、骨はかしゃかしゃと顎を鳴らして答えた。

「見ての通り、骨よ。骨格標本」

 こうして二人は「言葉を交わす」ということを始めた。

 

 言葉を交わすようになったものの、お互いに知っていることは少なかった。

 なにせ昼間は物言わぬ模型。日が落ちて初めて動く事が叶う。夜の教室で彼らの世界は完結していた。だから、この部屋の外に興味を持つまでにそう時間はかからなかった。

「人間は、この戸から出入りする」

「うん」

「つまり、この向こうにも、何かがあるに違いない」

 それは、窓から見えるような場所かもしれないし、そうじゃないかもしれない。

「この向こう、知りたくはないか」

「うん、知りたい」

 こうして二人は、理科室の外を少しずつ歩き回るようになった。


 学校の中がある程度分かってきた頃。

 人体模型は、暗い化学室の奥でひとりの人間に出会った。

 部屋を開けた時には気付かなかった。中に入って初めて動いた影に、人体模型は思わず距離をとった。

 

 この頃になると、骨格標本との話に「人間に出会ったらどうするか」というものが出てきていた。昼に比べると少ないが、夜にも人が居る時があるからだ。

 これまで見てきたことを重ねていくうち、自分達は人間にとって否定される存在だということくらいは分かるようになっていた。

 授業の合間に彼らは「模型や標本が動く」ないしは「動いたら」という話をしては君悪がったり細い悲鳴を上げたりする。加えて、「先生」はそういう話をしている生徒を笑ったり、窘めたりする。生徒も教師も、それぞれの理由で自分達を否定する。目の前で繰り広げられるやり取りを、模型は当たり前に受け止めていたし、彼らとは姿形から異なることは知っているから受け入れはしていた。それが時折、胸の辺りをつついてはしくしくとした違和感を持っていたけれど。人体模型が出した結論は。

 

 自分達は「動いているはずがない物」だから、人間と出会ったら逃げなくてはならない。

 

 だから、人体模型は慌ててその場を立ち去ろうとした。

 だが。

「――君」

 年を重ねた男性の声が、優しくその足を引き止めた。

「あ……」

 逃げなくてはという思考に反し、足は動かない。胸の辺りがひやりとする。

 それは、人体模型にとって初めての恐怖だった。気味悪がられるのには慣れている。けれども。人間に見つかったらどうなるか分からない。逃げたい。けれども身体は言う事を聞かない。

「ああ、暗いな。うたた寝のつもりがすっかり寝てたか……驚かせてすまないね」

 そんなに怖がらなくてもいいよと、人間は手招きをする。それでも躊躇っているのが分かったのか「ああ」と何かを心得たように頷いた。

「それもそうか。素性も明かさずに失礼。私は(はなぶさ)。この学校の教師だ」

「はなぶさ……?」

「ああ。英。英正己」

 人体模型は「はなぶさ、まさき」と彼の名前を繰り返す。

「……怖く。ないの?」

「怖い?」

 彼はそうだな、と考えるようにしばし唸り。こう言った。

「君は私が怖いかい?」

「わからない」

 でも、と言葉を繋ぐ。

「人間は、怖がるから。怖がられるのは、いや、だから……」

「そうか。ならば心配することはないよ」

 その言葉は、どう捉えたら良いのか分からない言葉だった。

 ただ、胸の辺りがじんわりと暖かくなるような。ふわりと身体が軽くなりそうな。そんな不思議な感覚がした。

「そもそも驚かせたのは私の方だ」

 英は席を立ち、人体模型の前へとやってくる。

「それに私は、君達のような存在に出会うのは慣れているんだ」

 そう言って人体模型の前に膝をつき、見上げるようにして手を差し出す。

「どうか怖がらないで。仲良くしよう」

 

  □ ■ □

 

 人体模型が英の元を訪れるようになるまで、そう時間はかからなかった。

 骨格標本に英のことや、彼から教わったことを話して聞かせもした。その相槌は素っ気なく、面白くなさそうだったが、外の世界に興味はあるらしく、大人しく聞いてくれた。

 化学室の奥の小部屋――準備室を訪れると、英はいつでも穏やかに受け入れてくれた。

 白髪まじりの髪。眼鏡の奥には、穏やかな目尻に刻まれたしわ。白い木綿のシャツに緑のネクタイが雰囲気を一層柔らかにする。そんな男性だった。

 彼は夜遅くまで学校に残っていることが多かった。机に摘んできた草花を飾り、音を奏でる箱を開いて、仕事の残りや授業の準備をしてることもあった。

「家に帰ってもひとりで寝るしかない。仕事ばかりしてきたからね……。いっそ住み込んだらどうだって言われたよ」

 彼はそう笑いながら、人体模型に様々なことを教えてくれた。

 学校のこと。外のこと。それから、人としての姿を整えること。

 生徒と同じ服を着て、皮膚がない部分の見た目も整えたが、どうにもならない部分は、服や髪で隠したりした。人と同じ姿をしている間は、片目が隠れて少し不便だけど、慣れてしまえば何とかなった。

 人としての装いを整える前にガラスと向き合う。淡い色の髪の隙間から、無表情な緑の目が自分を見ていた。前髪を寄せて、英のように目を細めてみる。なんだかぎこちない。なるほど自分は人とは異なる存在なんだと実感する。骨格標本はそんな人体模型を見て「人間の皮を被って楽しいか」と面白くなさそうに顎を鳴らした。

「うん。色んなことを、教えてもらっているよ」

「お前は姿形が人間に近いからな、拾う物もない骨ばかりとは訳が違う。それはそれは、人間にも影響されやすかろう」

「そう、なのかな」

「ああ、そうだろう? お前は人を模したものだからな。せいぜい夜が明けるまで、仮初めの姿を楽しむがいい」

 骨格標本は笑ったのだろう。かたかたと喉の辺りが小さく鳴った。

 その言葉は、なんだか人体模型の胸の辺りに苦しさを残した。

 それを支えさせたまま英の元を訪れると、何かを察したのか、彼は戸棚から陶器でできた器を取り出し、薄緑の液体を注いで差し出した。

「模型くんは、お茶を飲むことはできるのかな」

「お茶?」

「ああ。これだよ。熱いから気をつけて」

 英が湯気の立つ器を置く。そっと触れると、手にじわりと熱が伝わる。なるほど、これが「あつい」なのだと思いながら、そのまま容器を両手で包む。しばらくすると、手の感覚が無くなってきた。その旨を伝えると、彼はその手を覗き込み――珍しく慌てた様子で腕を掴み、流水に当てた。

「ああ……火傷にならないと良いが」

 すまない、という英の声がどうしてそんなに苦しそうなのか分からず、人体模型は「なんか、じりじりする」とだけ答えた。

「それから、ハナブサの声が、なんだか重くて……胸の辺りが、変なんだ」

「それは、私が君に怪我をさせて申し訳ないと思っているからだ」

「怪我?」

「そう。身体に傷が付くことだよ。今回はこうして冷やしてるから大丈夫だけど、あまりに深いと傷痕として残ってしまう。冷たいかもしれないが、堪えてくれ」

 水が人体模型の手を流れていく。さっきまで熱かった指先が、きゅっと締まって動かしにくくなってきた。これが「つめたい」なのだろう。

「そして、君がや手に感じているものは。痛み、と言うのだよ」

 いたみ、と繰り返す。水の流れる音がその言葉を手に染み込ませていく。

「そう。その手の感覚も、胸の苦しさも。それは痛みだ。どちらも自分を守るために大事な物だから、忘れちゃいけないよ」

 うん、と人体模型は頷いて「あのね」と続けた。

「時々、胸の辺りも今みたいに、痛い、時があるんだ」

「どうしてだい?」

「わからない。でも――人間に。生徒に、怖がられたりすると、そんな感じになる」

「そうか、君は優しい子なんだね」

 英の声が柔らかくなった。

「悲しかったり辛かったり……理由は様々だけど、傷もないのに胸が痛むことがある。それは心といってね。誰もが持っていて、とても大切な物だ。その痛みを知っているのは君だけじゃない。他の人もまた、同じ痛みを持つということは、覚えておくんだよ」

「うん」

 そうして手がすっかり冷えた頃、人体模型は冷めた茶を飲んだ。

「ぬるくなってしまったが、どうだい?」

 なんと言えば良いのだろう、舌に残るこの感覚に思わず眉を寄せる。

「はは、少々苦かったかな」

「にがい」

「ああ、きっと君の舌にはまだ早かったのかもしれない。次はもうちょっと薄めに淹れておこう。あとは……味というものも知らなくてはいけないね」

 知ることはまだまだ多いらしい。

「人間って、難しいね」

「そうかい?」

「だって、痛みとか、心とか、苦いとか、味とか……知らないことばっかりだ」

 こんなに人そっくりに作ってあるのにな、と零すと、英は優しく頭を撫でてくれた。

「分からないなら、少しずつ知っていけばいい。君が知らなかったり分からなかったりした物は、私ができる限り教えよう」

「うん。ええと。ありがとう?」

 人体模型の言葉に、英は笑顔で頷いてくれた。

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