心に一歩、一方一転
雨の降る理科室で。
ハナは黒板に向かい、ハナブサは静かに座っていた。
ハナはいつものように機嫌よさげな顔で。
ハナブサは珍しく難しい顔で。
「――私は」
ハナブサが重そうに口を開いた。
「個人的な事情には、あまり踏み込まないつもりでいるんだけども」
「うん」
「今は、聞いておかなくちゃいけない気がする。……君達二人には、一体何があるんだい?」
「そうだね。ハナブサさんはあの日、ボク達に何も聞かないでくれた。ただ希望を聞いて、受け入れてくれた」
ハナはどこから話そうか、と考えるような顔で黒板の文字を消す。
雨音は一向に収まる気配がない。
そのまま世界を削り落としてしまいそうなほど、ざあざあと降る。
「うん。君達を見つけたのもサクラだったしね。私は君達を見舞っただけだよ」
「そうだったそうだった。いや、あの夜は大変迷惑を掛けた。すまないね」
ハナブサは「それは良いんだ」と首を振る。
ハナはそんな彼の方へくるりと振り返り、にこりと笑った。
「それじゃあ、ちょっとした昔話をしよう」
声が理科室に響く。いつも通りの明るい声だ。
「登場人物は三人」
「三人」
繰り返すとハナはうん、と頷く。
「正しくは二人と一匹か。まず二人。双子の姉弟」
「双子……?」
ハナブサが首を傾げる。
「そう、双子。同じ日に生まれた姉と弟。それはそれは仲の良い姉弟だった。それから、一匹の狐。彼らがこの話の中心だ」
ハナは席に戻ってきて簡単に。軽やかに。その過去を語る。
姉の体質のこと。それ故に自由のない生活を送っていたこと。
こっくりさんをして、呼び出された狐がいたこと。
狐は姉の身体を手に入れたこと。
弟は姉を殺し、その亡骸を抱えて自害したこと。
「そうしてボク達は保健室で目覚めることになった」
めでたしかどうかは分からないが、という言葉でハナはその昔話を締める。
「……もしかして、その姉が死んでしまったから、ヤミは君を憎んでいる?」
彼女の話をそのまま考えるなら、姉は死んでしまったと考えるべきだろう。しかも弟の手で命を奪われた。そうなってしまった、そうさせた元凶が目の前に居る――ということだろうか。
それに、ハナは確か名前を決める時に「自分は狐だ」と言っていた。漢字もそう当てたはずだ。
けれど。それでは片付かない違和感が。引っかかる何かがある。
ヤミはハナと一緒に居る事が多い。
それはヤミが彼女に対して抱く感情からだろうか?
ハナブサには、ヤミがハナと共に居る理由が、憎しみとか殺意とか、それだけではないように感じていた。だから、そこが不思議で仕方なかった。
「そうだね。と言いたい所だが彼も複雑なんだろうなあ」
ハナは声量を落として言う。
「だって、殺めてしまったのは彼だ。ヤミちゃんはそれを後悔している。そりゃあもう深く深く、未だに引きずっている」
内緒話をするように身を乗り出し、「それにね」と、手を口元に添える。
「ヤミちゃん……いや、弟君は知ってるんだ。姉は消えてしまった、と言ってはいるが、実はまだみんな居るってこと」
「みんな……居る?」
繰り返すハナブサにハナは頷いて離れる。
「そう。狐は自分の力を弟君に譲り渡した。渡すのは一部のつもりだったけど、見事に全部奪われてしまってな。ボクには本体、彼には牙と分かれてしまった」
それ故に、とハナの言葉は続く。
「ボクとヤミちゃんの影を繋ぐように、狐の意識――魂がある。多分、純粋に力だけを引き剥がせなかったのだろう。だからボク達は影で少しだけ繋がっている。――それじゃあ、ボクの中には狐しか居ないのか?」
問いかけるような視線を感じた。ここは答えるべきなのだろう。
「みんな居る、というのなら……狐だけということは、ないと思う」
確かめるように答えたハナブサの声に、ハナは「その通り」と嬉しそうに頷いた。
「姉の魂もボクの中に残ってるんだ」
彼はすぐに気付いたんだよ。と、ハナはなんだか嬉しそうにクッキーに手を伸ばす。
さく、とかじる軽い音とともに。
「弟君はね。優秀だったんだ」
少しだけ誇らしげに、彼を褒める。
「狐は、姉の魂を斬らせて、彼女の身体を手に入れるつもりだった。そしてついでに彼も喰らおうとした」
それなのにさ。とお茶を一口。
「彼は力を奪い取って、狐の魂だけを斬り裂いた。人間が耐えられると思ってなかった力を、あっさり使いこなしてさ。それは想像以上の能力――いや、才能だよ。ただ闇雲に斬るだけじゃない。選択し、残したんだ。狐とは強度が違う、ただの人間だった姉の魂も」
「じゃあ、……その。ハナは両方の魂を抱えている?」
「そうだね。残った魂は合わせてひとり分とちょっと程度だけどね。基本的に魂は儚く脆い。けれども大事な根源だ。それを傷付けられた姉は瀕死もいいところ。だから、最初は狐が主導権を握っていた。けれども、ここに来て随分経った。時間とはすごいものでさ。様々なものを癒し、変化を与える」
「変化を……」
「ああ。姉はずっと狐に寄り添うように在った。時間をかけてそれなりに回復してきた。狐もそれは同様だ。感覚的な話になるが、ひとつの身体に二人分は窮屈だし――まあ」
飽きたんだろうね。とハナは湯呑みをふうと吹く。
「飽きた?」
「そう。弟君はちっとも仕掛けてこないし、学校はまあまあ平和だし、でも外には出て行けないし。ってね。だから、時々ふらっと奥に引っ込んで丸くなるんだ。そういう時は、姉が代わりに喋ったりすることもあってさ。それを繰り返した結果、境界が分からなくなってきた」
と、何かを掻き混ぜるように、指をくるくる回して見せる。
ハナブサが相槌を打つと同時に「そこで」とハナの声が重なった。
「弟君が持つ牙さ。ハナブサさんも見たことあるだろう?」
「ああ」
それは、ヤミが何かを切り裂く時の大きな爪だ。
右手が大きく、歪に変形した。真っ黒で。影のような。
それは、自分たちに近い存在に対してかなり有効な攻撃手段だった。切り裂けば砕け散って元の形を残さない。存在の根本から。それこそ魂を切り裂くような爪だ。
ただの人間だったはずのヤミがどうして持っているのかなんて、考えたことはなかったし、彼も語ることはしなかった。けれど。
「あれはハナの物だったのか」
「うん。昔は狐のものだった」
「そうか。……ああいや。待って。その言い方だと君は」
ハナブサが言いたいことを汲み取ったハナは、うむと頷く。
「ボクは狐である時と姉である時がある。補強か修復かは定かじゃないが、どちらも元気になってきた。意識の主導権という意味で言うならば。今この瞬間におけるボクはその姉――秋津かよ、という人間だったものだ。――そんな訳で、と置くのも変な話だが」
と、お茶を飲む手が止まった。
静かに湯飲みを置き、背筋をしゃんと伸ばす。
口元の笑みが控えめになった途端、彼女の空気がふわりと和らいだ気がした。
「挨拶が遅れてごめんなさい。はじめましてハナブサさん。弟がお世話になっています」
「あ、ああ……」
「――と、まあ。やってはみたものの、これはもうよそ行きのボクだな」
思わず口ごもったハナブサに、ハナはくすりと笑って「話を戻そう」と姿勢も空気も何もかもを戻してお茶をすする。
「普段のボクは狐だけれども。今日みたいに〝私〟であることもある。そうして入れ替わりで喋ってると、はて、今はどっちだっただろうと思うこともあってさ。意識の上では自覚できてるつもりだが、分からなくなるんだ」
魂って混ざるもんなんだねあはは、と彼女は楽しげに笑う。
「だから、その境界が混ざりきる前にどうにかしたいのさ」
「混ざってしまうのは、よくないのかい?」
素朴な疑問に、ハナは「さあ。どうなんだろう」と首を傾げた。
「補強という意味では良いのかもしれないが、一人の身体に二人分の魂なんて話、他に聞いた事ないから分からないな」
ハナブサの脳裏にふと桜色の影がよぎったが、それはそのまま見送った。
「だがなんというか……奥底で相容れないというか、抵抗感みたいなものもあるんだ。お互いに、他の魂を喰らうなら兎も角、同化するなんてごめんだと思ってるのだろう。それなら片方を消し去るのが早い……なんて考え方も、きっと混ざった影響なのだろうなあ」
だが、ヤミちゃんならやってくれそうだろう? と。ハナは言った。
ハナブサは返事を保留して湯呑みを両手で包み、今の話を自分なりにまとめる。
ハナの中には狐と双子の姉が居る。
弟には。ヤミには、狐の力を使いこなし、魂を選んで切り裂ける才能がある。
姉と狐。残った二人の境界は曖昧になってきていて。
姉はそれをどうにかしたい。
目隠し鬼は、その人の中にある漠然とした不安や欲望を浮き上がらせる。
ハナは目隠し鬼を手に入れたい。
ヤミを利用したい。
ヤミはハナを憎んでいるから手加減しない。
それはもしかして。
ひとつの結論に思い当たる。
――ヤミに、もう一度姉を。自身を斬らせようとしているのではないか。
「ハナ。それは」
ハナブサの固い声に、ハナはにこりと笑う。
「さすがハナブサさんだね。多分合ってると思う。けど、まだ答え合わせはしないよ」
止めないでおくれ、とハナは言外に含める。
「でも――」
「大丈夫。ハナブサさんが心配するようなことは何も無いさ。むしろ全てまるっと平和になるよ」
そう言ってハナはもう一枚クッキーをつまんだ。
もぐもぐとそれをおいしそうに咀嚼し、お茶を飲む。
「それじゃあボクはそろそろ行くとしよう。クッキーとお茶、美味しかった」
ごちそうさま。と、彼女は満足したように席を立つ。
ハナブサはどうすれば良いのか分からなかった。
ハナがヤミに危害を加えるよう唆かすのなら。ヤミがハナを傷つけようとするのなら。当然、止めるべきだ。けれども、彼女の笑顔にはそこに割って入らせない何かがあるようにも感じた。
こうして長らく人の真似事をしてはいるけれど、所詮は心を持たぬ物。ハナブサに人の心は、まだよく分からない。
止めたらいいのか。自分に何かできる事はないのか。
それを問いただすべく、管理者としての権限を振りかざす、と言う選択肢もよぎる。けれどもそれは言霊とすら呼べない代物。強い信念を伴わない言葉など、形のないただの音。我が儘以上の何物でもないし、抑止力すらない。無視されて終わるだけだ。
だから。ハナブサは言葉を続けられなかった。
彼女があまりにいつも通りだから、無理矢理止めることすら躊躇われた。
「ハナ……」
カップを洗って水切り籠へと置く彼女に、ハナブサはようやく声をかけることができた。
「なんだい?」
「私は……君になんて言葉をかければいいのか、分からないよ」
「ふむ?」
手を止めたハナに、ハナブサは言葉を選びながら並べていく。
「もし、君かヤミのどちらかが傷つくというのなら、止めるべきだとは思う。けれど、学校には関係ない、君達二人の問題だと言われたら、私に口を挟む権利はない、とも思うんだ」
珍しく弱気な彼の発言に、ハナは軽く首を傾げた。
「なんだ、簡単なことさ。そういう時は、いつもみたいに言えば良いんだよ」
「え」
自分は何を言ってただろうか、と顔を上げたハナブサに、軽い口調でハナは言った。
「いってらっしゃい、ってね」
「……」
本当にそれで良いのだろうか。
その疑問も。ハナにはあっさりと見抜かれているようだった。
「なに、ハナブサさんが心配するようなことはないさ。あの日約束しただろう? ボク達は穏便に過ごすと。ちゃんと、ハナコもヤミコも、またお茶を飲みにやってくるよ」
それに、と彼女は続ける。
「ここには頼りになる用務員さんも居るだろう? もし何かあったら、ちゃんと助けを呼ぶから安心して――」
安心してくれたまえよ。と言おうとしたのだろうか。
「む」
ハナの声色が変わった。
「ハナブサさん」
「……うん?」
「すまない。ちょっと事情が変わったようだ」
「え」
何が。とハナブサが問うより先に、ハナが部屋を後にするドアの音が理科室に響いた。
□ ■ □
ハナはぱたぱたと廊下を駆ける。
その足取りは軽く、口元は楽しい場所へ向かうような笑みだった。
「ふふ――少々予定は狂ったけど。やっと、この時がきたね」
さらりと長い髪を揺らして。
彼女は雨の降る窓を横目に、廊下の奥へと消えた。





