彼とサクラが見る景色 3
「え――」
サカキは背筋がすうっと冷えたのを感じた。布団はこんなにも暖かいのに、熱で頭はくらくらするのに。身体が震えるような冷たさ。指先が、固まったように動かなくなった。
「一人称……」
不思議そうにくり返したサクラも、何かに気付いた顔をした。
ヤツヅリはそれを見て頷く。
「そう。彼女は自分自身の事を一度も呼んでいない。あれだけ話をしておいて一度も、だ」
どうだい、とヤツヅリはサカキに問い直す。
「それは、その……ええと。わから、なくて」
「分からない?」
サクラが首を傾げる。ヤツヅリはふむ、とカルテに何かを書き付ける。
「身体は確かに女子です……けど、家では、多分、違って。だから。あまり使わなくて……」
どっちであればいいのか分からないんです。とサカキはぽつりと言った。
簡単にまとめてしまったけれど、ヤツヅリはそれで満足したようだった。「そうか、ありがとう」とだけ言って席を立つ。
「それじゃ、オレは片付けがあるからあとはサクラくん、よろしく」
「えっ」
「え、じゃないよ。責任を取ると言ったのは君だ。ハナブサさんだって同じ事を言うだろう。言ったからには実行してもらうよ」
そうしてサクラの答えも待たずに、カーテンの向こうへとヤツヅリは消える。そしてしばらくすると何かを片付けたり洗ったりする音が聞こえ始めた。
残された二人は、しばらくの間じっと黙っていた。
何を話せばいいのか分からない、二人とも話題の糸口をじっと探している。
「あ。あの」
「うん?」
声をかけたのは、サカキの方だった。
「サクラさん、ですよね」
「ああ。うん」
「助けてくれたと、聞きました。その。ありがとうございます」
その言葉に、サクラはは少し微笑んで首を横に振った。
「お礼を言われるような事なんて何もないよ。むしろこれは、俺の我儘だったんだ」
「わがまま……?」
繰り返すサカキの言葉にサクラは頷く。
「うん。俺は、君に謝らないといけないことが多い」
そう言って彼は居住まいを正す。
「改めて自己紹介をしよう。俺はサクラ。名前はそれだけ。学校の座敷童、桜の木の下の死体……詳しい話はいずれ耳に入ると思う。君が良く居たあの桜の木が、俺の噂話」
「あの木が……サクラさん、ですか?」
「厳密に言うと、あの木の下に居る何か、かな。あれ、ずっと花が咲いてるでしょ。それは、あの木の下には死体が埋まってるせいじゃないかとか、そういう話で。だから……」
サクラは少しだけ視線を外し、申し訳なさそうに言葉を続ける。
「本当はずっと君の事も知ってたんだ。でも、君のことに何も、気付けなかった」
僅かにうつむいたその顔はなんだか悲しそうで。サカキの事なのに、まるで自分の事のように受け止めているように見えた。
「えっとね……俺さ、あの木の下に居る君の事ずっと見てて――あ、いや。四六時中って訳じゃなくて、気付いた時だけなんだけど。時々笑う顔がすごく……その。暖かくて。なんだかいいなって思ってて」
なのにさ、とサクラの声が少し小さくなる。悔しさとか悲しさとか、そんな色がじわりと滲んだような息をつく。
「俺は何も気付いてなかった」
言葉すらも溜息に溶けてしまいそうな声だった。
「君が口にしないこと、黙って堪えてたこと。今も、分かってるなんて言えないけど。気付ける要素も機会もたくさんあったはずなのに、君のその強さをそのまま受け止めて、ちっとも気付かなかった。気付こうともしなかった。しかも、突然こんな状況に放り込んで……その。えっと……ごめん」
ごめんね。と申し訳なさそうに俯くその声に滲む感情はたくさんあるようだった。
けれど、やっぱり優しいその声は、言葉は。サカキにあの桜の木と同じ安心感を与えた。
ふわっとしていて。あたたかくて。ほっとする桜色の声。
本当に、あの木と同じなんだ、と。サカキの中にひとつ、感情が灯る。
くすぐったいような、ふわふわするような。自分がこれまで感じた事のない、暖かい気持ちは、目に映る色を、少しだけ鮮やかに見せた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことはしてないよ」
サカキがそう言うと、サクラは僅かに微笑んだ。
「ここではさ。君は君らしく、好きに過ごして欲しい。悩んでることも、迷ってることも全部含めて君だ。誰もそれを否定しないし、させない。……ルイちゃんが言った通り、笑ってて欲しいのは本当だからさ、尽力するよ。いつでも話を聞くし、必要なら手伝いもする。何でも言って」
「はい……」
葵は守にはなれなかった。
運動が得意で、優しくて、強い兄にはなれなかった。
母の期待に応えようと、自分を殺すことに必死すぎて、自分がどうしてそう在ろうとしているのかすら見失っていた。
誰かに憧れる事くらいは許されていたのかもしれない。
憧れる相手は、自分で決めていいのかもしれない。
人を見守って、自分が大事に思う物のために動ける力。それも強さだとサカキは思った。
たとえ運動が苦手でも。泣き虫でも。強さを持てると見せてくれた。自分がずっと抱えていた物を、曖昧なこの迷いを、この人は「強さ」だと肯定してくれた。
自分は「誰か」じゃない。「自分」だと言ってくれた。
自分の弱さも強さも認められる。人の持っているものを肯定できる。そのような人になりたい。
暖かい春の色をした、この人のようになりたい。
あの木が自分の傍に在ったように。自分もこの人の隣に居たい。
それなら。
もう葵じゃない自分は――サカキである僕は。
この人が見ていた「木の下で笑っていた少年」でありたい。
男子としてでも構わないから。
一緒に、居たい。
初めて、自分がどう在りたいかを見つけた気がした。
「……ふふ」
「?」
小さく笑ったサカキを見て、サクラは首を傾げる。
「サクラさんは、強い人、ですね」
「え。いや。俺は何もできな――」
「うん。決めました」
「うん?」
「これからのこと、決めました。僕、この学校過ごしたいです」
「そう、決まったなら良かっ……えっ、僕?」
突然出てきた一人称に、サクラは戸惑った声を上げた。
サカキは「はい」と穏やかに頷く。
「えっと、それは。その」
サクラの声が何か迷うように零れる。
「……だめ、ですか?」
サクラが言葉を失いかけたように口を開いて、噤む。目を閉じ、難しそうに眉を寄せ。なんとか気を持ち直したのか、そっと枕元に手を置いて「どうして」と問う。
眼鏡の奥の濃い桜色は、戸惑いに揺れていた。
「だって、もう。君を縛る人なんて居ないんだよ。君は……花を見て、本を読んで。あんなに楽しそうにしてたのは……」
サカキはその手に視線を落とした。
彼の手にある真新しいガーゼと絆創膏は、きっと自分を助けようとした証なのだろう。
それを見つめて、サカキは目を細める。
「あそこに居た僕は。楽しそうに、見えていましたか」
「うん。見えていたよ」
「そうですか。ならば、僕は桜の木の下でできることが、好きだったのでしょう。本当はよく分からないんです。昔好きだったものの延長線、みたいな感じです」
「……」
「けど、初めて人に憧れるって気持ちが分かった気がします。僕も、そのようになりたいです。だから。今度は自分から追いかけたい、かな。って」
サカキはにこりと笑って、言った。「小さくて、泣き虫で、運動も苦手ですが。少しでも近づけるように。自分がなりたい姿になれるように、まずは……その、格好からでも……勉強させて、もらいたくて」
ダメでしょうか、とサカキの目が問うようにサクラを見た。
「そのために、男子の姿で在りたい、ってこと……?」
「はい」
サクラは、熱に浮かされながらもまっすぐな視線を受け止めながら、自分が今とても困った顔をしているのが嫌になるくらい分かった。
彼女には、彼女らしく在ってほしい。
延長線だと言うが、それで構わない。桜の木の下で抱えていた物を、大切にしてほしい。
なのに、と思う気持ちもあるけれど、サクラに決定権はない。縛る権利なんて当然ない。それもよく分かっている。
それに、彼女がそう言うのなら。きっと「僕」も、大切にしたい何かなのだろう。
「そこは――俺にダメって言う権利はないよ。自分が在りたいように在れば良い。それがここで大事な事だから。ならば……俺はサカキくんと呼ぼう」
「ありがとうございます。……なんだか、サクラさんの方が泣きそうですよ」
「そんなことは、ないと思うけど……そう見える?」
「はい。僕の、事なのに。サクラさんの方が――」
言葉が途切れ、身体がふらりと倒れそうになる。サクラは慌てて背中を支え「そのまま寝てて」と、そっと寝かせる。
女の子として過ごすのが彼女にとっての幸せだと思ったのに。
彼女はその思いに反して「憧れる人のようになりたいから」という理由で男子である事を選んだ。
それは。その人物は、彼女の兄なのだろうか。これまでそうやって育てられてきて、折り合いのつかなかった何かに決着がついたのだろうか。
前を向けたのはいいことだけど。熱の勢いとかじゃないといいなあ。
そんな事を思いながら布団を肩までかけ直し、軽く押さえてあげる。
「……サクラさん」
「うん?」
「その、僕のこと。すぐにバレてしまうかもしれませんが。できるだけ頑張りたいので……内緒に、して欲しいんですが」
「内緒……とは言っても、最低限の人には知っててもらわないといけないけど」
それは構いません、とサカキは言う。
それならいいけど、とサクラは答えてカーテンの向こうへ視線を送る。
カーテンの向こうからは、雨音と何かを洗う音がする。ヤツヅリにもこの会話はきっと聞こえていただろう。
「それならまずは、ヤツヅリ君から口止めしないと」
「そうですね」
そうして二人は。視線を交わして笑いあう。
彼女の――いや、彼の表情はとても穏やかで、安心しきったもので。
それはサクラがずっと見たかったもの以上の笑顔だった。
□ ■ □
冷えたタオルを額に置いて、サカキを眠らせた後。
サクラはそっと枕元を離れてカーテンの向こうへと抜ける。
洗い物を終えたらしいヤツヅリは、濡れたガーゼや包帯を干していた。
「ヤツヅリ君。サカキ君のことだけど」
「うん。聞こえてた」
話を切り出すより先に、ヤツヅリは振り向きもせずに言う。
「オレは別に構わないし、口外する気もないから安心してくれ」
本人がそれで良いというのなら、それを尊重するだけだろう。と、ヤツヅリは布巾を干しながらさっぱりと言った。
「そっか。ありがとう。……そういえばさ」
「うん?」
「ルイちゃんにどうしてさっきあんな事言ったの?」
あんな事、とは。彼女のことを伏せておけと言う話だ。
サラシナがサカキを女性だと知っていたのは、サクラが話したからだった。けど、それをどうして口止めしたのか。そこが分からなかった。
ヤツヅリは次の布巾を干しながら「別に」と言う。
「あまりに一人称を使わないのが引っかかったから。念のためってやつ」
それだけさ、という言葉に、ぱんっ、と布巾のしわを伸ばす音が重なった。
□ ■ □
それから二週間ほど。
サカキの熱はすっかり引いた。傷はまだ痛むけど、身体も動かせるようになってきた。
この学校の事はまだよく分からない事が多いけど、サラシナやサクラが見舞いに来ては、話をしてくれる。
それから人体模型だというハナブサと、用務員のウツロも様子を見にやってきた。
「話は聞かせてもらってるんだけど、今は別件の後始末というか、そっちがまだ落ち着かなくてね。そっちが片付いたら改めて皆に紹介させてもらうよ」
ハナブサはそう言って、サカキににこりと笑いかけてくれた。
そうして更に十日ほど。
保健室で新しい制服に袖を通したサカキは、鏡で改めて自分の姿を確認した。
着れなくなった服の代わりに、と用意された制服。鏡を見ると、これまでと同じ学ランで、変わった感じはしなかった。サイズもかつて着ていた物に合わせて仕立ててあって、少し大きい。まっすぐ立ってみると、袖から見える指は半分位しかなかった。でも、そのおかげで身体中に巻かれた包帯はほとんど見えない。
「サクラさん、これでどうでしょう」
「ああ、ちょっと襟が」
襟を少し直したサクラの手が離れ、うん、と頷く。
「――うん。これで良いと思うよ」
「ありがとうございます」
「首の包帯がちょっと目立つね……今度なにかいい物がないか探してみようか」
傷は塞がるけれど跡は残るかもしれないとヤツヅリは言っていた。サクラもそれを気にしてくれている。それだけでもなんだか嬉しくて、こくりと頷く。
「はい」
そうしていると、保健室のドアが開いた。やってきたのはウツロだ。
「着替えてるな。じゃあ、理科室行くぞ」
サクラも付いてこい、と言ったウツロはヤツヅリに視線を送る。彼は机から目を離さず、何かを書き綴った紙の束を掲げた。
「オレはカルテの整理があるから」
「そうか」
それじゃあ夕食には来いよ、と言い残して先を行くウツロに付いて、二人は理科室へと向かう。
道中。ウツロが「さっきな」と重そうに口を開いた。
「ハナとヤミに処分を言い渡してきた」
「ああ……」
サクラの声も少しだけ暗くなる。サカキは声を掛けて良いのか分からずに、黙って付いて行く。
「ま、英もあの二人に悪気があった訳じゃないって分かってるから、心配はいらんさ。と、いう訳で。まずはその二人に会わせる。あとは夕食の時に会うだろうから、都度自己紹介してもらえ」
「は、はい……」
緊張で歩みが少し遅い。サクラの一歩後ろを付いていくが、うっかりすると距離が開きそうになる。それに気付いたサクラが歩調を緩めて、「大丈夫だよ」と声を掛けてくれた。
「いい人達だから、安心していいよ」
「はい……」
「サカキ君ならすぐに仲良くなれる。ハナちゃんは人と仲良くなるのが上手だし、ヤミ君は……うん、怖くないよ。面倒見もいい」
「今の間は聞かなかった事にしといた方がいいか?」
「うん」
サクラはくすくすと笑いながらウツロの軽口に答え、サカキに再び視線を落とす。
「何かあったら俺も居る。ね」
サクラはそう言ってサカキの背をそっと押す。温かくて優しい手だ。
兄が居たらこんな感じだったんだろうか、なんて。無かった可能性も考えてしまいながら、「はい」と頷いて二人に付いていく。
そうしているうちにウツロがとある部屋の前で足を止めた。
「ここだ」
そう言ってウツロは部屋の中に入っていく。見上げたプレートには「化学室」とあった。
部屋の中には、黒く広いテーブルと、それぞれに添えつけられた流し台が並んでいた。黒板の前の教卓には、ポットやお菓子があって。なんだか理科室と言うよりも談話室のように見えた。
そこには、ハナブサの他に、男女二人の生徒が居た。
ひとりは目元まで焦げ茶の髪に覆われた、セーラー服に紺のカーディガンを羽織った女子。もうひとりは、学生帽を被った学ランの男子。
二人の視線が――片方は前髪に隠れて分からないけれど、こちらを向く。男子の金色の視線が、帽子の陰からこっちを射抜くように向いて、サカキは一瞬足を止めかけた。が、サクラに促されて理科室へと足を踏み入れる。
彼らの前に立つ。背筋を伸ばしてみたけど、なんだかドキドキする。
ハナブサが何度か会った時と同じように穏やかな笑みを向け、前の二人に紹介する。
「紹介しよう。私達の新しい仲間だ」
ちゃんと自己紹介できるかな。
「初めまして……サカキ ミヤ、と、いいます……」
そう言ってぺこりと頭を下げる。
葵でも守でもない。
僕だけの新しい名前は、なんだか不思議な感じがした。





