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鬼さんこちら 2

暴力的な表現があります。苦手な方はご注意ください。

 ヤミの爪は生暖かく濡れていた。

 ハナは廊下に倒れることだけは堪えたらしい。なんとか立っていた。

 直前で力を僅かに抜いたとはいえ、彼女の傷は深い。肩からは白い肌と骨と肉が見えていて。雨音の中でも分かるくらい、何かの滴る音がした。

「はは……やっぱり、痛――い、もんだねえ……」

 覚悟はしていたんだが、と。左腕を押さえて弱々しく笑い、こふん、と咽せる。その拍子に口から血が零れてその肌を汚す。服は……薄暗くてよくわからないけれど、黒い襟からは肩と骨。白いスカーフは引き千切られ、結び目がぶら下がっていた。


「でも」

 今にも落ちそうな左腕を押さえたまま、頼りない足取りでヤミに近寄る。

 ずる、と引きずられるのは何の音だろう。ヤミにはハナの影が深く引きずられているように聞こえた。


 動けない。

 目の前の光景が胸に痛くて。

 喉から声が零れそうで。

 零れたら最後、止まらない気がして。

 後悔に塗りつぶされそうで。

 動けない。


 ハナが右手を伸ばす。

 左腕が落ちた。


「やっ、と……」

 つかま、えた。


 伸ばされた手が、ヤミの肩にそっとかかった。とすん、と彼女の頭が反対側の肩に当たる。やっぱり彼女は、立っているのもやっとだったようで、そのままずるりと倒れ込む。ヤミも彼女を支えようと廊下に座り込んだ。

 暖かい何かが、ヤミの制服に染み込んでは熱を奪うように冷たくなっていく。

 目の前にすることで、自分が彼女にどれだけ深い傷をつけたのかを知る。


「――あ」

 ヤミの脳裏に、過去の光景がフラッシュバックする。


 本だらけの部屋。

 切り裂かれた身体。

 動かない少女。

 温かいものが急速に冷えていく爪の感触。

 影のように暗くて。黒くて。噎せ返るような苦い夜。


「あ……おれ……僕、ねえ、さ……」

「ヤミ、ちゃん」

 目の前の光景で言葉を詰まらせるヤミに、ハナの声が被さる。

「やみちゃん」

 君は「ヤミコ」であって「暦」ではないと。言い聞かせるように名前を呼ぶ。

 その声で叫ぶことだけは堪えたが、言葉が出ない。

「ふふ……うん。これでいい……。いいのさ」

 よくやったね、ヤミちゃん。と、弱々しい笑い声が彼を褒める。

 雨の音で掻き消されそうなほど幽かで、これだけ近くに居なければ聞こえないほど小さな笑いは、傷ひとつないヤミの胸をぎゅっと締め付ける。

「けーかく、どおり――だよ」

「けい、かく……?」

 何を言ってるんだ。とヤミは問う。

 彼女の表情は分からない。きっと微笑んでいるのだろうという事だけは何となく分かる。

 こういう時ほど穏やかに笑うのが、彼女だから。彼女だったから。

「ああ。詳しくは……」

 目を覚ませたら、聞くといい。

 それだけ言うと、ヤミに身を任せるように身体の力が抜けた。

「あ……」

 咄嗟に彼女を支える。

「ハナ……待て。ちょっと……ねえ。ねえ!」

 冷たくなっていく彼女を、少しでも暖めたくて。

 出血を、少しでも止めたくて。

 強く。強く抱き締める。

 彼女の呼吸は糸のように細い。

「なんで……ねえ。なんでこんなに……こんな……――っ!」

 彼女の身体で声を殺すように。ヤミは声をあげる。

 頬が濡れてるのは、彼女の血か。それとも別の物か。

 いや、そもそも濡れているかどうかすら分からない。


 そんなヤミは気付かなかった。

 ハナの影がヤミの影へ噛みついていることを。

 流れる血がその影に吸い取られていることを。

 大きく歪だった右腕から、黒い影が剥がれ落ちていることを。

 それらが小さな刃となって影の中に消えていくことも。


 なにも、気付かなかった。


 □ ■ □


 ハナは自室のベッドに横たわっていた。

 すうすうと聞こえるのは、静かな寝息。

 ヤミはその隣の椅子で、文庫本を読んでいる。

 正直、話の中身はちっとも入ってこない。文字を目で追ってはいるけれど、その文字がなんなのかすら分からない。

 けれども。こうでもしてない限り、この空間に、時間に、耐えられそうになかった。


 雨の音はしない。とっくにやんで、あとは雲が去るのを待つばかりだ。


 あの後。

 呆然としている所をウツロとジャノメに発見され、保健室へと担ぎ込まれた。

 傷ついたハナはヤツヅリが懸命に手当てをしてくれて。

 取り乱すヤミには、ハナブサとウツロが付いていてくれた。

 

 彼女は数日熱にうなされつつもなんとかヤマは超えたらしい。

 ヤミが落ち着いた頃、ハナもいずれ目が覚めるだろう、と言われた。

 いつかは分からないけれど、と付け足されたが。それは希望だった。


 以来、ヤミはどうしようもなく眠れないまま、彼女が目覚めるのを待っている。


 どこかで何かが崩れる音がしても。

 それで学校中が騒ぎになっていても。

 ヤミはただ、彼女の傍らで待ち続けた。


 こんな光景、いつかもあったような気がする。

 ヤミは本の文字を目で追いながら、ぼんやりとそんな事を思っていた。

 あの時と違うのは。影から何も感じないこと。身体の内側。どこからか聞こえてくるようなぬくもりも。感情も。声も。なにも分からない。

 当たり前の事だけれど。何も伝わってこないのが不思議に思える。

 それだけ、この身体と状況に慣れてしまっていたのだろう。

「……馬鹿みたいだ」

 ぽつりと呟いて、ページをめくる。

 僅かに伝わってくるものだけで何でも分かった気になって。あっさりと憎しみに溺れて。

 ああ。何ひとつ成長していなかったんだと、痛感する。


「……」 

 そういえば。

 文字から目を離して、耳を澄ました。校内のざわめきと、風に揺れる葉擦れの音が微かに聞こえる。

 それだけだ。

 あの時の声は、聞こえなくなっていた。

 あれは一体どこへ行ったのだろう。

 他の標的を定めたのだろうか。

 声しか確認できなかった。姿も持たない可能性がある。

 ならば、次の犠牲者が出るまで待つしかないのだろうか。

「……俺が……あの時」

 もっと声の出所を気にしていれば。あるいは、自分自身を斬り裂いていたなら。そいつもろとも屠れたのではないか。

 そんな気がした。

 つくづく自分の甘さに溜息が出る。

 ――と。


「溜息をつくと、幸せが逃げるぞ」

「――!」


 がたん、と椅子が音を立てた。文庫本が床に落ちる。

 いつの間にか、ハナの顔がこちらを向いていた。

 相変わらず目は隠れていて見えないが、その口元は穏やかだ。


 ええと。こういう時。何と言えばいいだろう?

 嬉しい? よかった? 本当に? 

 色んな言葉がぐちゃぐちゃと混ざり、結局出てきたのは。

「目……覚めたんだ」

 そんな素っ気なくて、小さな声だった。


 うむ、と頷いた彼女は身を起こそうとして、痛みに顔をしかめる。

 着せてあった無地の浴衣に、髪がさらりと零れた。

 慌てて背中に手を添えてやると、彼女は「すまないね」と弱々しく言う。

「気に、しないで。それより」

 身体が冷える、と椅子に掛けておいたカーディガンをかけてやる。

「おやこれは」

「服は……ボロボロにしちゃったから。――これ」

 細い毛糸で編まれた紺色のカーディガンは、ハナには少し大きなサイズだった。当然ヤミにも大きなサイズで着ることはできなかったが、大事にしていた服だ。

 かつての自分の背丈とか、あの頃を忘れないようにとか。そんな自戒を込めて作ってもらった物だった。

「もらっていいのかい?」

「ん」

 ヤミはこくりと頷いた。

「そっか……じゃあ、ありがたくいただこう。ところでボクはどれくらい寝てたのだろう?」

「……そろそろ、一ヶ月」

 ハナは一ヶ月、と小さく繰り返して「それはそれは」と苦笑した。

「随分と寝坊したもんだね」

「ヤツヅリが言うには、人なら助からなかった、って。それから、回復は早いって、言ってた」

「そうか」

「あと……」

「うん?」

「目が覚めて、よかった……と、言いたい所だけど」

「だけど?」

 ヤミは何か迷うように口を小さく動かして。

「聞きたいことが、二つある」

 ようやくそれだけを口にした。


「まずは……あいつ」

「あいつ」

 繰り返したハナは、すぐに「ああ」と思いついたように頷く。

「目隠し鬼かい?」

「目隠し、鬼」

 繰り返すヤミに彼女は「そう」と答える。

「サトリのような物だと思ってたんだけど。そう言う名前だったの?」

「うん。校内の噂ではそうだったようだよ。だが、正体はそっちが近いかもしれないな」

 ボクだってその名前を知ったのは偶然だし、と彼女は言って。けほん、と小さく咳き込んだ。

「あ。……無理して喋らなくてもいいから」

 ヤミの言葉にハナは「いいや」と首を横に振った。

「今、話すべき事だからな。休むのは後にするよ。それで――声を聞いたんだろう?」

「声……」


 あの声だ。

 囁くような。温かくて、全てを肯定するあの声。


「ああ、聞いた」

「うん。その声はきっとね、その人の中にある漠然とした不安とか、欲望とか。そんなものだけを見せつけて。周りの物を全部隠してしまうんだ。――大方君は、ボクのことでも囁かれたんじゃないかい?」

「ああ……うん」

 大正解すぎて溜息が出そうだったのを「それで」と置き換える。

「その声を聞いて、確かに我を失った。でも、今はその声もしない。そいつがまた、他の誰かに何かを吹き込むなら、今度こそ逃がしちゃいけない」

「そうだね」

「知ってるなら特徴を教えて。――次は、逃がさない」

 その強い意志がこもった言葉に、ハナはふふっと笑った。

「頼もしいな。それならボクが食べてしまったよ」

「そう、食べて…………は?」

 次の言葉が続かなかった。

「ふ――ふふ。あははは! 面白い顔をするね。面白かったからもう一度言おう。目隠し鬼はボクが食べてしまった。だからもう、誰かが被害に遭うことはない。安心したまえ」


 彼女の言っていることは、簡潔で、理解しがたかった。


「……え。どうやって……」

「簡単なことさ」

 と、彼女はは手で狐を形作り、こんこん、と揺らす。

「あれは姿を持たないんだ。害悪ではあるが、それほど強くはないのだろう。だから、君にくっついていた所をだね。こう」

 狐の口を大きく開き、ぱくん、と閉じる。

「ぱくりといただいた。それだけのことさ」

 何がどう簡単なのかちっとも分からない。それが表情に出ていたらしい。ハナはくすくすと笑いながら、その表情をこんこんと指摘する。

「困惑してるね」

「だって……分からない」

「ならば、もっと詳しく説明してあげよう――あのね、飽いていたのさ」

 カーディガンを羽織り直して、ハナはぽつりとそう言った。

「は?」

 何の話か分からない。だが、彼女は「まあ聞いててよ」と話を続けた。

「こっくりさんで呼び出されるのは君ばかりで、獲物を狩れる訳でもない。君はボクを恨んでいるし、時々殺気じみた視線を寄越すが、それだけだ。ただただ学校で穏やかに過ごす日々は退屈で仕方なかった。……ここは檻のようだと零すのを何度も聞いた」


 そんな狐は、常に何かを探していた。

 何かは分からない。ただ、自分の退屈を紛らわすことができる物を探していた。

 目隠し鬼の話を聞いた時、狐はこれは良い玩具になるのではないかと思った。

 利用して、壊れたならば自分の糧にして。そうすれば鬼ごっこも再開されるだろうし、もっと面白いことになるだろう。そんなことを考えた。

 だから、狐は目隠し鬼を自分の身体に引き寄せることだけを考えていた。


「目隠し鬼が、興味を持たなかったらどうするつもりだったの」

 今現在、目隠し鬼を呼び寄せる手段はないに等しい。

 噂話として広まりきっていない、姿形すらない声は、無差別に、不定期に現れるものだ。運良く遭遇できたとしても、それが自由にできる訳がない。

 なのに、ハナは「それはあり得ないね」と簡単に言い放った。

「存在を感知した時に餌を用意すれば、きっと近くに現れる。そして、ボクもまた、目隠し鬼が唆すに丁度良い存在なのさ」

 飽き。退屈。空腹感。そんな欲にまみれた狐は付け込む隙だらけだ。目隠し鬼にとってこれ以上ない餌に見えただろう。

 そうでなくても、とハナは言う。

「この体質が。それを逃すはずがないと思ったのさ」

「――」 

 思わず言葉を失ったヤミに、ハナはにこりと笑いかけた。

「狐はさ、今は幸せだと思うよ」

「……幸、せ?」

 繰り返す言葉に、ハナは頷く。

「飽きと食欲で何も見えなくなった狐にとって、目隠し鬼はさぞかし素敵な狩りの標的だ。今はきっと――」

 と、布団に落ちた自分の影を見つめ。

「影の底で、残り少ない魂を満たそうと互いを喰らう、そんな鬼ごっこをしているはずさ」

 きっとこっちから呼びかけない限り出てこないだろうなあ。

 そんな言葉でハナはこの話を締めた。


 それはある種の封印とも言える行動だったのかもしれない。

 彼女の中に在った狐は、ヤミによって大半を斬り裂かれた。

 弱った狐は、目隠し鬼を糧にしようと追いかけて。

 目隠し鬼は、狐の欲を糧にしようと追いかける。

 どちらも捕まれば餌食になる。逃げて、追って。繰り返す。

 二匹の蛇が互いを喰らう絵をどこかで見たのを思い出した。

 斬り裂かれて弱った魂なら。姿すらない存在なら。勝手に出てくるだけの力もない。

 そういう事だろう。


「そう。そっか……」

「本当はボクが目隠し鬼をヤミちゃんに差し向けてやるつもりだったのだが」

 手間が省けた。と彼女は嬉しそうに言った。

 とても無茶な話が聞こえた気がしたヤミはなんと答えた物か考え、ふと、首を傾げた。

「なんで?」

「うん?」

 なにがだい、とハナは問う。

「だって、狐が目隠し鬼を手に入れるだけなら、俺は関係ないはずだよ」

 ハナに利用されるとか。考えるだけで腹立たしくもあったけれど。それは考えないことにした。

「ふふ……ヤミちゃんは鋭いなあ」

 ハナは何故か嬉しそうに口元を歪める。

 人差し指が、口元にすっと立てられた。

「でも、そこは秘密だ」

「……」

 ヤミは口を曲げた。


 昔からこう言うヤツだった。

 そう。あの夜から。勝手なヤツだった。

 そうだったんだけれど。


「そっか……それじゃあ、もうひとつ」

 次の質問なんだけど、とヤミは話を変える。

「なんだい」

「さっき狐は影の底だって、言った」

「ああ、言ったな」

 それなら、とヤミは言いにくそうに口を小さく開いては閉じる。


 それは、彼女が目を覚ました時から、最初の声を聞いた時からヤミの中で燻ってていた予感だった。

 答えが「否」だったらどうしよう。そんな不安もあるけれど、聞かないことには分からない。


 だから、「今、」と小さく切り出した。

「今、こうして話をしているのは……」

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