まるとさんかく 3
学校は修了式を終え、春休みに入った。
長期休暇に浮き立つ校内を一通り見て回り、部活動にいそしむ生徒達と挨拶を交わした三枝は、景色を見ながら一服でも、と非常階段を訪れた。
少し離れた所に見える街並、更に遠くにある山。遺跡というには朽ち果てているけれど、何かしらの遺構が覗く丘。風も緩やかで暖かく、季節を感じさせる。
あの夜から、半月が経った。
「さて、私はどうなるのだろうな……」
三枝は手摺りに寄りかかる。煙草に火をつけ、深く吸い込むと。
「先生」
横から女子生徒の声がした。
咽せかけた煙を小さな咳で吐き出す。声の方へ視線を向けると、さっきまで誰も居なかったはずの階段に、いつの間にか生徒が二人並んでいた。
手摺りに寄りかかって立つ、影のような男子生徒と。階段に座って頬杖を付いている、栗色の髪の女子生徒。
少女に見覚えはないが、少年はあの夜に出会った影だとすぐ分かった。
「ああ、君か。久しぶりだな」
「うん」
頷くヤミを見ていると、生徒にしては随分と小柄だが、普通の子供とあまり変わりがないように見えた。
「そっちの君は?」
隣でにこにこと座っている女子生徒を視線で示して問う。前髪で目元は隠れているが、陽気そうな少女だ。彼女はにこりと笑って立ち上がり、胸に手を添えて小さく頭を下げた。
「自己紹介が遅れたね。ボクはハナ。ハナコさんのハナだ。このヤミちゃんの……んー、相棒?」
「違う」
「あははは! 相変わらず嫌そうな返事で結構。ヤミちゃんはこう言うが、彼とは付き合いの長い仲だ。よろしく頼むよ」
「ああ」
よろしく頼む、と三枝は頷く。
「それで」
ヤミが重たげに口を開く。その表情には「気が進まない」とありありと書いてある。
「色々話して。きたんだけど」
「いやあ、あのヤミちゃんの渋い顔は見物だった」
「うるさい。黙ってろ」
すぱっとハナの言葉を制して、ヤミは続ける。
「みんな最初は、そんな人が居るなんてって言ってた。反対意見もあった。けど、ラン……ケサランパサランが言うんだ。自分は絶対に願いを叶える。そういう存在だから。もう、それは決まってる。って」
だから、とヤミは言う。
「俺達は、受け入れることにした。というか、受け入れざるを得なかった」
「そうか」
無理を言ってすまなかったな、と言うと、ヤミは「別に」とだけ答えた。
口を噤むような彼の言葉を、ハナが継ぐ。
「で、その方法なんだけどさ」
「方法?」
三枝が問い返すと、彼女はうむと頷いた。
「彼は確実に願いを叶える。それは確かだ」
「ああ」
「ところがだね。人ならざる者が人と共に在るというのは意外と大変なんだ。人間に混じって過ごすのは現実的じゃない。となると、方法は二つ」
と、ハナは指を二本立てて見せる。
「人外が人間になるか、人間が人外になるか。だが。前者は難しいし、できると仮定しても、ケサランパサランの綿毛ひとつじゃあ、とてもとても釣り合わない」
いや、全部使っても難しいだろうね。と彼女はあははと笑いながら言う。
「ほう。それはつまり」
そう、と彼女は中指をしまい、嬉しそうに指をくるりと振って見せる。
「いっそ逆の方がずうっと楽――つまり、人間である先生が「そうじゃない者」になる可能性が高い。そうだな。採用率はほぼ十割ってところだ」
ふむ。と三枝は頷く。
「と、言うわけでだ。生身の先生がどうやって「こちら側」にくるのかは分からないが。それなりに何か起きるかもしれない。それだけは覚悟しておいてくれたまえよ?」
「ああ、分かった」
頷くと、ハナは「快諾ありがとう」とにこりと笑い、胸に手を当てて礼をして見せた。
「まあ。これまでのことを考えるに、学校内で何かが起きる可能性が高いだろうね。あと、一度は死ぬか、それに近いことが起きると思っていいんじゃないかな」
「死……」
突然突きつけられた単語に、三枝の表情が初めて戸惑った。
「おや、意外そうな顔だね?」
「突然そう言われたら、多少はな」
「まあ、それもそうだな! しかしボク達はこの学校の怪談、つまり人ならざる者だ。人間であることを捨てるのはほぼ必須。そうだと思わないかね?」
「そうか、そうだな……」
彼女の言葉を信じるなら。自分は人ならざる者になる。その為に、「人間である自分」つまり「命」を捨てる必要がある。それくらいは覚悟しておかなくてはならないだろう。
「わかった」
落ちそうになった煙草の灰を落としながら頷く。
「何が起きるか分からないが、君の言うことは分かる。心積もりは――」
それは、音もなく訪れた。
寄りかっていた手摺りが外れ、空中に身体が放り出された。
ヤミもハナも、手を伸ばしたが届かず。
遠ざかっていく二つの影と。手から離れた吸いさしと。遠く穏やかな青空を最後に。
三枝の記憶は途切れた。
□ ■ □
目が覚めた時。見えたのは薄暗い天井だった。
漏れる明かりを見るに夜ではないらしいが、電気が消えた部屋は薄暗い。
私は、どうしたのだろう。ぼんやりとした視界と頭で考える。
記憶を辿るのは容易かった。
煙草を吸いながら、ヤミとハナ、二人と話をして。
寄りかかっていた手摺りに重心を傾けた瞬間、それが外れたのだ。
ネジが緩んでいたのか、どこか腐っていたのか。理由は分からないが、手摺りは音もなく外れ落ちた。
浮遊感はなかった。それよりも胸が潰れたかと錯覚する程に、呼吸を奪われる衝撃の方が強かった。自分でも驚くほど冷静に思い出せた。
「せんせー、おきた?」
横からそっとかけられた声で、隣に誰か居ることに気付く。薄闇に慣れた目だが、色までは分からない。
ただ、それが誰なのかは分かる。
綿毛のようなクセのある灰色の髪。丈の合わない制服。違うのは表情。あの夜のような笑顔じゃなく、どこか落ち込んだような顔をしている。
「ああ。目は覚めた」
「いたくない?」
言われて気付く。身体に痛みはなかった。
「ああ。痛みもない」
「そっか」
よかったあ、と小さな呟きが聞こえた。
「あのね、ぼく、おねがいしたの。せんせーのいたいのが、なくなりますように、って。ぼくは、ぼくのおねがいかなえられないけど、ずっとおねがいしてたよ」
「……そうか」
手を伸ばして、彼の頭をくしゃりと撫でる。ふわふわとした髪の毛が、指をくすぐる。えへへ、と嬉しそうに笑う声に、胸の奥がぎゅっと詰まるような感覚が湧いた。
妻子も持たなかった三枝だが、愛おしさという感覚なのだろう、というのは分かった。
しばらくすると眼鏡の少年がやってきて、容態はどうかと聞いてきた。
大丈夫だと答えると、それじゃあ少し話をしたいと言って、少年の隣に腰掛けた。
「まずは自己紹介ですね。俺はサクラ。あなたのことはヤミ達から話を聞いてます」
「三枝だ。数学の教師をやっていた」
「はい。実は何度か授業を受けたことがあるんですよ」
「そうなのか」
「ええ。とても分かりやすくて良かったです。真直ぐな先生だなって思ってたので、話を聞いたときはびっくりしましたよ」
それで、とサクラは話を戻す。
「色んな説明は、明日になったらハナブサさんがしてくれると思います。なので、俺の話が終わったらゆっくり休んでください」
応急処置とちょっとした治療しかできなかったから、という声はなんだか申し訳なさそうだった。
「ああ、気遣いありがとう」
「いや、俺もこんな時に話をするのは負担かなって思ったんですけど。必要な話だけでもしなくちゃいけなかったから」
「ああ、構わない」
答えるとサクラは「ありがとうございます」と丁寧に礼を言い、それじゃあ、と話を切り出した。
「まずは、貴方の役割について」
「役割」
繰り返すと、彼は「はい」と頷いた。
「この学校、噂話とか怪談話が多いのは知ってると思うんですが」
ああ、と三枝は頷く。
自分達は語り継がれるほど力が強くなり、存在が安定すること。
三枝にはまだその話が存在しないこと。
「だから、早めにその役割を決めなくちゃいけません。これまで聞いた噂話に当てはまる物があればそれでいいし、これから作るというなら、俺達も協力します」
「なるほど」
「それから、もうひとつ」
と、隣に座っていた綿毛の少年の背中を軽く押す。
「この子……ランについてですが」
「ラン?」
「あ。ぼく、じこしょーかいしてない」
ええと、と何となく背筋を伸ばして綿毛のような少年は名を告げる。
「ぼく、らんってなまえ、もらったの。にがつにきたから、きさらぎ。きさらぎ、らん」
「ああ、そういう事か。――それで、ランが?」
はい、とサクラが頷いて話したのは。
ケサランパサランとは、本来ならば幸運を運び、願いを叶える存在だが、今の彼は、その願いの叶え方も捩じ曲がってしまっている。それを矯正したいのだが、その役目を任せても良いだろうか。という物だった。
三枝には、ひとつしか解答が見えなかった。数式のように導きだされた解は。
「ああ、分かった」
是。だった。
□ ■ □
サエグサは夕方の非常階段で紫煙を吐きながら、ぼんやりと夕日を眺めていた。
何か考え事をしているわけでもない。考えたところで、何かが進むわけでも戻るわけでもない。ただ、ぼんやりとしていたかった。それだけだ。
深く煙を吸い込んで、ふう、と吐き出す。
あれから数十年。噂話がサエグサに付いて回るようになった。
テスト前の放課後、どこかの教室から数学の解説が聞こえてくる。
数学の勉強をしていると、通りすがりの教師が教えてくれる。
その教室を見つけて話を聞くことができたら。その教師に教えてもらえたら。
少しだけテストの点数が上がるという。
「そんなもの、自身の努力と理解の結果なのだが」
噂話を聞く度にサエグサがつぶやくと。
「せんせー、おしえるのじょうず、だから」
ふわふわとした少年が、隣でにこにこと答えてくれる。
そんな日々を過ごしてきた。
ランは、少しずつだが人の願いを正しく叶える練習を続けている。
サエグサにとって、いささか分野が異なるものであったが、そこはサラシナが協力をしてくれている。ランに本を貸し出し、共に読み、話をしている。おかげで、願い事を正しく解釈することはできるようになった。しかし、その実現方法は捩じ曲がったままで、今でも直らない。それは彼の由来が「間違えた物」だから、その影響が消えないのかもしれない、とサラシナは言っていた。
そんな話をしつつも仲良く本を読む二人の姿を見て、まるで姉弟のようだと言ったら、「じゃあ、先生はウチのお父さんになると?」と聞かれてひどく困惑した。以来、その話題は口にしないようにしている。
サエグサに家族は居ない。いや、居なかった。と言った方が正しいのかもしれない。
幸せになりたいか、と問われた時によぎったもの。
――家族が居れば違っただろうか。
何もいらないと口では言ったが。もしかしたらランはあの時、この奥底に転がった願いを拾い上げ、叶えようとしたのかもしれない。
真実は分からないし、本人に聞くつもりもないが。それを自覚した時には、既に家族のように思える存在ができていたことは確かだった。
とりとめなく考えを巡らせ、紫煙を緩やかに吐き出していると。
「あ。せんせー、ここにいたー」
がちゃ、と廊下に繋がるドアが開き、灰色の綿毛のような髪がひょこりと覗いた。
「ラン」
どうした、と寄ってきた少年を見下ろす。彼はサエグサの袖を軽く引いて「そろそろ、ごはんだよ」と言った。
「ああ……そんな時間か」
気が付けば、夕日はすっかり沈んで空は藍色に染まりつつあった。
それじゃあ行くか、と携帯灰皿に煙草を押し込み、藍色の空に背を向ける。
これから向かう夕食の場は、今日も賑やかなのだろう。その賑やかさは時に騒がしく、「静かにしろ」と諫めたくなるが、嫌いではない。
実感があるわけではないが、三枝が思い描いていた家族とは。欲しかった居場所とは、このように賑やかなものなのだろう。それをくれたのは、一歩前を機嫌良さそうに歩く綿毛のような少年だ。
少しだけ歩幅を広げ、横に並ぶ。歩きながら、くしゃりと頭を撫でる。
「? せんせー、どうしたの?」
不思議そうに問いかけつつも撫でられるままのランに、サエグサは何も言わない。
ただ、そうしたくなっただけだ。
定規のようなこの数学教師には、その感情を上手く表現する言葉が見つからなかった。
数式で表現するには複雑すぎて。言葉にするには語彙が足りない。でも。綿毛のようなこの少年は、その手をいつでもふわりと受け止めてくれるのだ。
いつかその綿毛で角が丸くなったら、うまく言葉にできる日が来るのかもしれない。





