鬼さんこちら 3
「ああ。そうだね」
彼女は穏やかにその問いを肯定した。
「君の想像通りだよ。久しぶり、とでも言うべきかな?」
「ほんとう、に?」
ヤミの言葉は確認のようだったけれど。
その声はどうしようもなく嬉しそうで、安堵していて、信じられないと語っていた。
「ここで嘘をついてもボクには何ひとつ良いことはない」
本当さ、と頷く。
「それにしてもよく気付いたね?」
なにかそんな要素があっただろうか。と不思議そうなハナに、ヤミは視線をそらして黙った。薄暗くて分からないが、口元がぎゅっと結ばれたその顔は、気恥ずかしい時に見せる表情のように見えた。
「……ただの希望」
「本当かい?」
間髪入れずに問い直す。言葉を詰まらせたヤミは、視線を逸らしたまま観念したように呟いた。
「…………笑い方」
「うん?」
「笑い方が、違うから」
ほう。と彼女の口が小さく開き。くすくすと笑った。
「ふ。ふふ……笑い方。笑い方か。なるほどね。……さっきはに内緒だって言ったけれど、君のその鋭さに免じて話してあげる」
ハナはくすくすと笑いながら「本当はね」と言葉を続けた。
「これまでもボク自身だった時があるんだけれど……置いといて。君の安心を肯定する話をしよう。狐がずっと言ってたんだよ。弟君は才能があるって」
「才能……?」
突然始まった話に、ヤミは訝しむように問う。
「そう。才能。――あの夜にね」
と、ハナは懐かしむように目を閉じて。
「狐はボクの魂を盾にしたのに、君は狐の力を奪った挙げ句、狐だけを斬ったんだよ」
「狐だけ……?」
ハナはそんなヤミの言葉に頷く。
「そう、狐の傷は思った以上に深かった。いや、実際ボクの魂にも傷は入ったが、狐に比べれば浅いもんさ。とはいえ、人間の魂はどうにも弱い。そんな傷でも致命傷。だから、狐にずっと身体を預けてたんだ」
けれども、と彼女の言葉は続く。
「君の事はずっと見ていたよ。そして酷く後悔した。許されるなら、もう一度こうして話がしたかった。許されないことだとも思ってた。そうしてる内に傷も癒えてきてさ。狐はこの生活に飽きたって零すようになって、魂も混ざってしまいそうで――そんな時に、目隠し鬼の存在に気付いて思ったんだ」
ヤミは黙って続きを待つ。
「もし。もう一度狐を斬ることができれば、消し去るまで行かなくとも、身体の主導権を握ることができれば。ボクはまたボクで在れるかもしれない、ってね」
「……今度こそ、自分も斬り裂かれるとは思わなかったの?」
ヤミが問う。
「そんなもの覚悟の上だったよ」
彼女は答える。
ヤミが失敗してしまったら大変なことになる。あまりに危険な賭けだったのは確かだ。
「でも、それに賭けたかったのさ」
「だから、目隠し鬼を?」
「そう、君に差し向けようとした」
「自分を……斬らせるために?」
「うん」
「なんで……そんなこと」
それはね、とハナの指が小さく動き、影を小さく叩いた。
「この影さ」
ヤミの視線も影に落ちる。そこにあった繋がりを思い出す。
「この繋がりは、君が背負ってるしがらみというか、心配事や嫌な事を思い出すきっかけだろう? 狐の力が弱まれば、一緒に切り離せるのではと思ったのさ」
あまりにあっさりした答えに、ヤミは継ぐ言葉を見つけられなかった。
だから、彼女は目隠し鬼を俺に差し向けようとした。
繋がった影を切るために。狐を弱らせ、己の欲望に目を向けさせるために。
たった一度、魂をうまいこと切り裂いた、という腕を勝手に信じて。
言葉を失ったヤミに少しだけ微笑んで、ハナは「君ならできるって信じてたよ」と言葉を続ける。
「事実、こうしてやってくれた」
ほら、とヤミの影に手を翳す。重なった影に、二人の視線が落ちる。
「君――ってばかりじゃなんか他人行儀だな。ヤミは……ヤミちゃんは。今のボクの事、影を通じて何か感じるかい?」
ヤミの答えは、否だった。小さく首を横に振り、その繋がりがもう無いことを示す。
その目は少し寂しそうだったけれど、ハナはそれで良いと頷く。
「ボクもだ。何も分からない。うん。昔はこれが当たり前だったのにな……なんだか不思議な気分だ。そう思わないかい?」
「そう……そう、だね」
「もう君の感情をボクに勘付かれることもない、安心して良いよ」
そうか。とヤミは改めて思う。
この繋がりが切れたと言う事は、今後、彼女が考えている事は分からない。自分が考えている事も然りだ。
それはなんとなく不便な気もしたけれど、元のような関係に戻れるのならそれでいい。これが正しい在り方なんだ。
ヤミはこくりと頷いた。
「それじゃあ、ちゃんと。言葉で……言わないといけないな」
「なんだいなんだい?」
弱々しくも楽しそうな声を前に、ヤミは帽子を脱ぐ。
膝に置いて、両手を添えて。
「その。……あの日は、ごめん。ごめんなさい」
深く頭を下げたヤミに、こて、とハナの首が傾いた。が、すぐに何か思い当たったらしく「ああ」と頷いた。
「あの夜のことかい? ボクを殺したことなら、なんら気にすることないよ。手段は置いといて、ボクの望みであったのは確かだ」
「でも。姉さんを傷つけた」
「良いのさ。……顔を上げておくれよ。あの時はアレが最善の策だった。それに、結果も最善だった。君はよくやったよ」
「そう……かな……」
ぽつりと呟いて、ヤミの顔が僅かに上がる。
「そうだよ。ヤミちゃんのことだから気にし続けるかもしれないが、これ以上気に病む必要はないのさ」
「そう。……それから、さ」
「うん?」
その言葉と同時に、ヤミの手が動いた。
帽子を少しだけ深く被り直した手が、ハナヘと伸び、頬でぺちと小さな音を立てた。
ヤミの手が、ハナの頬を挟むように当てられている。俯いた表情は分からない。
その手は震えていて、けれども暖かくて――。
「……の、」
「ん?」
「この、馬鹿!!!」
部屋に声が響いた。
同時に、頬を挟む両手にぎゅっと力が入った。けれども、痛くはない。ただ力が入っているだけだ。
「怪我人に馬鹿とは」
きぃんと響く声の余韻が消える間もなく、ヤミの言葉は続く。
「これが、言わずにいられるか……! ホント、さ!」
「……うん」
「馬鹿……ばか……お前……っ、おまえは…………この、馬鹿……っ」
声が震えている。
「自分を……ちっとも大事に、しないで……」
なのに、と八つ当たりにも似た言葉が、小さな嗚咽や雫と共にこぼれ落ちる。
強張った手からも、力が抜けていく。
「昔から……っ、勝手に、ひとりで、……傷、ついて。がまん、して」
「……」
「俺、そんなに、頼りなかった……? 昔からさ……もっと頼って、くれて。よかったんだよ……今回のこと、だって。相談くらい、してくれたら」
「反対するだろう?」
返ってきたのは小さな頷き。その拍子に雫が煌めいて落ちていく。
「当たり前、だよ……姉さんは、大事だから。……ほんと……ねえさん、ばか……」
「うん。うん、すまない」
どうやら死んでも治らなかったらしい、と、手が優しく帽子の上に乗せられる。
「二度も酷な役目を背負わせて悪かった。長いこと悩ませたとも、思う」
だから、文句があるなら今のうちに全部吐いてしまうといい、とハナは言う。
ヤミは俯いたまま、途切れ途切れの言葉をぶつける。
「……い、から」
「うん?」
「謝っても、許さない……」
「うん」
「ぜったい」
「うん」
「いくら姉さんでも。この件だけは……ぜったい、何があっても。許さない、から……」
「ああ。勿論さ。許しを得るつもりはないよ」
「……馬鹿姉」
「ふふ。こうして君に怒られるのはなんだか新鮮だ」
なんだか胸の奥がくすぐったくて笑うと、頬の手に力が入った。
ヤミ視線がそっとあがる。その目は前髪に隠れていてよく見えなかったけれども。わずかに覗いた金色に光る目と頬は、すっかり濡れていた。
すん、と鼻をすすり、呼吸を整える。
「――僕は」
〝暦”はさっきまで途切れ途切れだった言葉が嘘のように、はっきりと。言葉をひとつひとつ確かめるようにして紡ぐ。
「姉さんなんて。一生許してやらない」
「そうだね」
〝かよ”も頷いて。でも、と続ける。
「気持ちを伝えたのに死んじゃった暦ちゃんも、私は許さないよ」
「それは……」
暦の視線が気まずそうに逸らされる。
「あいつが伝えるのが遅すぎたんだ」
「あら……そうだったの」
「そうだよ」
困ったように笑って、かよは言う。
「暦ちゃんは私を許さないし、私は暦ちゃんを許さない。それは――ボクとヤミちゃんも一緒だ」
かよ――ハナの言葉に。
暦――ヤミはこくりと頷く。
「これからまた、仲良くしよう。なに、改る必要はない。今まで通りにしておくれ。ボクはハナコで、君はヤミコだ」
「……ああ。そう、だな」
ぎこちない言葉と共に、ヤミの手がそっと離れた。
夜のひやりとした空気が、暖かかった頬に触れる。
改めて向かい合うと、なんだか不思議な感じがした。
ハナはなんだか穏やかに笑っていて。
ヤミは不機嫌そうな顔で、居心地悪そうに椅子に座っている。
「これからも、よろしく。ヤミちゃん」
「……ん」
こくり、とヤミが頷くとハナはくすくすと笑った。
「……なに」
なにがおかしい、と問うヤミにハナの指が伸ばされた。
細い指をヤミの帽子のつばに引っ掛けて、つい、と上げる。うつむき加減だったヤミの目が露わになった。涙の残る頬と目元が、金色の眼をいつも以上に綺麗に見せる。
「うん。やっぱりね」
「……?」
「ボクはもうヤミちゃんの感情とか考えてる事は分からないが、前々から思ってることがあってね。今も同じ顔をしてるから言わせてもらおう」
突然何を言うのかという疑問がよぎった瞳に掛けられた言葉は。
「そんなに睨みつけるような目をしてると、幸せが逃げるぞ?」
「――と」
「うん?」
「誰のせいだと……!」
ヤミの椅子が再び音を立てる。
「その目元は元々だが……今不機嫌なのは。うん。ボクのせいだろうな!」
「自覚ありかよ」
思わずついた悪態に、一瞬しまったという色がよぎる。ハナはその一瞬を逃さず、くすくすと笑った。
「うん、そうだ。それでいい。実のところ、この関係がとても心地良いし、ずっと羨ましかった。だからそうであっておくれ」
それに。と彼女の言葉が続く。
「君にだって居ただろう。こんな姉が」
「……」
ヤミの中によぎったのは、もう霞の向こうにある幼い二人の姿。
人一倍活発で、好奇心旺盛で。弟の一人称とどこかで聞きかじった口調を真似て、彼を引っ張り回す元気な少女と。
それに一生懸命ついていこうとする少年。
ああ。そういえばそうだった。彼女は、ずっとそうだったんだ。
少年が良い弟であろうとしたように。
少女も良い姉であろうとしたのだ。
お互い表に出さないで。踏み込まないことを良しとしただけだった。
そんな気がした。
「そうだな。居るよ。……随分と、振り回されてる」
頷くと、ハナは「そうだろう」とくすくす笑った。
「これからもきっと振り回すよ。だから君は、いつまでも君らしくあっておくれ」
「……いや、それはお前次第」
「うむ。ボクもずっとボクであるよう努めるよ」
「そこは努めなくていい……」
「いやいや、実の所、ボクだって大人しくしてるのは性に合わないんだ。本当は甘味処だって行きたかったし寄り道もしたかった。……本当、良い姉というか、良い娘であろうとするのも疲れるんだぞ。君だってそうだったろう?」
「え。いや、俺は……」
「知ってたよ。君が「姉さん」の前では良い弟であろうと頑張ってたこと」
「――っ!?」
かあ、っとヤミの頬が染まる。
「ふふ……図星だね。ほら。さっさと諦めてもらおう」
「いや。少し位は当時を見習えよ……!」
「いやあ、難しいな。そもそもからボクはこうなんだ。狐だってボクをなぞって接してたんだぞ? だから君が諦めた方が身のためだと思うな!」
「それはそうだけど、そうじゃねえよ!?」
夜。月がわずかに差し込む薄暗い部屋に。
ヤミのそんな叫びと、ハナの明るい笑い声が響いていた。





