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眠れない夜に

 夜は苦手だ。

 夜の薄暗さというか、目が慣れてしまった暗闇が苦手だ。

 それは、無力な自分をどうしようもなく思いだしてしまうから。



 ヤミはふと、目が覚ました。

 薄暗い。思わずぎゅっと目をつぶり、枕に顔を埋める。

 どきどきと自分の鼓動が聞こえてくる。

 いい加減慣れてしまいたいんだけど、目を覚ました瞬間の暗闇には、未だに心臓が跳ねかける。

 枕元の小さな電灯を頼りに時計を見て、夜も深いことを知る。

 はあ、と小さなため息が漏れた。


 夢を見た訳ではない。物音がした訳でもない。

 けれども妙な時間に目が覚めてしまった。

「……」

 こうなっては寝付けないのもよく知っている。

 夜風に当たろう。

 そう思って部屋を出た。


 □ ■ □


 廊下の突き当たりにある非常階段には、先客が居た。

 寝間着に羽織ったカーディガン。風にさらりと揺れるのは、長い栗色の髪。

「おや。眠れないのかい?」

 気付いた先客――ハナはこちらをちょっと振り返って、そう言った。

「……うん」

「ならばこっちに来ると良い。夜風が気持ちいいぞ」

 彼女はぱたぱたと柵を叩いて、ヤミを呼ぶ。


 ヤミは素直に彼女の隣へ立つ。

 柵に寄りかかると、夜風が髪を揺らした。

 涼しい。と、ヤミは目を細める。

 寝起きの気怠い身体には心地いい風だった。


 星はちかちか瞬いていて。細い月明かりと丁度良い具合で空に散らばっている。


「ハナはこんな時間に何してたのさ」

「うん?」

 ハナは遠くを眺めながら答える。

「君と一緒さ。なんだか目が覚めたら眠れなくてね」

「そう……傷の調子は?」

「もうどれだけ経ったと思ってるんだい? すっかり良いに決まってるだろう」

 ハナは呆れたようにそう言って、怪我した方の腕をぐるぐると回してみせた。

 それならよかった、とヤミは言う。

「それにしても、ヤミちゃんはボクの身体を気にし過ぎだ」

「だって」

 あの時は本当に死んでしまうかと思ったんだ。という言葉は飲み込んだ。

 彼女はそれすらも「気にしすぎだよ」と笑うって知ってるから。


 赤く濡れた生暖かい感触。それを今にも思い出しそうで。ヤミは両手を柵の外で広げた。

 指の隙間を涼しい空気が流れて行く。

 もうあの爪は使えないことに、なんとなく安堵する。

 武器は変わらずヤミの手にあるけれど、あの爪はもうない。それだけでひどく安心できた。


 そうして涼んでいる自分の手は、至って普通の、小さな子供の手だ。

 最初は感覚が掴めなくて苦労したけれど、もうそんなことはない。小さくなったことにも随分慣れてしまったな、と少し残念にも思う。


「そういえば、ヤミちゃん」

「うん?」

「新しい武器の調子はどうなんだい?」

 ハナが広げたヤミの手を、ついと指差して問うてきた。

「どう、って。変わってどれだけ経ったと思ってるんだよ」

「どれだけ経ったかなあ……ついこの間だったような気もするし、結構経ってるような気もするし」

 いやはや時間感覚が狂うねえ、とハナはからからと笑う。

「まあ、いい調子だよ」

「そうか。ウツロさんとは?」

「時々手合わせしてもらってるけど……勝てない」

「あはは。ウツロさんは変わらず腕利きだねえ」

 ハナは楽しげに笑う。

 ヤミはそんな彼女の声を聞きながら、広げた手をぎゅっと握る。


 ウツロには、訓練を兼ねての手合わせをしてもらっている。

 だが、武器が変わっても、何度挑んでも、ウツロを追いつめるどころか、剣を鞘から抜くことすらままならないでいた。

「伸びしろはあるんだがな。まずはその武器に慣れる所からだ」

 ウツロはそう言うし、校内で時々発生する実戦で負けたことはない。

 けれどもいつまで経っても、ヤミは彼に勝てないでいる。


「難しいなあ」

 ウツロとのやりとりを思い出して、溜息をつく。

「まあまあ、そこはヤミちゃんとウツロさんの実戦経験の違いかもしれない。頑張りたまえよ」

「まあ、うん」

「ボクも応援だけはしてあげるから」

「応援だけって」

 思わず突っ込んだヤミの言葉に、ハナは「いや、実際の所それしかできないよ」と笑った。

「適材適所ってやつさ。知っての通り、ボクは武道の心得なんてないからね。ボクの適所は君の応援。後はそうだな。負けたら暖かい声を掛けるとか」

「余計なお世話って言葉を知ってるか?」

「ああ、知ってるとも。だからやるのさ」

「それが余計だって言ってんだろうが」

 ハナはヤミの言葉を受けてあははと笑った。

「うんうん。そうやってボクの軽口に返せる位には元気が出たようで何よりだ」

 その言葉に、ヤミは思わずハナを見上げる。

 彼女の横顔は風を受けて。いつもと変わらない、涼しげな表情をしていた。

「……何、気遣ってくれてたの?」

「いや、別に?」

「……」

 言葉を失ったヤミの方へと振り向き、「冗談さ」と笑う。

「その言葉も冗談か怪しい」

「さてねえ……」

 ハナは楽しげに毛先をつまみ、しげしげと眺めてはらりと落とした。

「ところでヤミちゃん。眠れないついでにもうひとつ質問しても良いかい?」

「……内容によるけど。何?」

「なに、難しくも恥ずかしくもないさ」


「君。一体いつからボクが狐じゃない事があるって気付いてたんだい?」

「え」


 唐突な質問に、頬がなんだか熱くなった気がした。

 薄暗い闇の中。彼女に見えていないのは分かっているけれど、帽子を持ってくれば良かったなどと余計なことを考える。

 ハナは何も言わない。こっちも見ない。ただ答えを待っている。


 観念して答えることにした。


「……いつかは忘れた。けど、違和感があったんだ」

「ほう?」

 彼女は頷いて、それで、と続きを促すように耳を傾けてきた。

「言動はいつもと変わらないくせに、いつもよりちょっとだけ、楽しそうな日があった気がした」

 楽しそう、とハナが繰り返す。

 楽しそう。と、ヤミも頷く。

「なんて言えば良いのか分からないけど、食事とか会話とか。そう言うのが少しだけ」

「ほう。ほうほう」

「そんな日が何日かあって。影からも、なんだか楽しそうなのが伝わってきて。もしかして、って」

「あ。なるほどそこからバレてたか」

 失念していたな、とハナが笑う。

 影が繋がっていた頃は、強く抱いた感情や思考は相手に伝わってしまうことがあった。なるほどそれだけ――、と思いながら、ハナは続きを待つ。

「それから、しばらく様子を見てて、明らかに狐と違う時があるって気付いたのは……何年か前、かな」

「それが、あれか。笑い方」

 彼女はあの夜に言ったことをしっかり覚えていたらしい。なんだか恥ずかしくなったけれども、こくりと頷いた。

「どう違うかっていうのは、説明するの難しいけどさ」

「まあ、それはヤミちゃんだからこそ気付けたのだろうな。現に、君以外に気付いてる人は誰もいなかっただろうさ」

「うん」

「なるほどねえ。それでボクのことはバレてたってわけだ。それじゃあもうひとつ聞かせてもらおう」

 うん? とヤミの首が傾く。


「君。どうしてずっとボクを斬らずにいたんだい?」


 あまりに直球な質問に、ヤミは思わず言葉を喉に詰まらせた。

 彼女はそれに気付いているのかいないのか、言葉を続ける。

「だってさ。ボクはずっと待ってたんだよ。いつ斬り掛かられても良いように」

 けれどもさ。と彼女の髪が風に揺れる。

「君はちっとも仕掛けてこなかった。さっきも言った通りボクに武芸の心得はない。ヤミちゃんならボクの隙くらい、いくらでも突けた。しかもボクと狐の区別もついていた。なのに」

「……」

「なのに。どうしてボクを斬らなかった? いや、斬ろうとしなかった?」

 ヤミの喉がぐっと詰まった。


 その答えは、ずっとずっと見なかったことにしておきたかったものだった。

 だってそれは。

 それは。

 ヤミが一番恐れていたことだ。

 でも、黙ってたって彼女はきっと許してくれない。答えるまで離さないだろう。


「……から」

「うん?」

「怖かった、から」

 驚くほど声は小さく、弱かった。

 袖の中でぎゅっと手を握る。指先が冷たい。

「怖かった」

 ハナが繰り返し。ヤミはこくりと頷く。

 その一言で、ヤミの言葉が堰を切ったように溢れた。

「俺が、姉さんを殺した日の事、忘れてないよ。忘れられる訳がないだろ? 今すぐにでも思い出せるのに。あの夜のことも、あの感触も。それをもう一度繰り返せって? そんなのできる訳がないじゃないか! 魂が残ったのだって偶然だ。ただ。そう、ただ、運が良かったんだ」

 ハナは何も言わず、ただ彼をじっと見る。

「俺は、少しは強くなったかもしれない。武器も使えるようになったかもしれない。けど。けどさ。姉さんをもう一度切り裂けなんて。傷をつけろなんて。できる訳……」

 できる訳ないじゃないか。と、ヤミの言葉は落ちていく。

「だから、ずっと狐を見逃し続けてた?」

「……見逃したくはなかったよ。腹の底から憎かった。でも、それで攻撃を仕掛けたって、それこそ相手の思う壷じゃないかって。今度こそコイツは身体を全て乗っ取ってしまうつもりだって分かってた。……それなら、一緒に居た方がずっとマシだった」

 だって。と、ヤミの小さな小さな言葉が零れた。

「僕に、姉さんを助ける力なんて……」

「む」

 ぺちん。と頬で小さな音がした。

 何が起きたのか分からなくて瞬きをする。ハナの手が頬に強く当てられていた。視線を無理矢理合わせるように、彼女の手がヤミの頬を包んでぐっと上へと向かせる。

 前髪の隙間から、金色に光る瞳がちらりと見えた。

「そこまでだヤミちゃん」


 彼女の声は。低く。静かで。何か底に熱いものがあった。

 聞いたことのない声。

 ヤミは彼女の感情を、その一言で察する。


「それ以上言ったらボクは本気で怒るからね」

「……」

 だって本当のことじゃないか、という言葉をヤミは飲み込んだ。

 こんなに怒った様子の彼女を、見たことがなかった。

 言われた通り黙ったヤミに、彼女は不満げに声を上げる。

「あのねえ。ならばボクはどうしてここに居ると思ってるんだい?」

 ハナは頬を膨らませ、言い聞かせるように言う。

「ボクは。ここに居るハナコは。君が居たから今こうしてここに立っていられるんだぞ」

「……」

「君には随分と助けられたんだよ。君が気にかけてくれたから。それを知っていたから、あんな家でも過ごすことができた。ボクを殺してくれたから、家から出ることも叶った。それから……」

 はあ、と溜息をついて彼女は首を横に振った。

「全部言わないと分からないかい?」

 ヤミは小さく首を横に振ると、「よし」と頷いて頬から手が離れた。

「まったくヤミちゃんはもうちょっと自信を持ちたまえよ」

「……自信」

 ぽつりと呟くと、ハナは「そうさ」と頷いた。

「ヤミちゃんが気に病むことなんてないのさ。そんなのはみーんな過去のできごとだ。悔やんで変えられる訳じゃなし。ならば前を向いた方がずっと建設的だ」

「……」

「ヤミちゃんはなんだってできるんだ。君をよく知るボクが保証してあげるよ」

「なんだって……」

 繰り返すと、ハナは頷く……のではなく「ああいや」と片手を上げてその言葉を遮った。

「ちょっと言い過ぎたな。ウツロさんに勝てるかどうかはちょっと」

「なんでそこを掘り返してきた?」

「何となくさ。そこはヤミちゃんの努力次第。ボクじゃあ保障できないなと」

「そうだけどさ……」

 ヤミは少しだけ頬を膨らます。

「ま、精進しなよ。応援はしてあげるからさ」

「うん」

 頷くと彼女の手がヤミの頭に伸びてきた。

 わしわしと頭を撫でられたので手で追い払うと、彼女がくすくすと笑った。


 その声はいつも通りの楽しげな笑い声で。

 ヤミはちょっとだけ安心して、もう一度柵に身体を預けた。

「よし、ボクはそろそろ寝るとするよ」

 よいしょ。とハナが柵から身体を離した。

「君も眠れるようならちゃんと寝なよ?」

「ん。もうちょっと風に当たったら部屋に戻る」

「うん。それがいい」

 それじゃあね、とハナはひらりと手を振って非常階段をあとにした。


 ひとり残ったヤミは、深く息をついて空を見上げた。


 話をしているうちにでてきた薄い雲が星を隠し、細い月はいつの間にか消えていた。

 夜空の端はまだ暗いけれど、さっきのような無力感は……きっと一時的なものだろうけれどもなくなっていて。


 今ならもう少しだけ、眠れそうな気がした。

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