彼と彼女が見た景色 2
最近、桜の木の下に子供がやってくるようになった。
サクラがそれに気付いたのは、新緑の季節が過ぎ、梅雨に入った頃だった。
最初は、季節外れの桜が珍しくて寄ってきただけかもしれないと思っていた。
足を止めるだけだった小さな少年は、散る桜を眺めたり根元に座ったりして過ごすようになり、それを見かけると「ああ、今日も居るな」と思うようになった。そこが彼にとって居心地の良い空間であることが、なんだか嬉しくもあった。
彼を見かけるのは主に放課後だった。サクラが彼を校内で見たことはなく、名前も分からない。胸ポケットの校章はこの学校の物じゃなかったが、入試の時期に見かけたことがあった。この高校へ受験にやって来る学生の中で一番多い制服――つまり、近くにある中学校の男子生徒だと言うことしか分からなかった。
少年は夕暮れになるとやってきて、星が瞬き始めると帰っていく。教科書を読んだりノートに何か書いていたり、読書をしたり。ただ何もせずぼーっとしていたり。そんな時間をたったひとりで過ごしていた。
時折桜を見上げて、柔らかな笑顔を見せる少年だったが、よく溜息をつくし、小さな怪我が絶えないように見えた。時には夜遅くに泣きながらやってきたこともあった。暗闇の中で膝を抱え、声を殺して泣く彼にできたのは、隣に寄り添うだけ。姿を見せることも、声をかけることもできない。何の気休めにもならないそれは、サクラの胸も痛くする。
この場所を気に入ってくれるのは嬉しかったけど、同時に心配だった。
その傷はどうしたのか、何故こんな時間に泣いているのか。聞いてみたくもあった。
声をかけることはできるだろう。けれども干渉はできない。助けることはできない。
できるのはただ、彼をそっと見守り、呟きを受け止めるだけだ。
サクラはそういう存在だ。学校中の噂や悩みを聞いては夢に見る、桜の木の下の座敷童。それ以上でも以下でもない。
だから、少年に進んで会うことはせず、静かに見守り続けるつもりでいた。
夏が終わっても少年は木の下に通い続けた。
それを自室の窓から眺めていると、ずきりと頭の一部が痛んで声がする。
「あいつ、今日も来てんのか」
「……うん」
サクラは下がった眼鏡を押し上げ、窓辺に頬杖をつく。
工事の音がする。学校の校舎を建て替える音だ。
普段は窓を開けると「うるさい」と文句を言う獏も、彼が居る時だけは何も言わない。
一度だけ、少年と言葉を交わしたのを思い出す。
出会ったのは偶然だった。人が来たことにひどく恐縮した様子の彼を、安心させるために声をかけた。それだけだ。
「ここ、いつも咲いてるよね」
「そう、ですね」
「……怖くないの?」
「怖い、ですか?」
いいえ、と彼は首を横に振った。
「怖く、ありません。……できれば、ずっと居たいです」
そう言う声に感情は薄く、細められた目は諦めと憧れが混じっているように見えた。それが、今にも折れてしまいそうに見えて。思わず伸ばしかけた指を引っ込めた。
結局、それ以上の会話もなく、名乗ることもなく。
散り始めた桜を少しだけ一緒に眺めて。再会の約束もせずに別れた。
彼はもう覚えていないだろう。そういうものだ。
以来、獏は機嫌が良い。
食事の味が良かったのか。彼の悩みに触れたことで変化があったのか。
よく分からないけれど、少年が居る時だけ何も言わなくなったのは確かだった。
□ ■ □
その日は雨が降っていた。
ずっと雨が降りそうで降らない日が続いていたけれど。ある日の夕方、突然バケツをひっくり返したようにその雨は始まった。
そうして数日。今日も雨は勢いを弱めることなく降り続いている。
雨が降り始めた日に、ハナが大怪我をした。ヤツヅリの尽力でなんとかヤマは超えたらしく、今は部屋で眠っている。その場に居たヤミも錯乱していたが、今はなんとか落ち着いて、ずっと彼女に付いている。時々食事を運んだけれど、あまり口をつけた様子はなかった。
学校側はというと。工事は中断され、しばらく休校となっていた。数名の教師がたまにやってきては、川の水量や周囲の状況を確認しているらしい。その様子は、ウツロを通じてこの学校の住人達にも知らされていた。
そんな、校内が慌ただしくも日常に戻ろうとしていた日だった。
雨だから分かりにくいが、夕方よりも夜に近い時間のこと。
「え……」
サクラは廊下で思わず足を止めた。
桜の木の影に、小さな影が見えた。
あの少年だ。と、サクラはすぐに気付いたけれども、すぐに疑問が浮かぶ。
この雨の中。夜も近い時間。どうして彼はここに居るのだろう?
桜の木に一番近い空き教室の窓から様子を窺う。
少年は雨の中、ずぶ濡れで、泥だらけで、膝を抱えて木に寄り添うように座っていた。葉の茂らない桜の木で雨宿りができるはずもなく。羽織っている上着や頭には、雨水で叩き落とされた桜の花弁が貼り付いている。
「なんで……」
「あれ、サクラくん。どうしたと?」
サクラが振り返ると、黒髪の人形を抱えた金髪の少女――サラシナが立っていた。
「ルイちゃん。あ、いや……この雨なのに、人が居てさ」
「へ?」
そう言って彼女はぱたぱたと隣に駆け寄り一緒に窓を覗く。
「ホントだ。風邪ば引いたら大変」
「でも、俺達に何かできるかな」
そう言うと人形が溜息をついた。
「殻の外側に在する者に対して何ができるというのだ。芯から冷えれば去るだろう」
「うん、まあ」
「そぎゃんかもしれんけどねえ……。あ、サクラくん。いかんよ」
サラシナが釘を刺す。
自分達は人間じゃないから、手出しをしてはいけない。助けていいのは、校内で怪奇現象に遭遇した時だけ。そう言いたいのだ。
分かってるよ。とサクラも頷く。うん、分かってる。自身にも言い聞かせる。
けれども、二人は心配そうに見守る。
ざあざあと降る雨の中、少年は桜の花弁を張り付けて踞っていた。
その背中は小さくて、か弱くて。サクラの胸に僅かばかりの苦しさを与える。
見つけて以来、ずっと彼を見てきたからだろうか。あの時言葉を交わしたからだろうか。今すぐ声をかけて暖かい所へ連れて行ってあげたくなる。できない自分がもどかしく、落ち着かない。
しばらくすると、少年が顔を上げた。
濡れた髪が顔に貼り付いているからか、雨が目に入るからか。目は半分程伏せられていた。
はあ、と息をつくのが見えた。
二人はただ、それを見守る。彼と自分達の間には窓硝子一枚しかないけれど。それに、どうしようもない距離を感じる。
少年はふらりと立ち上がり、俯いて腕で顔を拭う。それは、涙を拭う仕草に見えた。もしかしたら、そうだったのかもしれない。雨の中で彼は泣いていたのかもしれない。
いや、実際そうだったのだと、サクラは眉を僅かに寄せた。
人の負の感情を数えきれない程受け止めてきたサクラだから、そのような感情には鈍感でありたいのだけれど。それが嫌でも分かってしまう程、彼は辛そうに見えた。
貼り付いた雨も花弁もそのままに、少年は桜の木に向かい合い、弱々しく笑った。
そうして背を向け、歩き出す。
「帰るとかな?」
「そうだといいんだけど……」
日はとうに暮れている。何も持たない少年は、頼りない足取りのまま暗い雨の中へと姿を消す。
「ねえ、サクラくん」
「うん?」
「あの子、なんでこぎゃん日にあそこおったとだろう?」
「さあ……」
少年はここに来る時、憂鬱そうな顔をしていることが多かった。泣いていたこともあった。しばらく木に寄り添っているだけだったけれど、それが彼の安定剤らしく、少しだけ柔らかな表情になって帰っていく。そんな姿をよく見ていた。
一度だけ、少年が泣きながら零した言葉を聞いたことがあった。
「……つよく、ならなくちゃ。もっと、頑張らないと……」
その言葉は、決意というより自分に言い聞かせるための言葉。自己暗示のように、繰り返し繰り返し「強くなりたい」と言っていた。
何が彼をそうさせるのか分からないけれど。
その姿がとても胸に痛かったことだけは、よく覚えている。
それを思い出したサクラは、苦しい感情を少しだけ窓の向こうに向けて。
「……多分、俺達が介入できない何かがあるんだ。ずっと……多分、かなり長い間、悩んでるんだと、思う」
それだけ、答えた。
彼は、見えない所で何かを堪え続けている。
何かプレッシャーがあるのかもしれない。辛いことがあるのかもしれない。
けれども、学校の外で生きる彼に何があるのかなんて、サクラには知る術もなかった。
「そっかあ……。でも、家に帰るとなら安心して良かよね。そろそろウチらも行こう?」
「うん?」
サラシナの言葉にサクラは首を傾げる。
「食事の時間も近い。貴様は色から時間を読み取る感覚すら見失ったか」
レイシーの外見とは噛み合ない低音がサクラを軽く笑う。
「ああ……」
言われて時計を見る。雨の薄暗さで気付かなかったけど、もうすっかり夜だった。
サクラは少しだけ桜の木を見上げ、先を行くサラシナを追いかけようと背を向け――。
音がした。
雷鳴ではない。雨の音でもない。
最初はみしり、と。何かが軋むような音だったような気がする。
続いて、ばきばきと何かが折れ、崩れる――轟音。
「な、何の音!?」
「何かが崩れたか」
慌てるサラシナに、レイシーがぽつりと言う。
サクラはその言葉にハッとして、振り返り――駆け出した。
「……サクラくん!?」
サラシナの声は、届かない。
雨音が窓を叩く。
息が上がる。
薄暗い廊下を駆ける。
あの音。その方向に。彼はさっき向かって行かなかったか。
何もなければそれでいい。けれども。そうじゃなかったら。
その可能性に思い当たってしまったら、どうしようもなくて。
サクラは考えるより先に駆け出していた。





