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まるとさんかく 1

 ケサランパサラン、と言うものが流行っている。

 三学期が始まってすぐの頃。数学教師の三枝は、そんな噂を耳にした。

 

 なんでも白い綿毛のようなもので、ふわふわ漂っているらしい。

 育てると幸運を呼ぶとか、願いを叶えてくれるとか言われている。

 必要なのは、穴を開けた桐の箱と、主食のおしろい。

 ただし、決して育て方を間違えてはいけない。と話は結ばれる。


 そのような話はこれまで何度も耳にしてきた。

 白いお面を被った人物が佇んでいるとか。ずぶ濡れの女が立っているとか。狐に喰われて誰も居なくなった家だとか。人々の噂に上っては消えていく、数多い話のひとつだ。

 三枝は噂を学校内で耳にしつつも、生徒達の他愛無い噂話だと思っていた。

 

 ある日。

 職員室に戻る三枝の前に、ふわりと綿毛のようなものが飛んできた。

 風に乗って顔の前を通り過ぎ、引き返すようにして肩に引っかかった。

 つまんで空中に放つ。が、それはふわふわと彼の周囲を漂った後、肩へと落ち着いた。

 それは何度やっても同じだった。後ろに放り投げて歩いても、適当な所に置いても、風に流しても。綿毛は三枝を追うようにふわふわと跳んできて、肩や腕に引っかかる。

「……」

 まるで意志を持っているかのようだ。

 そう思ってしまったからだろうか。これが噂のケサランパサランなのでは、とよぎった。

 そこで、偶然だと片付けてしまえば良かったのだ。職員室に戻り、ゴミ箱にそいつを放り込んでしまえば良かったのだ。

 それなのに。

 職員室に戻った三枝は、白墨の入っていた木の箱に綿毛のようなそれをそっと置いて。

 蓋はなかったから、とりあえず三角定規で蓋をした。


 そのまま机の引きだしに放置する事、数日。

 三枝はテストの採点をしながら、ふと箱の存在を思い出した。

 箱をしまっていた引出しを開ける。整頓された予備の文房具や道具が並ぶ一角に収まっている白墨の木箱。綿毛はそこにまだ在った。三枝はそれを見て「おや」と瞬きをした。

 白墨の粉で白く染まっていたはずの箱が、新品のようになっていた。心なしか綿毛の量も増えているように見えた。

「白墨を餌にでもしたのか?」

 そう言いながら赤鉛筆の先で蓋になっている定規をこつこつと叩く。

 ただの綿毛だ。喋る訳ではない。きっと定規の穴から吹き込む風か何かのせいで綿毛に粉が絡んだのだろう、と思っていた。

 ところが、その音に反応するかのように、綿毛がころころと箱の中を一周したのを見た。

「えっ」

 思わず三枝は手を止め、己の目を疑った。

 眼鏡を外し、目をこする。

 そうして再度、鉛筆の先で定規をつつく。

 綿毛は返事をするように、くるりと箱の中を一周した。

「……馬鹿馬鹿しい」

 そう呟いて採点に戻る。

 そんな非科学的な物が存在する訳がない。疲れているのだろう。そう考えることにした。

 でも。何故か「もしかしたら?」という可能性を捨てられず、掃除の時間に白墨の粉を手に入れ、少しだけ入れてみた。数日すると粉は消え、綿毛はその量を増した。

 粉を入れる場所を変えてみても。色を変えてみても。数日放置すると粉は消えた。

 箱の中でも見失いそうなほど細かった綿毛はいつしか、箱の中をふかふかと埋め尽くしていた。


 □ ■ □

 

 二月のある夜。

 職員室でひとり残って仕事をしていた三枝は、かた、という小さな音を聞いた。

「……?」

 この部屋には誰も居ない。風の音だったのだろうと仕事を続ける。


 かたん。

 確かに音がした。

 手を止めて、耳を澄ます。音の出所を探す。

 

 からん。

 引き出しの中からだ。あの蓋にしていた定規が落ちのだ、となんとなく思った。

 なるほどそうかもしれない、と引き出しを開けると。

 そこには溢れんばかりの綿毛があった。

 

「な……」

 言葉が続かなかった。

 絶句とはこの事を言うのだと痛感する程に、喉に何かが詰まっている。

 昼間はこんな事なかった。木箱の中も、綿に見えるほど育った綿毛が入っていただけだ。

 なんだこれはと思っている間にも、綿毛はもこもこと増えていく。

 ぽりぽりと何かをかじるような音がする。入っていた鉛筆でもかじっているのか。いや、かじることなどできるのか。そもそもこれは、何だ?

 言葉を失い、目の前の物を見るしかできない三枝の前で、綿毛は増え続ける。


 ぽそり、と綿毛がひとつこぼれ落ちた。

 ひとつ。

 もうひとつ。

 後に続くように、引き出しの綿毛は溢れ、床に落ちる。

 落ちた綿毛は、風に乗るようにふわりと転がり、まとまって。あっという間に膝の高さほどにまで積もっていく。

 いや、ただ積もっているだけではない。

「せー せー」

 風のような。囁くような。そんな音がした。

「……」

 その音は、同じリズムを繰り返しながら、もそもそと何かの形になっていく。

「せ、ん  せ」

 何かの。音。声。

「せん、せ」

 何かの。影。形。

「せんせー」

 子供だ。小学校高学年ほどの、子供の声。

 風の音は、たどたどしくも「先生」と呼んでいるのだと、ようやく気付いた。

「……私の、こと。か?」

 零れた言葉に応えるかのように、一陣の風が吹いた。

 ばさばさと舞いかけたプリントを押さえた瞬間、目の前の綿毛が舞い上がった。

 思わず目をつぶり、顔を逸らす。

 風はあっという間に吹き過ぎ、静寂が戻る。

 今のは何だったのだと三枝が目を開くと、誰も居ない職員室があった。

 そよ風もなく、綿毛などひとつも落ちていない、静かな部屋。

 ただ。代わりのように少年が立っていた。

 綿毛のような灰色の髪。小柄だからか、制服の丈が合っていない。三枝を見上げる目も髪と同じ灰色で、にこにこと笑うその顔は幼くあどけないが。

 この場に相応しい存在だとは言えなかった。


 なにせ夜の学校だ。

 生徒達どころか教師も全員帰宅している。校内に居るのは三枝と、先程様子を見に来た泊まりの用務員くらいだろう。なのに。この少年は。

 いや、と小さく首を横に振る。分かっている。このような話は信じ難いし、簡単に受け入れられる物ではない。しかし、目の前に立つ少年の存在は確かだった。

 だから、問いかけた。

「君は、なんだ?」

 彼はぱちぱちと瞬きをして、「せんせー。あの、ね」と、辿々しく言葉を連ねていく。

「せんせー、は。し あわせ?」

 質問の意図が分からなかった。けれども。その問いの意味だけは分かった。

「普通、だな」

 飾りも何もない、率直な答えだ。

 教師という職業に不満はない。戦時やその後の復興で苦労したことはあったが、それも己が選び歩いてきた道だ。結果、プラスに転じることもマイナスに落ちることもなく。落ち着くべき所に落ち着いた。そう思っている。

「ふつー?」

「ああ」

「しあわせ、にー なりたい?」

「分からないな。現状、望む物はない。――ああでも」

 敢えて言うなら、家族が居れば違っただろうか。

 そんな言葉が出かかったが、なんとなく飲み込んだ。

「いや、なにもない」

「なにも。いら ない?」

「そうだな」

 そっかー。と頷いた少年が、にこぉっと笑って手を伸ばしてきた。

 頬に触れたその指は、暖かくも冷たくもなく。目を閉じていれば気のせいだと思えそうなほど軽かった。

「それ じゃあ――」

 言葉は最後まで続かなかった。

 代わりのように、その喉元から黒い枝のようなものが生えていた。

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