彼と彼女が見た景色 1
野々宮葵。それが少女の名前だった。
彼女には「守」という名の兄がいたらしい。
運動が得意でかけっこは一番、飼っていた犬が居なくなれば遅くまで玄関で待ち続けるような、心優しい少年だったという。
伝聞なのは、葵はその兄という人物と会ったことがないからだ。
幼くして事故で命を落としたのだと、酒に酔った父から一度だけ聞いた。
葵が生まれた時、母親はそこにかつての息子の影を見た。
小さな手に。上がった産声に。瞳の色に。目を背けた先にあった現実を重ねた。そして言ったのだという。
この子は帰ってきた長男だと。
この子は男の子だと。
父は何度も違うと話をしたが、母はその言葉に頑として頷くことはなかった。
この子が初めての子供であるように喜ぶ母に、父はどうしようもなかった。
だから。同じ読みを持つ漢字をあてて「葵」と名付ける事でなんとか母を納得させ、母は彼女を息子として育て始めた。
母の希望通り、幼い葵は自らを男だと信じていた。
父は「あおい」と呼ぶのに母は「まもる」と呼ぶのは不思議な気がしていたけれど、そういうものなのだろうと受け入れていた。
葵は近所でも一番背丈が小さな子供だった。
ケンカは弱いし、すぐに泣く。虫を見ては逃げ出し、怖い話を聞けば布団を頭までかぶって眠る。剣道や柔道よりも折紙や花が好きだったし、竹馬やチャンバラよりも石蹴りやままごとをしたかった。
その差はどうしようもなく埋まらなくて。「女みたい」とからかわれたりもした。
「どうしてぼくは、みんなとじょうずにあそべないんだろう」
怪我をして泣いて帰って。湯船にしみる傷を見ながらそんな事を考えていた。
母はそんな葵に向かい合い「男の子なんだから多少やんちゃでも良い。怪我は元気の証よ」と慰めてくれた。
それだけが、葵にとっての救いだった。
母の行動は、葵が育つにつれてエスカレートしていく。
買い物の途中でかわいらしい服を眺めたり、すれ違った誰かの持っていた人形に興味を持ったりすると、彼女は烈火のごとく「彼」を叱った。
そして我に返っては優しくなだめる。
「このおもちゃを買ってあげるから」
「ほら、こっちの本が良いわよ。好きな電車がたくさんあるわ」
そう言って与えられるのは全て少年が好む物ばかりだったけど。母はとても優しかった。
できるだけ母に笑ってもらおうと、葵はがんばった。けれども苦手な物が得意だった人に敵う訳もない。
運動も得意ではないし、恐がりでよく泣いた。優しさだけはよく似ていたけれど、葵は守に追いつくことはなく、母はその度にがっかりした顔を見せた。
葵はまだ幼かったけれども、母のそんな顔を見るのは、とても悲しかった。
小学校に上がり、葵はようやく自分が「男子ではない」という事に気付いた。
気付いてしまえば、「こうならよかったのに」と思う事が一気に増えていく。
ランドセルは赤いのがよかった。
ズボンじゃなくて、かわいいスカートとかブラウスが着てみたい。
かわいい消しゴムや鉛筆を集めたい。
みんなと一緒にゴム紐遊びやあやとりをしてみたい。
そんな事を思って。夕飯の席で話したら、酷く叱られた。
父が止めるのも聞かず、ヒステリーを起こして叫ぶ母は、葵の肩を強く掴んで言い聞かせた。
「守。あなたは男の子よ! 私の息子。運動が得意で、動物と電車が好きで。誰にも負けない息子なの!」
「でも、わた……」
「違うでしょ!」
「ぼく……」
涙がこぼれた葵の頬には、母の平手が飛んできた。
「でも、ぼく……ぼく。う。うわあああああん!」
泣けば泣くほど、母の悲鳴に近い叫び声が浴びせられる。
「男の子が泣くんじゃありません! 守なら、泣かない、いいえ、そもそも守はこんな事、言わないの……!」
どうやってその場が収まったのかは覚えていない。
父がなんとか母を押さえつけたのかもしれないし、言い聞かせて落ち着かせたのかもしれない。
経緯がどうであれ、この一件が葵の中に大きな傷を残したのは確かで。以来、彼女は自分の身を男女どちらに置くか決められないまま、日々を過ごす事になった。
ブラウスやスカートに興味がなくなった。服は母が用意したものをただ着るだけで、好みが分からなくなった。色も味もどうでも良くなって。ランドセルも赤と黒が同じように見える。それが当たり前になっていた。
男子の輪にも女子の輪にも入ることができず、休み時間や放課後はひとりで本を読んだり散歩に出たり、絵を描いたりして過ごしていた。
学年があがると話しかけてくる人も居たけれど、「ごめんね」と曖昧に笑って断るのがすっかり得意になった。
誰かと一緒に居たら、自分をどちらに置くか決めなくてはならない。
自分が在りたかった物と、母が求める物は正反対にあった。だから、その選択肢を生まないためにひとりで居る事を選んだ。
それはとても寂しい事だったけど。みんなが笑っている様子を見ているのは嫌いじゃなかったし。母の笑顔は好きだったから。期待に応えたくて、笑っていてほしかったから。
葵はひとりで耐え続けた。
中学にあがり、葵はとある場所を見つけた。
近くにある高校の裏。一本の桜の木。
いつもきれいな花を咲かせ、はらはらと散っている。
校門の桜並木から離れているからか、校舎の裏側だからか。この辺りには人が居なかった。
いつ通っても咲いてる桜はとても不思議だったけれど、葵はその場所に、家にはない何かを感じた。
なんだか暖かかくて。気持ちがいい。季節を選ばない桜が、ここなら自分らしくあってもいいよと言ってくれるように見えて。以来、葵はそこへ立ち寄る事が増えた。
習い事の前に。家へ帰る前に。
やることが特になくても、近くを通れば立ち寄った。
宿題をしたり、ぼーっとしたり、本を読んだり。暖かい日にはうとうとと居眠りをしたり。幼い頃、母に隠れて集めたビー玉やおはじきを入れていた小箱も、この木の近くにあった穴にそっと隠したりした。
どこよりも居心地がよくて、安心できて。
自分が自分のまま過ごせる場所。
ここは葵の秘密基地だった。





