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桜下で出会った影のススメで 後編

「……そろそろ夜が明けるか」

 影――獏は立ち上がり、いつの間にか明るくなってきていた障子を開け放った。

 その向こうは縁側があり、小さな池と庭があるのが見えた。

「そういや、お前の名前も聞いてねえな」

 人に聞くだけ聞いといて名乗らないとは食えねえ奴、と獏は笑った。

「ああ。ごめん。俺は幹彦。法口幹彦」

「みきひこ、幹彦な。なんかもっと儚そうな名前が似合いそうだが――ま、いいや。幹彦」

「うん?」

「お前の夢を食う対価の話だ。少しだけ道を示してやる。起きたらこのまま学校に行け」

 獏は唐突にそう言った。

「学校?」

 その背中に問いかけると、そうだ。と、頷いた。

「そうすれば、二人とも満足な生活が送れる」

「……」

 幹彦はその言葉に何か引っかかる物を覚えた。

 どういうこと、と問うと、獏は当たり前のように答えた。

「ここが学校の敷地なのはもう知ってるだろ?」

「うん」

「お前の夢は底に何かが淀んでるが、夢に見てるのはその上澄みだ。学校の中に吹き溜まる感情だ。反映は無意識だろうが、その具合が絶妙なのは才能だ」

 ならば。と言葉は続く。

「お前は学校の中で過ごすべきだ。生徒に混じって、話を聞いて、夢を見ろ」

「それで、学校に?」

「そう。心配することはねえよ。既にお前の同類も居るし、これからもっと楽しくなるぞ」

 獏は機嫌よさげに庭へ降りる。池には白い腹を見せた鯉が数匹ぷかぷかと浮いていた。

「楽しくなる?」


 彼の言葉は理解し難い。

 いや、言っていることは何となく分かる。

 だが、受け入れてしまってはいけないような気がした。

 ああ、もしかして俺は、なにか間違ったことをしてしまったんじゃないか?

 何の確証もない。ただの直感だけれども。

 背筋をそんな冷たい感覚が滑り落ちる。


「ああ。話に聞いたこと位はあるだろう? もしかしたら見たこともあるかもしれねえな。動く模型。あり得ないはずの放送。狐を呼び出す硬貨と紙切れ。人の目に見えない恐怖、幽霊、妖怪、化け物……そういったものが増えていく」

「?」

「どうしてかって顔をしてるな」

 獏は振り向きもせずに幹彦の表情を言い当てる。

「それはな――」

 少しだけ振り返った獏の横顔が、にやりと笑う。

 それは自分によく似ているけれども、ひどく冷たいものに感じた。


 □ ■ □


 サクラは目を覚ました。

 ぼやけた視界に、三角フラスコに入った桜の枝が映る。

 どうやら窓辺でうたた寝をしていたらしい。そのまま寝転んだら倒してしまう所だった。危ない危ない、と窓を閉める。風に乗ってきたのか、髪に引っかかっていた桜の花弁をフラスコに落として、サクラは改めてベッドに寝転がる。

 外はまだ明るく。日も高い。人の気配はあるけれど、そこまで活気がない所を見るに授業中なのだろう。夕方までもう少し時間がありそうだ。

「それにしてもこんな夢見るとか……久しぶりだな」

 アイツとの。自分の中に住む何かとの出会いを思い出すと、少しだけ気が重くなる。が、これも彼の思うツボのような気がして複雑な気分だ。

 いや、実際そうなのだろう。

 

 あの後どうしたんだっけ、と少しだけ考える。

「そう。学校に……行ったんだ……」

 思い出すとまた眠気が訪れる。

 そして、夢に落ちていく。


 □ ■ □


 あの後。目を覚ました幹彦は、言われるままに校舎へと足を踏み入れた。

 理科室にまつわる話をよく聞くから、それらしい部屋を探す。しばらく歩き回って見つけた理科室はがらんとしていた。

 それはそうだ。言われるままに校内へ入ってみたが、こんな早朝に人が居る訳がない。夕方くらいに出直した方がいいかなと考えていたら、奥にある戸が突然開いた。

「!」

 思わず背筋を伸ばして固まった幹彦の前に現れたのは、初老の男性だった。教師なのだろう。骨張った手で数冊の本を抱えている。白髪まじりの髪、目尻のしわ。白い木綿のシャツに緑のネクタイが彼の雰囲気を一層柔らかく見せる。

「おや、君は」

 着物姿のままやってきた少年に、彼は驚いた様子もなく笑いかける。

「人じゃないね」

 戸惑いながらも頷いた幹彦を、彼は奥の個室――準備室へと迎え入れた。

「私は(はなぶさ)と言う。ここの教師をしている」

「法口幹彦、です」

「法口君だね。お茶は飲めるだろうか?」

 そう言いながら、英は温かなお茶を出してくれた。湯呑みに触れることはできなかったが、温かな香りを感じながら「この学校で過ごしたい」という話をした。唐突な相談にも関わらず、英は驚いたり気味悪がったり、否定的な反応はしなかった。そればかりか、生活に必要な準備をしてくれた。

 まずは、夜の間だけ英の元へ訪れる、人体模型の少年を紹介してくれた。

 それから二人には、この学校での生活や学生らしい服装について教わった。詰襟の学生服に袖を通し、伸びていた髪を結んだ。少し落ちていた視力は、英が使わなくなった眼鏡を譲り受け、幹彦の学校生活が始まった。

 

 最初は夜に校内を見て回り、昼は準備室の隅で眠った。他の人に姿が見えるかも分からない、手探りの生活だったが、英はお茶やお菓子を差し入れ、色んな話をしてくれた。

 見る夢は相変わらずひどいものだったけれど。それが目覚めた時まで尾を引くことは少なくなった。きっと夢の終わりを見計らって獏が食べているのだろう。

 それはありがたいけど、代わりのように僅かな頭痛が残るようになった。

 時々記憶が無くなっていると気付いたのは、しばらく経ってからだった。

 英や人体模型の少年に聞いてみたけれども、二人とも気付いていなかったらしく、詳細は分からなかった。ただ、そういう時は、慢性的になってきた頭痛がいつもより少しひどくなるから、獏が何か関係しているのだろうと幹彦は考えていた。


 学校で過ごし始めて一年ほど経った頃。

「あの。英さんは、どうしてここまでしてくれるんですか?」

 授業の空き時間にお茶を飲みながら、幹彦はそう問いかけた。

「そうだな……私は昔からそういうのに縁ある体質でね。どうにも放っておけないんだ」

 助けてもらった事もあるし、彼らへの恩返しみたいなものかな、と彼は笑って答えた。


 英が学校から居なくなると、獏と会話をする時間が増えてきた。

 夢の中だけではなく、起きてる間でも獏の声が頭に響くようになった。内容は食べた夢や学校内の噂、幹彦が見聞きした出来事についてが多かった。会話だけではなく、勝手に記憶が掘り返されたり、身体の主導権を奪われていると気付いたのもこの頃だ。時々起きる記憶の欠落はこのせいだった。

 ひどい頭痛や目眩を伴うし、夢には関係ないからやめてくれと怒るけれど、獏がそれを聞き入れる様子はなく、逆に「これは学校のためなのだから諦めろ」と言われた。

 どういうことなのかと尋ねると、獏は「見せてやる」と言ってその日の夢に現れた。

 いつもの和室。着物姿の幹彦の前で、学ラン姿の獏は襖を開き、奥の座敷へ入っていく。

「ほら。見てみろ」

 明かりのない座敷の隅を指で差す。暗い部屋の更に隅。そこには、闇や影とは違う、黒くどろりとした何かがあった。

「これ……何?」

「なんだろうな」

 俺にも分からねえけど、と、獏は笑いながらそのどろりとした物を手で掬い上げる。

 色白の細い指を滴り落ちるそれは、幹彦が何度も夢に見た病によく似ていて、見ているだけで気分が悪くなってくる。それに獏が軽く息を吹きかけると、手の平の上で小さな鳥が生み出された。

 骨と皮ばかりで歪な形の小鳥は、ぎゃあと一声泣いて息絶える。そのまま腐り落ちるように崩れ、指の隙間からぼたぼたと落ちて畳を汚した。

 手の平の小鳥が一声鳴いた。それだけなのに。

 胸の奥。腹の底。そんなところを低く不気味に奮わすような声はあまりにおぞましくて。

 幹彦はしばらくその声にうなされ続けた


 そうしているうちに、月日は飛ぶように流れていく。

 校内で過ごす存在(なにか)もかなり増えた。時々騒ぎも起きるけれど、基本的に穏やかで、賑やかで。頭痛と吐き気と記憶の欠落に悩まされることはあるけれど、病床に伏していた頃には想像もつかなかった、目が回るような日々だった。

 そんな日々の中、幹彦はあの夜――獏と出会った夜の夢を、思い出すように夢に見る。

 目を覚ますと獏は「お前、以外と根に持つよな」と笑うが、見てしまうものは仕方ない。


 明け方のような明るくなっていく空の下、死んだ池の前。

 学校が楽しくなる、と断言した獏は、振り向きもせずに幹彦の表情を言い当て、「それはな」と言葉を続けた。僅かに振り返った横顔がにやりと笑った。

「この学校にそう言う話が集まるだろ? それはいずれ意思や姿を得る。そのきっかけを作るのが、いや、作ったのが。俺だ」

「――」

 彼の言葉は簡潔だったけど。幹彦の理解には十分だった。

 こいつは獏と言ったが。そんな存在じゃない。

 それは直感だけど、妙な確信があった。

 夢を食べて生きているけれども、それ以上の底知れない何かだという感覚が、幹彦の背筋をひやりと刺した。

 病床で読んだ本の中にあった、どこかの昔話。妖怪や鬼神、怪異について語り聞かせた者についての話を思い出す。もしかしたらそれに近い存在なのかもしれない。

 薄暗い闇から。噂話から。人の想像、空想から。数多くの人ならざるものを。恐怖するものを呼び出し、形にする者。

 校内で幹彦が耳にした噂話の中にも、彼が作り出したものがあったのかもしれない。

 そして、これからも増えていくという言葉に、幹彦の頭の奥が冷えていく。


 自分はもしかしなくても、その一端を担う事になる。

 学校内で生まれ過ごす、人ならざる者達の存在の根元を握る何かになってしまう。

 それは、とんでもないことなのではないかと、愕然とする。

 いや、そもそもだ。と幹彦は自分の手を見た。

 この身体も、あの黒い何かで作られているのではないだろうか? 病を思わせるあの物体が、この手の。身体の。皮一枚下に蠢いている――?


 その表情すらも、獏には嬉しいものだったらしい。

 いつの間にか池に視線を戻していた獏は、くつくつと背中で笑っていた。

「そう楽しみになるような顔するなよ。俺の提案にお前は頷いた。お前の夢は約束通り喰ってやる。逃げ道はない。俺はここから出て行く気もない。お前がこれからも美味い夢をたんと食わせてくれること――」


「楽しみにしてるぞ?」

 ――これでお前も共犯だ。


 あの時の声に、そんな言葉が重なって聞こえた気がした。

 後悔しても遅い。自分はもう頷いたのだ。

 そもそも、幹彦はただの人間。幽霊であった自分に、この存在を止める力なんかない。負の感情を悪夢に換え、彼に提供する。そんな機関に成り果てるしかない。

 気付いた時には全てが手遅れだった。


 □ ■ □


「……」

 目が覚めた。

 夢の続きを見ていたと気付いたサクラは、小さく息をついた。

 ああ、頭が痛い。寝転んだまま頭をさすり、夢のことを思い出す。

 確かに、ひとりで悪夢を見続けるのはとても怖かったし不安だった。

 終わりが見えなくて、死ぬこともできなくて、ずっとこのままなのかと震えていた。

 けれども。

 この獏と出会った事こそ、悪夢の始まりだったのではないか。なんて考えてしまう。


 罪悪感と恐怖と不安がつきまとう日々の入り口。

 それは時間が経ち、この場所で仲間と呼べる誰かが増えるにつれて重さを増す。

 こんな自分にようやく見出された価値だけど、一人で抱えるにはひどく重い。けれども手放すことは決してできない。まるで枷のようだ。

「まあ……そんな事言っても仕方ないんだけどさ」


 確かに、悪夢の始まりだったかもしれない。枷のような日々かもしれない。

 けれども。それに救われてる部分がないとは、言えない。

 今は今で、楽しくない訳ではないし。感謝すべき事だって……一応は、ある。

 サクラは、今見た夢と現状を比べながら、少し憂鬱そうな疲れたような、何とも言えない溜息をついた。

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