夜に出会った狐 4
目の前で難しい顔をして黙り込んだ暦に、狐はにやりと笑った。
「その目。仇でも討ちたいのかい?」
「え」
ハッとあげた顔で、彼女はさらに楽しそうな顔をする。
「うんうん。君は実に顔に出やすいな」
「……うるさい」
「分かりやすいのは良いことさ。仇を討ちたいなら、その――」
と、右腕をそっと指差す。
「力を使いこなすと良い。そして機会を狙うといい」
す、と彼女の指が暦の腕を指す。
「その爪で今度こそボクを引き裂ける時をね」
暦はすぐに頷けなかった。
「……どうして」
「うん?」
「どうしてお前は、そうも俺を焚き付けるんだ?」
「そりゃあ……」
彼女はにっこりと笑って言った。
「その方が毎日楽しそうだからさ!」
「は……?」
呆気にとられた暦の言葉に、狐はとても楽しみだと言わんばかりに自分の身体を抱く。
「これまで何度も呼び出されて色んな事をしてきたけど、命をかけた鬼ごっこなんて初めてだ。ああ、わくわくするね!」
「……」
あっけらかんと言われた内容に理解が追いつかない暦に、「あ。それから」と言葉が繋がれる。
「ボクは君を振り回すよ。かつて君の姉さんがやっていたように振る舞おう。だから君は存分に振り回されるといい」
明るく笑って彼女は言う。
確かに姉のような言動だが、こいつはそうじゃない。けど、確かに姉の気配を、面影を感じる。
どう答えたら良いのか分からない。
どう接したら良いのか分からない。
姉によく似た言動が懐かしくて、嬉しくて。
姉に全く似てない言動が悔しくて、悲しくて。
自分では取り戻せなかった彼女が、ここに居て。
そんな彼女を、こいつが演じているというのが気に入らなくて。
いろんな感情がないまぜになって、正直凹みそうだ。
「まったく君は。ノリが悪い……いや、彼女の言葉を借りるなら頑固、というやつか」
「……どういう、ことだよ」
「いや、少し話した時に彼女が言ってたんだ。君はそういう所があるから気をつけろと」
思わず黙る。なんて情報を残してくれてるんだ、とちょっとした文句が湧いた。
「ま。ボクとの付き合い方は追々考えるといい」
狐は楽しげに笑う。
「姉として接するも良し。仇として接するも良し。ボクは別にどちらでも構わないからね」
「……ああ、そうさせて。もらう」
歯切れの悪い返事に、彼女はうんうんと頷く。
「――なあ」
「なんだい?」
「もう一度聞く。お前の中に……姉さんは本当に居ないのか?」
暦の問いに、彼女は一瞬返事を忘れたような顔をした。
けれども、すぐににやりと笑い。
「何度も言おう。居ないよ」
あっさりと嘘をついた。
「その顔は信じてないな? まあ、居たいと思うならそう信じてみたらどうだい? ボクはいくら聞いたって居ないって言うけどね」
「……そう」
首を背けて、小さな相槌を打つ。
演じられた姉など、いらない。
求めるのは、本物だけだ。
そんな態度の暦にも、狐は気を悪くした様子なく楽しそうに頷いた。
「ま。どちらでもいいよ。中身を重視するならボクは彼女ではないし。外見を重視するなら君の姉さんだ」
そう言って笑う彼女の髪から目が覗いた。
「まあ、程々に仲良くしようじゃないか。〝暦ちゃん”?」
それは暦と同じように。獣のように金色に光っていたけれども。
その目元は、確かに。
間違えようもないほどに、自分と良く似た姉の目だった。
□ ■ □
「それで。ボクと彼はここでお世話になりたいんだ」
暦と狐はハナブサの元を訪ね、出されたお茶を前にしてそう言った。
「それは別に構わないよ。部屋もあるし。けれど……君は、いいのかい?」
ハナブサは暦を見て心配そうに問う。
暦はただ、こくりと頷いた。
「正直言うと、どうしたら良いか……分からない。でも、ここにしか居られないから。とりあえず」
ちら、と隣で背筋をしゃんとして座ってる彼女を視線だけで指す。
「こいつと一緒に居るつもり」
他の人を巻き込む必要はないから、目的は言わない。
ハナブサは暦の答えに「そう」と頷いた。
「私達には、ここに居たいという人を拒む理由はない。ただ、いくつか約束があるから、それは守って欲しい」
二人はこくりと頷いてその約束事に耳を傾ける。
「ひとつ。噂話には忠実である事」
「噂話」
暦が零した言葉にハナブサは頷く。
「そう。君はここの生徒だと言ってたから知ってるだろう。噂話が多いってこと」
「うん」
「私達はね。その噂話なんだ。例えば私は――」
そう言って、彼は顔を覆っていた布を少しだけめくる。
そこにあったのは、皮膚をはいだ――赤黒く乾いた肌。
「……」
「ほう」
目の前の光景に頭がついていかない暦を見て、ハナブサは笑いながら布から手を離す。
「人体模型」
「う、うん」
「きっと君は、他にも色んな噂を耳にしてるだろう。その噂の真偽はね。言ってしまえば私達次第なんだ。私達は噂話から生まれるし、私達が噂話を生むこともある。でも、その存在の強度は、いかに語られるかに左右される。つまり……私達は生徒達の噂話に生かされている」
「ふむふむなるほど?」
「噂話が、俺達の役割のようなもの……ってこと?」
「そうだね。君達は来たばかりだし……今回は校内にある噂話から選ばせてもらおうかな」
「うん」
「それから二つ目は、生徒の安全を守る事」
「学校の怪談なのにかい?」
狐の問いにハナブサは頷く。
「学校の怪談だから。だよ。噂に生かされているからね。そのために、彼らの学校生活は平和であるべきだ、と考えている。私達が害して良いものではない」
ハナブサの目が暦の方を向く。
「時に君、運動は得意かい?」
「運動? それなりには……」
暦はこくりと頷く。
「噂話にはね。時々、人に危害を与えるようなものも存在するんだ」
「えっと……その対応をすると、いいの?」
暦が問うと、ハナブサは「うん」と頷いた。
「そういうことになる。話が早くて助かるよ」
「戦力として、ってことなら。使えると、思う」
運動の成績は悪くなかった。毎朝の軽い鍛錬も欠かしていなかった。そして今は――この右腕がある。使いこなすには少し時間がかかるかもしれないけど、戦力として多少の役には立てるかもしれない。
ぎゅっと右手を握りしめる。軽い力なのに、爪が手のひらに食い込む感触がした。
「まだ武器とか……使いこなせるか分からないけど」
「それなら指導役を頼もう。丁度いい人が居る」
後で紹介するよ、とハナブサは言って湯のみに口をつけ、ふう、と一息ついた。
「そんな訳で。最低限この二つを守ってほしい」
「――もし」
狐が軽く手を挙げ、首を傾げながら問う。
「それを破ったらどうなるんだい?」
「そうだね。更正の余地があると判断できたら、幽閉や監視をつけて対応しているけど。もしそれが不可能だと判断されたら」
ハナブサのにこやかに閉じられていた目から、緑の瞳が覗く。
「そのまま処分、だね」
「ふふ。ぞっとしない答えだな。なるほどなるほど。分かった。ボク達は出来る限り穏やかに生活すると約束しよう」
ね、と暦に向かって狐は言う。
暦はうん、と頷くしかなかった。
「できる事ならのびのびと、ここの生活を楽しんで欲しい。それじゃあ、よろしく頼むよ」
ハナブサはそう言ってにっこりと笑った。
「あとは……そうだ。君達の名前だけど」
「名前?」
二人の首が傾く。
暦は最初に名乗ったが、狐はそれをはぐらかしていた。
ちら、と狐を見る。彼女はさてね、と言いたげに口の端を上げた。
「そのまま呼んでも構わないかい?」
「と。いうと?」
「いや。私達の中には元々人間だった人も居るんだけど、名前は変えたりしてるから……どうかなって」
「なるほどそれなら」
何か思いついたように狐がポンと手を叩いた。
「さっきボク達の……役割、だったか。そういうのは噂話から割り当てると言っていたね」
「ああ、そうだね」
「なら。ボクはその名前で結構だ」
ハナブサは「そう」と頷いて「君は?」と暦に視線で問う。
そっか。本名と異なる名前でもいいんだ。
ならば何か良い物はあるだろうかと考えてみたが、何も思いつかなかった。
元の名が呼ばれ慣れているし、一番良い気もするが、狐から呼ばれる度に姉を思い出しそうでなんか嫌だった。
だから、暦も頷く。
「俺も……それでいい」
「そう。それじゃあ、一日待ってて。明日には用意しておこう」
「うん。よろしく頼むよ」
「よろしく、お願いします」
□ ■ □
そうして二人に与えられた名前は。
「まず、ハナコ」
「ハナコ? 女子生徒は居ないのにハナコさんはいるのかい?」
「噂だけは何故かある」
素っ気なく答えた暦に、彼女は「そうなのか」と頷く。
「それから、もうひとつがヤミコ」
「……あ」
その名前で、暦はようやく思い出した。
こっくりさんをしようと言われた時に頭をかすめた学校の噂。あの時聞き流していた物がはっきりと蘇ってきた。
こっくりさんをすると、暗闇から狐がやってくる。
なんでも答えてくれるけど、もしも名前を問われたら。
答えないと喰われてしまう。
当てないと喰われてしまう。
この狐がそうなのかは分からない。
学校外だったからか、そもそも違うものなのかも分からない。
そもそも名前なんて問う暇も与えられなかったけれど。
この狐はその役割を喜んで受け入れるのではないか。
と、思ったのだが。
「それじゃあ、少年。君がヤミコを名乗りたまえよ」
あっさりと狐はそう言った。
「え。なんで……?」
暦の問いに、狐は不思議そうに首を傾げる。
「いや、別にハナコがいいと言うのなら譲るが……ほら」
「さすがに女性の名前は――うん?」
「彼女はあの家の花だったのだろう? そしてボクは狐だ。ならばこう――」
と、空中に指で文字を描く。
華狐
「……嫌がらせか」
「ああ。そうさ」
楽しげな肯定に、思わず舌打ちをした。
「うんうん。君は素直だね。別に良い子であろうとせずさ。肩の力も抜いて、自由に決めなよ」
「……」
こいつには何もかも読まれてる気がした。
姉の前ではできるだけ良い弟でありたかったことも。
それがいかに自分勝手で無意味な考えだったかということも。
学友と過ごす時の砕けた姿も、きっとバレているに違いない。
自分が姉の影を読み取ったように。
こいつもまた、自分の姿を読み取っている可能性はある。
「……はあ」
溜息が出た。
「分かった。それじゃあ、俺はヤミコで」
「文字は?」
「え、要るの?」
ハナブサの方を見る。彼は「そこは好きにしていいよ」と頷いた。
「……そうだな」
考える。噂話の内容に沿っていて、自分もこの狐の一部を受け継いでるのならば。
机の上で指を滑らせる。
闇狐
「こう、かな」
暗闇から現れる狐でヤミコ、なんてどういう名前の付け方だとか、なんか安直だとか思わなくもないけれど。噂話に忠実にあれ、と言うのならこの漢字が一番だろう。
「なるほどね。これで決まりだ。それでは」
す、と狐――ハナコは右手を差し出してきた。
「仲良くしようじゃないか。ヤミコちゃん」
差し出された手に視線を落とす。握り返して良いものか、という疑問がよぎる。
「仲良くするかどうかはさておき、だ」
手を握ることはせず、ハナコを見る。
彼女もすぐにその手を引いて「なんだい?」と問い返してきた。
「ヤミコちゃんはやめろ」
「ふむ? どうしてだい? ――あ。もしかして、暦ちゃんと似ているからかい? わざとだよ」
ぐ。と言葉が詰まる。図星すぎるうえにわざととは、実に腹が立つ。
そして彼女はそれを察したのかにやりと笑って「分かった」と頷く。
「ふふ、君は実に分かりやすい。ならばボクは君の事をこう呼ぼう――ヤミちゃん」
「………………それならギリギリ許す」
奥から搾るように呟いた言葉に彼女は頷きながら、何かを待つようにヤミをじっと見てくる。
「なんだよ……」
「え。君はボクの事を呼んでくれないのかい?」
「……」
「あっはっは! 嫌そうな顔だね! でも、仲良くすると言ったんだ。まずは名前を呼べなければその一歩は始まらないぞ?」
妙な所で正論を突きつけてくる。苛立たしい。
「分かったよ。……ハナ」
「ふふふ。照れてる。照れてるな?」
「ああもう、うるさいなお前は!」
「あははは! そう、それでいい。君には元気であってもらわないとな」
その言葉は「かよ」とは似ても似つかない物だったけど。
彼女は確かに暦にとっての花でもあったのだから。
名前を呼ぶ度にきっと思い出すのだろう。
あの夜の事を。大事な姉さんのことを。
朗らかに笑い、からかうハナと。それになんだかんだと怒り、答えるヤミ。
「うん。二人とも仲良くなれそう、かな」
ちょっと心配なところもあるけど、そこは私も何とかしよう。
ハナブサはまだ温かい湯呑みを手にそんな事を考えながら、二人を眺めていた。





