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桜下で出会った影のススメで 前編

 法口(のりぐち)幹彦(みきひこ)は、身体の弱い少年だった。

 武芸も学問もそれなりに修めはしたものの、ふとした拍子に風邪を引いてはそれを長引かせ、床に臥せることが多かった。そして、いつしか肺を患い、不治の病に冒された。

 労咳と呼ばれたそれは幹彦の身体をじわじわと蝕み、静養の甲斐なく奥の座敷で息を引き取った。


 長く続いた時代の終わり。新たな時代の幕開け。国にとっては大きな転換期であり、激動とも呼べる時代であった。そんな目の回るような世界で無理を押して過ごすよりは良かったのかもしれない。しかし、そんな時代であっても。いや、そのような時代だったからこそ、彼は年に一度の花見を心待ちにしていた。

 だから、親族は彼の骨を埋葬した所に桜の木をひとつ植えた。

 これなら春になれば好きなだけ花見ができるだろうという、若くして命を落とした彼への手向けだった。


 それから月日は流れ、数十年。

 彼が埋葬された場所は、村塾から発展した学校の第三校舎建設地として整えられた。植えられた小さな桜も、敷地の隅で淡い薄紅色の花を綺麗に咲かせる木へと成長した。

 ただ、その桜には少々変わった所があった。


 最初は一年に一度だった開花が、数年後には年二度になり、三度になり。今では年に四度。花を咲かせて散るようになっていた。


 少年はそれほど花見を心待ちにしていたのだ、桜が好きだったんだねと。季節外れに咲いては散る桜を見て、親族は口々に語った。

 きっと少年は、桜を見上げて花見を楽しんでいるだろう。

 そう、信じられていた。


 □ ■ □


 法口幹彦は。

 薄暗い座敷にひとりぽつんと座っている。

 畳や板の間で何かを引きずるような音に囲まれている。

 天井の木目からたくさんの視線を感じている。

 終わりの見えない廊下で何かに追いかけられている。

 白い腹を見せて泳ぐ池の鯉に餌を撒く。

 障子の向こうで、きいきいと音を立てて何かが揺れているのを聞いている。

 見知らぬ地で、斜め上を指差す誰かとただ向き合っている。

 どこかに沈んでいく。

 足元がぬかるんで、身動きが取れない。


 そんな。断片的で継ぎ接ぎだらけの夢をよく見る。

 助けを求めても、誰も居ない。

 夢の中でも胸が痛くて、苦しくて、身体は重くて。

 目を覚ましては、桜の木の幹に背を預けるように座り込んでいることに安堵する。

 肩を滑る髪が首筋に張り付いて気持ちが悪い。頬は火照っていて、呼吸も僅かに上がっている。そこに春終わりのさわやかな夜風があたると、ようやく自分の現状を理解する。

「ああ……夢か」

 口に出さなくても分かっているけれど。そうすることで少しは夢から目を逸らすことができた。

 幼い頃から熱を出しては夢にうなされてきた。それは何年経っても――死んでからも、変わらない。未だにそんな夢から逃れられないばかりか、恐怖心しかないなんて。成長してないな。と、苦笑いする。

 夜風はさやさやと穏やかで。今日も桜の枝を揺らしては花弁を散らす。

 最初は爽やかだった風も、ずっと当たっていては少々肌寒い。眠っていた間に少しだけ乱れた着物をきちんと揃える。


 自分の姿は、まるで影のようだった。

 黒い手。黒い着物。黒い髪。自分が見える自分自身は、余す所なく黒い影だった。ただ、桜の花弁が触れた所は一瞬だけ、ふわりとかつての色を取り戻す。


 自分がどうしてこのような存在になったのかは、分からない。

 幽霊話は数多く聞いていたけれど、まさか自分がそのような物に成り果てるなんて思っても見なかった。

 それ程この世に未練があったのだろうか?

 そうでもない、と幹彦は首を横に振るけれど、やっぱり人並みの健康は欲しかったかもしれない。武芸も学を修めるのも嫌いではなかった。これからきっと、日本は沢山のものを手に入れるかもしれない。それを見てみたかった。そんなことを思わなくもない。

「けどなあ」

 自分の身体が弱いことは理解していた。自分に幸福な未来なんて無く、家の重荷以上の価値はないと知っていた。だから、死ぬ未来も確かに受け入れた。なのに、このような影になってしまっているとは。健康もなにもあったものじゃない。下手しなくても自分自身すら幽霊の一員だ。

 こんなにも在り方は変わってしまったのに、夢だけは生前と変わらない。

 思わず溜息をつく。

 眠れば夢を見る。それが嫌で、できるだけ起きていたいのだけれども。

 死んでしまってもそれは叶わないらしい。

 夜空を眺めているうちに、幹彦は今日も夢路へと落ちていく。


 □ ■ □


 その日もまた、数ある悪夢のひとつだった。

 小さな和室にひとり座っていた。生前使っていた部屋によく似ている。

 胸が苦しくて咳き込むと、口に当てた手にどす黒い何かがどろりとこぼれ落ちた。

 溢れたそれは手の隙間から滴り落ち、着物を汚し、足元に溜まる。ぽたりぽたりと、畳の上で染みになる。

 不規則に散らばる染みが増えると、それはまるで何かのカタチに見えてくる。

 

 ――人の手みたいだ。

 そう思った瞬間、黒い染み――手はぐにゃりと伸びて彼の膝を掴んだ。


「――っ!?」

 畳だったはずの床は墨汁よりも濃い闇色になり、どぷん、と幹彦を飲み込む。

 手が次々と伸びてきては幹彦の身体へ張り付き、奥底へ引きずりこもうとする。

 嗚呼。沈む。

 苦しい。熱い。口に流れ込んだ闇が喉を焼く。咳き込むと、胸がひどく痛む。

 助けてなんてもらえない。自分の身体を蝕んだ病だ。逃げられないのは分かっている。

 けれども。けれども。

 苦しいんだ。胸が痛い。痛い。

 目から零れる涙さえも、黒くどろりと濁っている。

 黒に汚れた手を伸ばす。誰かが掴んでくれる訳もないのに。そんな事知ってるのに。

 精一杯手を伸ばして、掠れた声で足掻く。

「誰か――たす、け――」

 

 ぱし。とその手に何かが触れた。


「え」

 それは、幹彦をぐいと引っ張り上げ、乱暴に放り投げた。痛みはない。理解の追いつかない頭をなんとか落ち着かせて見渡す。夢によく見る小さな和室だ。

 夜なのか辺りは暗い。明かりもない。けれど、不思議と視界に支障はなかった。

 自分の手を見る。黒く濡れているけれども、誰かが引き上げてくれた感触が残っている。

「……誰、だろう」

 首を傾げると、視界の隅でもそりと動く何かが居た。

「わ」

 思わず声が上げ、そちらを見る。


 そこにあったのは黒い影だった。自分と同じように、畳の上に座っているように見えた。

 自分が形ある影だとするならば、目の前のそれは、人を模しながらもはっきりとした輪郭を持たないもやのようだった。

 感じるのは僅かばかりの……嫌悪感、だろうか。恐怖感ではない。

 例えるなら、夜が近い夕暮れ道で得体の知れない何かに出会ったような感覚だった。


 幹彦が僅かに身を退いて距離を取ると、その影は「おっと」と呟いた。

「こういう時はなんつーんだっけな。まあいいや。お前」

「お、俺?」

「他に誰が居るんだよ。見えもしない誰かに話しかける趣味はねえ」

 影は自分に話しかけている。

 そう理解した幹彦は「あの」と尋ねてみた。

 自分も既に人ではないからか。夢の中だからか。目の前の影が喋ることに何の疑問もなかった。

「さっき。助けてくれたのは、君?」

「助けた?」

「そう。手を、引いてくれた」

 影は少しだけ考えたように沈黙して「ああ」と頷いた。

「お前、この夢の主だろ? 夢を喰うのに主まで食っちゃあおしまいだからな」

「夢を、喰う?」

 あの黒い手が張り付く感触や胸の苦しみは今も思い出せる。影の言う通り、あれは確かに自分の夢だが。今は?

「ここも、夢じゃないのかい?」

 夢の中で夢を見ていたという経験はよくある。だが、こうして夢の中で夢だと認識し、自分の意思を持って会話をするのは初めてだ。

「そうだな。これも夢だ。でも、さっきのとは別物だ。アレは俺が喰ったからな」

「食べた……」

 あの、小さな和室に沈む夢を食べた、と目の前の影は言う。

 夢を食べる存在というのは実在するのか。話には聞いたことがある。目の前に座る影がそうなのだろう。突拍子のないことだったけれど、なぜかすんなり受け入れられた。

「ところでお前。夢、好きか?」

「いや、好きじゃないな」

 正直に答える。影は「だろうな」頷いた。

「お前の夢は美味かったからな」

「美味し、かった?」

 幹彦が繰り返すと、影はくつくつと笑って言い直す。

「悪夢ばかりだ、ってことだ」

「ああ」


 見る夢全てが悪夢という訳ではないけれど、恐怖や嫌悪感を覚える物が圧倒的に多いのも事実だった。

 それに、桜が学校の一部になって以来、校内で交わされる悩み事や話し声が夢に混ざるようになってきた。その影響で、夢の内容に幹彦の理解が追いつかなくなってきている。


 影はその答えに満足したようだった。輪郭が曖昧でよく分からないけれど、何となくそんな仕草に見えた。

「こうしてお前に話しかけたのは他でもない。取引だ」

「取引」

 そう、と影は頷く。

「率直に言おう。お前の夢をもっと喰いたい」

「夢を?」

「ああ、そうだ。お前の悪夢なは、つまんだだけでもかなりの上物だった。俺がこれまで食ってきた中でも滅多に味わえない、長い年月をかけて作り上げられた一級品だ。それに、まだまだ溜め込んでる何かがある。お前の奥底に澱みがある。しかも底が見えねえときた」

「……あんまり、嬉しくないな」

 苦笑いで答えると、「まあそう言うなよ」と笑いを含んだ声が返ってきた。

「俺にとってはこれ以上ない褒め言葉だ」

 と、いうわけで。と影は言う。

「俺が美味い夢を喰えるようになると、お前が悪夢に怯える心配は減る。どうだ? お前自身が夢を嫌いだというのなら、少しはマシな話じゃないか?」

「……」

「ま、本当は勝手に頂いても良いんだが。俺はお前の夢になら、それなりの対価を支払っても良いと思った。だからこうして話してみた訳だが。まあ、嫌だってんなら――」

「いいよ」

 幹彦の中でどうしてそのような結論が出たのか、自分でもよく分からなかった。ふとした拍子に溢れる涙のように、転がり落ちた言葉だった。

 穏やかに話をしているけれど、目の前の影に対して良い印象は抱けなかった。どちらかといえば、夕暮れにぽつんと残された影そのもののような。後からじわじわと忍び寄る恐怖を湛えた物語のようだった。

 なのに、自分は影を受け入れようと思った。

 もしかしたら、それだけ助けを欲していたのかもしれない。共有してくれるだけでもいい。終わりの見えない、怯えながら繰り返される夜をどうにかしたかったのかもしれない。

「俺の夢でいいなら」

「よし、決まりだ」

 影は握手を求めるように、影の一部をこちらへ差し出す。

 幹彦はその影の先をそっと取る。

 冷たくもなく、暖かくもなく。けれども確かな感触を持ったもの。

 ――手だ。

 幹彦がそう認識した瞬間。これまで曖昧だった輪郭が一気に形を為した。


 細い指。白い手首。濃い緑の着物。白く……いや、仄かに赤い、桜の花弁のような色の髪。最後に開かれた濃い桜色の目は、暖かな色に反して冷たい刃物のようだった。

 色付いた少年が、幹彦を見てにやりと笑った。

「へえ。お前、そんな姿だったんだな」

「え」

 そして初めて気付く。

 彼だけではなく。自分自身も色付いていた事に。

 影に触れた手。肩から流れる髪。着物の模様に至るまで。目の前で笑う少年と同じ色をしていた。

「――」

 黒くない。思わず自分の手をまじまじと見つめる。

 一瞬だけ見えることはあったけれど。こんなにも影ではない自分を見るのはどれくらいぶりだろう。もう随分と忘れていた色がそこにあった。

「はは……本当だ。俺、色白いなあ」

 ずっと外にいたなんて嘘みたいだ、という呟きと共に、頬に何かが流れた。

 夢の中のはずなのに、それはちっとも黒くなくて。

 透明で、温かかった。


 □ ■ □


「さて。俺は実体がねえから、これからはここに住むことにする。この姿もお前のだしな」

 そう言われてみれば、目つきや姿勢に違いはあるが、髪型や服装は自分と同じだった。

 鏡合わせのようでそうじゃない。姿だけを写した何か。

 向かい合わせの自分は、にやりと笑って「よろしくな」と言う。

「うん。――ああ、そうだ。ひとつだけ聞いてもいいかな」

「なんだ?

「君の名前は?」

「あー……名前か。名前、なあ」

 影は眉を寄せ、天井を斜めに見上げて考えるように呟く。腕を組んで、とんとんと指で袖を叩きながら、しばし難しい顔をして。

「無い」

 好きに呼べ、と言い切った。

「不便だなあ」

「無いもんは仕方ねえだろ。そう言って勝手に付けた奴も居たが」

「じゃあ、それを教えてよ」

 影はしばらく黙った後。

「――獏」

 ぽつりと呟くようにその名を告げた。

 気に入らない名前なのか、声は小さく不機嫌そうだったけれど。なるほど、夢を食べる者としてふさわしい名前だと、幹彦は思った。

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