なんだかんわ
日ごとに夏の気配が増し、制服も夏服への移行期間となった。
午後の理科室も、窓を開け放しておくだけで爽やかな風が吹き込んでくる。
その一角。黒い実験テーブルで何かを待つサクラの向かいから、「のう」と、眠たそうな声がかけられた。
そちらを向くと、白いブラウスに水色の着物を羽織った女性が頬杖をついていた。日差しに透ける白い髪と睫毛から、声と違わぬ眠たげな赤い瞳がテーブルを見つめている。その表情は眠たげというより不可解そうだ。
「どうしたの、シグレさん」
答えたサクラに、彼女は「うむ」と小さく頷いて口を開いた。
「どうしてわしはここへ連れてこられ――」
「はーい、お茶はいったよ!」
「お菓子も、持ってきました」
割り入ってきたジャノメとサカキの声に、彼女は口を閉じ、眉を寄せた。
あ。これは機嫌が悪い。そう察したサクラはシグレからそっと目を逸らした。
聞かれても答えられなかったけれど、なんてタイミングだろうと心の中でつぶやく。
入ってきた二人は学ランではなく、長袖のシャツを着ていた。その上から、ジャノメはフード付きのパーカーを、サカキは山吹色のマフラーをしている。二人はサクラの内心もシグレの表情の変化も知らずに、甲斐甲斐しくお茶会の準備を整える。あっという間に、湯気の立つ緑茶と、艶やかな焼き色が見事なカステラがテーブルに並び。二人はそれぞれの定位置――サカキはサクラの、ジャノメはシグレの隣へ座った。
「……のう」
「うん、なあに? シグレさん」
さっきよりも僅かに低くなった彼女の声に、今度はジャノメが答えた。彼女を覗き込むように首が傾いて、短く整えた赤茶色の髪がフードに触れる。
「わしは何故ここへ引っ張ってこられたのか、説明してもらおうか」
彼女の声には眠気と不機嫌が混ざっている。彼女が神様だからか年上だからか。なんとも言えない「下手に触れてはいけない」感がある。
だというのに、ジャノメは彼女の空気を気にかけた様子もなく、「それはね」と笑った。
「ぼくがシグレさんとお茶を飲みたいなって、思ったから」
「……」
ひやりとした沈黙とシグレの視線が目の前の緑茶に注がれた。
一方で、ジャノメは機嫌良く湯呑みに口をつけ、「熱っ」と舌を出す。
彼らしい回答だ。とサクラは心の中で頷く。シグレの事が好きだと、日々公言する彼のこと。本当に、ただそれだけの純粋な理由なのだろう。
うん。それはいい。いいんだけど。そうすると、ひとつ疑問が湧いてくる。
「ええと、じゃあ……俺とサカキくんは、どうしてかな?」
サクラも、廊下でばったり出会ったジャノメに連れてこられた身だった。多分サカキもそうだろう。けど、彼がシグレとお茶を飲みたいのなら、二人きりでもいいはずだ。なのに、どうして自分達はここに居るのだろう?
「んー。あのね」
ジャノメはふーふーと湯気を吹き、湯呑みに口をつけて答える。
「シグレさんはサカキさんと一緒によくお茶してるでしょ? だから呼ぼうって思ってて。それじゃあサクラさんも呼ばないとかなあって。それに、多い方が楽しいし」
「……そう。そっか……?」
あまりに無邪気で、正直で。言葉に困る回答だった。
確かに自分ははサカキと共に居ることが多い。それは、サカキがこちら側へやってきた責任をとると約束したから。保護者のようなものだ。あと、サカキが目標に近付くための見本――先輩として。だ。
だから、俺はサカキくんの側に必ず居ないといけない訳じゃないんだけど。……とは、なんか言えなかった。
サカキを拒否する訳ではない。むしろ危ない目に遭うならば、守らなくてはならないと強く思っている。でも、サカキの。彼女の自由を奪うような存在にはなりたくなかった。
でも。自分自身の中に浮いてきたその言葉は、どうしてか自分にとって重く、胃の辺りにもたれかかるような気がした。本心のはずなのに。
胃の辺りをさすってみる。特に違和感はない。なんだろう。
「サクラさん、大丈夫ですか?」
「え、うん? うん」
サクラの様子を心配するサカキの声に、サクラは大丈夫だよと頷く。
胃か胸か。この重い何かにサクラは首を傾げる。かつての病ではない。自分の身体を蝕んでいた病は、身体の死と同時に消え去ったはずだ。でも、なんというか。考えるほど薄れていくのに存在感だけは残る何かが、確かにある。
後でヤツヅリくんに診てもらおう、と一口お茶を口にすると、それは温かな温度に溶けたのか、少し楽になった気がした。
□ ■ □
「そろそろ梅雨だね」
ジャノメが嬉しそうにカステラを口へ運ぶ。しゃりしゃりとザラメの砕ける音がする。カステラの甘さか、梅雨だからか。彼の頬は緩みきっている。
「雨が多くなりますね」
「うん、雨が多くなるね」
こくん、と飲み込んだジャノメがサカキの言葉を繰り返すように頷いて、何かを思い出したようにふふっと笑った。
「サキさんが大変な時期だね」
ジャノメの言葉が意味するところを察して、サクラも「そうだね」と苦笑いする。
サキは、かつて美容師を目指していた少女だ。志半ばで命を奪われてしまったが、今はその能力を生かし、みんなの散髪や髪の手入れをしている。
梅雨。湿気の多い季節。この時期一番大変なのは、髪質が湿気に左右される人だ。
例えば、ヤミ。
例えば、カガミ。
例えば、ラン。
そもそもカガミは、時々寝癖すら直さないまま朝食の席に現れることがある。その度に、サキは二人を呼び寄せ、櫛を通してやっている。毛先に癖が付きやすく、梅雨の時期はその頻度が特にあがる。
ランはふわふわとしたくせっ毛だから、湿気が多いと癖が一層強くなる。本人はちっとも気にしていないようだが、サエグサに「その髪をどうにかしろ」と言われると、カガミと一緒にサキの順番待ちをする。
ヤミも普段から跳ねている部分に癖が強く出るのだが、彼はただ深く帽子を被るだけだ。
一度、どうにかならないかと相談したが、櫛を通した瞬間、「あ、これは強情すぎる。というか、君の特性だからちょっと」と、匙――いや、鋏を投げられた。
そんな感じで、湿気が増えるこの時期は、サキのやることがちょっと増える。
「ぼくも髪の毛ちょっと切ってもらわないと」
と、ジャノメは自分の襟足をつまんで、はふう、と溜息をつく。
「みんなは髪の毛さらさらでいいなあ」
「ああ、そうかもね」
サクラとシグレはさらっとした髪質だし、サカキは手入れが不要だと見て分かるほどのストレートだ。
サカキの髪を見たジャノメは「ところで」と声をかける。
「サカキさんは髪、伸ばさないの?」
「え。髪、ですか?」
サカキは自分の髪をつまんで首を傾げる。
「うーん。僕、ずっと短かったので。なんだか想像が付かないですね」
「そうなの?」
「はい。ずっとこのくらいです」
「そっか。サカキさん、長いのも似合ってかわいいと思うよ。ね、シグレさん」
「さてのう」
それは人それぞれじゃから分からぬ。とシグレはお茶をすする。
「じゃが、サカキ。お主の髪は絹のようで芯が強い。伸ばせば綺麗な黒髪となるじゃろう。な、サクラ」
「っ!」
完全に聞きに徹していたサクラは、思わぬ所から振られた話題にカステラを詰まらせかけた。平静を装いながらお茶で流して「そうかもね」と頷いた。
「ハナちゃんとか、喜んで結んでくれそう」
「あ。それはちょっと楽しそうですね」
くすりと笑ったサカキの目に、前髪がかかる。
「ああ、前髪が。僕もそろそろ切ってもらわなくちゃいけませ――?」
目にかかる前髪を指先でどかしながら、瞬きをした瞬間。
サカキの視界の隅で、すい、と白い指が動いた。
その指はサカキのマフラーを押さえ、掬い上げるように顎を持ち上げる。
「?」
サカキの手が前髪にかかった状態で止まった。ぱちりと瞬きをして、何があったのかを把握しようとする。
強制的に向かされた視線の先にあったのは、濃い桜色の瞳。隣に座っているサクラだ。それは分かる。けど、その目にいつもの暖かさはなく。代わりに、春先に吹く冷たい風のようなものがあった。
二人の間に言葉はなく。サカキの手が、戸惑うようにそろそろと落ちた。
ジャノメとシグレは、突然の状況に二人揃って瞬きをした。
「おー。あごクイだ……?」
「なんじゃそれは」
「うーん。見ての通りだよ? この前女子がなんか動画見ててた」
よく分かんないけど、と。視線はそのままに軽く首を傾げる。
「ほう」
「というか。サクラさん、なんか様子違わない?」
「そうか?」
ワシには同じに見えるが、と、シグレは静かに目を伏せて湯呑みを口にする。
サカキが前髪に意識を向けた瞬間、サクラの表情が一変したのをシグレは見ていた。
理由は分からないが、何が起きたかはすぐに把握できた。
とはいえ、それをここで説明する理由はない。
隠す義理も同様にないのだが、話すと長くなりそうだし、下手に触れると後が面倒だ。
シグレは何も言わず、目の前の二人に視線を戻した。
「あ、あの……サクラさん?」
サカキの目には戸惑いと疑問の色があった。
サクラは答えず、ただサカキを見ている。見つめ合っている訳ではない。その視線はサカキの目ではなく、彼女自身を見ているようだ。
「あの――」
「髪」
「は、はい」
視線と同様の鋭さを帯びた声に、サカキの返事も小さくなる。
それで何かに気付いたらしいサクラは、一瞬視線を逸らして小さく息をついた。
「あー……うん。別にそのままでも、いいんじゃないかな」
それは普段通りの声だった。表情も視線も、あの冷たさは気のせいだったのではと思うくらい、慣れ親しんだ暖かさだ。
「え。あ……はい……」
頷くにも顎を押さえられて頷けないサカキは、戸惑いながら頷く。
サクラはそれに目を伏せるように頷き――ぱちりと瞬きをした。
表情が一変する。
それはまるで。今、自分が何をしていたのか分からない。そんな顔だった。
サクラは一瞬、何が起きたのか分からなかった。
がつんと頭を殴られたような痛みだけが残っている。
サカキとの距離。自分の指。この体勢。残る頭痛――。
理解した。
「……っ! ご、ごめ……うわ!?」
サクラはその指を勢いよく離す。ついでに距離をとろうとして、バランスを崩して椅子から転げ落ちた。椅子が倒れた音に混じって、ごす、となんだかいい音もした。
「サクラさん! 大丈夫ですか!?」
「痛ぅ……あ、うん。大丈夫、だいじょうぶだから……」
ずれ落ちた眼鏡を直しながら椅子を起こす。後頭部をさする。頭が内外から痛い。それ以上に頬が熱い。その痛みと熱を頭を振って冷ましながら、状況把握に集中する。
サカキが前髪を切らなきゃと言ったのは覚えている。それで、瞬きをしたら彼女をこちらに向かせていた。その間の記憶がすっ飛んでいて。頭はズキズキと痛んでいる。
心当たりはひとつしかない。
アイツだ。アイツのせいだ。サクラの中に住んでいる彼が、身体を乗っ取った。
人が多くなってからは久しくなかったから油断していた。
どうしてそんな事をしたのかも、何を言ったのかも分からないけど。
よりによって。なんか変なタイミングでやられた。
後で文句を言ってやろう。
それだけを決意して、溜息を飲み込むように椅子に座り直した。
□ ■ □
「あ、雨?」
ジャノメが外を見て声を上げた。
シグレも窓の外へ視線を向ける。空は晴れているが、雲の合間から雨の気配がした。
「降るんですか?」
サカキの問いに、ジャノメは「多分」と答える。
「でも、通り雨だと思うよ。すぐに止みそうだから、うまくいったら虹が見えるかも」
「わ。虹ですか」
「うん。出たらみんなで屋上行ってみる?」
「いいですね」
見に行きますか? とサクラに向けて笑うサカキに、彼は「そうだね」と頷いている。
ジャノメも二人を見てニコニコしている。
「なんじゃお主ら、虹が見たいのか。その程度ならワシが――」
調整くらいしてやると言うより先に、ジャノメが「ダメだよシグレさん」と止めた。
「虹が出る位の雨を降らせるつもりでしょう?」
「そうじゃが」
当然だと頷くと、ジャノメは「ダメだよ」と念を押した。
「虹は出るかな、出ないかなって楽しみにするのが良いんだよ」
「ふむ」
そういうものか。と呟く。
そういうものだよ。と頷かれた。
分からんなと思っていると、サカキの視線を感じた。なんじゃ、と問う視線を向けると、彼女はそれに気付いて少し申し訳なさそうな顔をした。
「あ。すみません。シグレさんは虹を出したりもできるんだなって、思って」
申し訳なさそうではあるが、その目にあるのは素直な感心だ。視線になんとも言えない居心地の悪さを感じながら、首を横に振った。
「空模様を操作するだけじゃ。そも。その名は人間が勝手に付けたもの。ワシの何が虹なのかも分からぬ」
「虹はね。全部の色を合わせたらシグレさんみたいな色になるよ」
ジャノメが得意げな顔で口を挟む。そうなのかと思うが、それだけだ。「虹蛇」という名に対して特段思うことはないし、その有無で力が左右されることもない。
「それに、今日は起きてくれるかな、返事してくれるかな、って思いながらノックするのが楽しみなんだから。それも一緒」
「ふふ、素敵な虹ですね」
「でしょ」
サカキの一言に、ジャノメは嬉しそうに頷いている。
「一緒なのか?」
「うん。白い蛇を虹と一緒に考える場所もあるし。やっぱりシグレさんは虹だよ」
二人の言うことはよく分からなかった。あまりに無邪気なものだから、どう答えたらいいのかも分からない。溜息をつく。
全く。ここに集った者達――いや、ここに住む者達は。
「不可解な奴らばかりじゃのう……」
そんなぼやきが漏れた。
そんな彼らの中でこうしてお茶を飲んでいる自分も、そんな不可解のひとりなのだろう。
そんな感想を、温かいお茶と一緒に飲みくだした。
ジャノメが淹れたこのお茶は、ハナブサの味には遠く及ばないが。
悪くはない味だった。





