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ヤミの新しい牙

 夕方の屋上で。

 ウツロと手合わせをしようとしたヤミは、自身の異変に気付いた。


 腕の様子がおかしい。いつものように歪な変形をしない。どんなに力を込めても、影に触れてみても、何も起きなかった。

「……どうした?」

 様子がおかしい事に気付いたウツロがヤミの元へやってきて覗き込む。

 ヤミは自分の手をウツロに差し出して見せ、困ったように口を曲げる。

「爪が……作れない」

 学ランの袖から伸ばされたのは、何の変哲もない小さな手のひら。

「爪が出ない?」

 ヤミはこくりと頷く。

「なんか。いつもと違う感じはするんだけど……」

「ふうん?」

 どう違うんだ、というウツロの問いにヤミは首を傾げ、自分の手に伝わる感覚を探る。

 握って、開く。ぐーぱーと何度か繰り返してみる。

 これまでは手に意識を集中させれば、そこにある何かが染み出すように影として形を成していた。自分の内に何かあるのは感じる。だが、その先ができない。

「力が消えた、って感じはしない。武器としてどこかにある、そんな感じは、する……」

 けど、とヤミは訥々と言葉を続ける。

「でも、それが上手く腕に乗ってこない、出てこない、っていうか……うーん」

 困ったように首をひねるヤミ。ウツロはふむと考えながら、その手を指摘する。

「多分だが、これまで使ってた物と勝手が変わったんだろうな。意志を持っていた影……つってたか。その繋がりが切れたんだろ?」

「うん」

「多分だが、力の流れが変わったのにお前さんがついていけてないんだ。これまで外に繋がってた線がなくなった。ヤミ自身の内側で完結する物になってしまった。そうなったら、自分で探って掴み取るしかないかもしれねえな」

「自分で、掴み取る……」

「そう。時間はあるから焦らず考えてみろ」

「うん……」


 こくりと頷いて考えてはみたけれど。

 その日は一日、何も掴むことができなかった。


 □ ■ □


 次の日も。

 その次の日も。

 何もできない日々が続いた。


 手にいくら力を入れても、何もできない。これまであんなに簡単に作れていた爪が作れない。

 力が残っているのは分かるのに、それをどう使えば良いのかが分からない。

 ウツロが言っていた通り、力の流れが変わった。自分の中で完結しているのだろう。けど、それをどうすれば良いのか分からない。もどかしく悩む日々。


 感覚的に何か掴めたら、と素手や木刀など色々試してみたけれど、どうにも調子が出ない。

 ウツロには「焦るな」と言われるけれど。手に馴染まない力と、これまで使っていたものが使えなくなった焦りというものはどうしようもなくて。もう今までのように動けないのではないかという不安が頭をちらつく。そんな焦燥感はヤミの判断力と冷静さを奪っていく。

 そんな様子だから集中力も持続する訳がなく。手合わせをする度に攻撃は容易く弾かれ、転がされ、ヘトヘトになって溜息をつく日々だった。

 

「ヤミ」

 今日もあっさり転がされてしまったあと。

 木刀を片付けたウツロの声がした。何かと顔を上げようとした途端、帽子の上から頭を抑えられる。

「わ」

「なんだあの太刀筋は。硬くて仕方ねえ。焦るのは分かるが考えすぎだ。そんなだからあっさり弾かれるんだ」

 そのままぽんぽんと軽く叩かれる。

「肩の力を抜け。ってったって、そう簡単に変わりゃしないな……。刀みたいなのは合わねえのかもしれんなあ」

「刀が、合わない?」

 首を傾げると、押さえられたままだった帽子がずれた。

「これまで爪だったから間合いが狭い方が合うと思ってたんだが、お前さんは小柄だからな。あの長さは中途半端なのかもしれん」

「そっか。じゃあ、短刀とか? だったら爪くらいの間合いかも」

「小回りが利いていいかもしれんが、それだと威力が落ちるだろうな。数があればいいんだろうが……いや、いっそ広く取ってみるのも……どうだろうな」

「そっか、爪みたいに力入れられないかも」

 ううん、と唸るヤミを見て、ウツロは「そうだな」と頷いた。

「お前さんは力と勢いを全部腕に乗せるやり方だったからな。……ま、視点を変えてみろ。どうやったら力を扱えるか、じゃなくてどんな武器がイメージに合うか、とかな」

「イメージ……」

 ぽつりと繰り返したヤミに、ウツロは頷く。

「お前さんに合ったやり方を見つけるまでは仮の武器を使うしかないがな。木刀は合わんと分かったから、もっと他のものを探してみろ」

 見つけたらまた来い、とウツロは言い残し、もう一度わしわしと頭を撫でて去って行った。


 残されたヤミは座り込み、目を閉じて考える。

 手の感覚を探りながら、自分に残っている物と、己に合う間合いや武器とは何かを考える。


 ヤミの手に残っているのは、狐の牙。影の中にしまい込まれた力。

 ぺたり、と影に手を当てる。日中の陽光であたたまったコンクリートが、その熱を伝えてくる。

 狐の意志が届かない今、あの歪な爪はもうない。これまでヤミを引っ張っていた力を、自分で使いこなさなくてはならない。武器は影が生み出すものではなくて、そこから取り出すべきもの。


 ――では、何を取り出すべきなのだろう?


「刀、じゃ中途半端……」

 これまでの間合いは短かった。小柄なことも利用して相手の懐に飛び込んでいくことが多かった。

 爪の使い方は様々だったけれど、基本的に間合いは短く、ありったけの力を乗せて突撃する。そんなやり方だった。

 その爪はもうない。新しい戦い方を、自分に合った戦法を考えなくてはならない。

「間合い……形……」

 考える。


 間合いを狭くとって詰め寄る? それともいっそ、広く取ってしまう?

 小さな武器は? 鋭さはあっても爪ほどの威力が見込めない。

 大きなものだと? 威力はあるけど自分が振り回されないかが心配だ。

 ヤミの小柄な身体でも不利に思わないような。自分に合った大きさ、形。

 なんだろう。


 夕方と夜の混じり始めた空を見上げて考える。

 カラスが数羽、山の方へ飛んで行く。


 考える。

 考える。

 考えて。

 茜色が藍色に染まり、日が暮れてしまう頃。


「ヤミちゃん」

 ぎい、とドアが音を立て、人影が現れた。

「ハナ……」

「なんだか悩んでいるようだね」

 ウツロさんが心配してたぞ、と彼女は壁に背を預けながら言う。日が沈んだとはいえ、影から出てくるつもりはないらしい。

「ん。まあ……うん」

 隠してもしょうがないから素直に頷く。

「一体何があったんだい?」

「武器が作れないんだ」

「武器って言うと……あの爪かい?」

 そう。と頷く。

「力の流れが変わったみたいでさ。上手く扱えないんだ。爪が作れない」

「ほう。それは、繋がりが切れてしまったからかな?」

 多分ね。とヤミは答えて右手をじっと見る。

「ウツロさんは、自分で掴み取るしかないって言ってたんだけど。……武器も合わないみたいだし」

「なるほどなあ」

 ハナはふむふむと相槌を打つ。

「それは今まで狐が勝手に力を乗っけてたんだな。だからヤミちゃんはそれを奮うだけだった」

「うん」

「そして、繋がりが切れた今、ヤミちゃんはそれを自分で扱わなくちゃいけなくなった」

「そう。だな」

「ならばまずは、ボク達の在り方から考えてみたらどうだい?」

「在り方……」

 繰り返すと、ハナは「そうさ」と頷いた。

「ボク達はご覧の通りだが、その力の源がどこにあるか。それが元々なんだったか。今はなんなのか――そこを考える、みたいな」

「力の、源」

「そう」


 力の源。それは、あの狐だ。

 忌々しい影を思い出してヤミの眉が寄る。心がなんだか重くなる。

 右腕の感触を思い出しそうになって、それはもう無いのだと言い聞かせる。

 でも。

 この狐から奪い取った力は、まだここに在る。

 切り離された今、狐の物ではない。自分の。ヤミコと名乗る学校の怪談が持つ力だ。

 ヤミコは、こっくりさんで呼び出され、応える存在。

 呼び出されるモノは一般的に狐だと言われるが、実際そうとは限らない。

 ならば。なんだ。

 呼び出され、応える自分は。その一部であるこの力を表し。形作る何かは――。

 分からなくて視線を落とす。

 ふと。自分の影が目に入った。

 

 帽子から覗く、耳のように跳ねた髪は、どうしようもなく狐を思わせる。

「――」

 そのイメージに眉を寄せたその瞬間。視界の隅を何かがふわりとよぎった。

 影より暗く。黒く。文字を集め固めた、深い夜空のような色。滑らかで大きな曲線を描く、影で形作られた――。

 それはきっと。今のヤミに足りない物。

「尻尾……」

 ぽつりと呟いて、立ち上がる。

 ハナは何も言わない。ただ黙ってこっちを見ている。


 影に手をかざす。

 その影は、ヤミの意志に答えるようにうごめき、手に引き寄せられるようにゆらりと形になる。

 手のひらには細長い柄。その先には湾曲した、身の丈ほどもある黒い刃。

 ぱしん、と柄を掴んで目を開くと、そこには、イメージ通りの大きな鎌。

「これ、だ」


闇を司る狐が持つ、新たな武器がそこにあった。


 □ ■ □


 次の日。

「ほお。鎌とはまた……厄介な獲物を選んだな」

 作れるようになった武器を見せたウツロの第一声はそれだった。

「まだ、長い時間は保たないけど」

「そこは慣れていけ。身体が小さいお前さんにその大きさなら、まあ、間合いは十分か。相手に甘く見られる事もないだろう。隙は大きいが……そこは」

 す、とウツロが手にした鞘を軽く持ち上げる。今日はいつもの木刀ではなく、愛用している洋刀だった。

「お前さんの技量次第だ」

「――うん」

 かちん、とウツロの鞘が鳴る。

 ヤミがくるりと鎌を回し、もう一方の手で柄を掴んで構える。

「とりあえずかかってこい」

「ん」

 言われるまでもない、とヤミは頷いて軽く地面を蹴る。


 まずはひと薙ぎ。ウツロは一歩下がってその刃を避ける。

「言ったろ。獲物がでかい分隙もできやすい」

 振り抜いた鎌の柄を、鞘で軽く弾く。

 ヤミは飛ぶように引いて、フェンスに足で着地する。緑の網ががしゃ、と音を立てて衝撃を殺す。

 それをクッションにして、再度ウツロへ迫る――が、やはり彼はギリギリで見切ってその刃を避ける。

 一歩。ヤミの横を通り過ぎ。

 とん。

 と、背中を柄の先で一押しした。

「――ぅわ」

 ヤミはあっさりバランスを崩し、そのまま倒れ込みそうになる。慌てて身体を反転させ、フェンスに背中を埋める事で顔面から突っ込むことだけはなんとか避けた。

 その拍子に鎌は手から離れ、影へ溶けるように文字の欠片をチラつかせながら消えていく。ヤミはそのままずるずると座り込んで、はあ、と溜息をついた。

「……難しいなあ」

「獲物が変わったばっかりだからな。そんなもんさ」

 ウツロは煙草を取り出してくわえ、マッチで火を点ける。

 ふう、と紫煙を吐き、地面に伸びる影を見遣った。

「最初は……そうだな。武器に振り回されないことと、間合いの勘をつけるところからか」

 基礎はそれなりにできてんだ、すぐに慣れるだろ。とウツロは影から目を離して自分の刀を一瞥する。

「まともに使えるようになるまでは付き合ってやるから」

「うん……お願いします」

 ヤミの素直な言葉に、ウツロはめんどくさそうに紫煙を吐きつつも。

「しばらくの間だからな」

 と、だけ答えた。


 俺の身体がついていくといいんだけどな、というウツロの小さなぼやきが零れる。

 ヤミはそれに答えることなく。というか、聞かなかったことにした。

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