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夜に出会った狐 3

「――ああ。あなた」

 少女は近寄ってきた影に声をかけた。

 目が霞んでよく見えない。影は何かを言っているけれど、耳も遠くてよく聞こえない。

「お願いが、あるの」

 声も出ているか分からないけれど。

 精一杯をかけて伝える。


 この子を。弟を。

 助けてください。

 

 □ ■ □


「――」

 気がつくと、薄暗い天井が見えた。

 辺りは薄暗くて、時間がよく分からない。

「ああ。目が覚めたようだね」

 誰かの声がした。少年のように高く、温かいお茶のように落ち着いた声だった。

「ここは……」

「保健室だよ」

「ほけん、しつ……?」

 その言葉を理解するより先に、浮かんだのは疑問だった。


 俺は、姉さんの部屋に居たはずではなかったか?


 こっくりさんをして。

 姉さんの様子がおかしくなって。

 きらめく硬貨を受け取って。

 爪が肉に深く深く抉り込む感覚が――。


「……う」

 一気に戻ってきた記憶と吐き気に、暦は勢いよく身体を起こし、その痛みにうめき声を上げた。

「大丈夫? 無理はしない方が良い」

 そっと背を支えてくれた誰かに、ようやく視線を向ける。

 

 淡い色の長い髪を束ねた少年だった。

 制服を着ているようだけど、年は暦よりもいくつか幼く見えた。不思議なことに、彼の顔は布と髪で半分ほど覆われている。

 布をじっと見られていることに気付いたのだろう。

「ああ、これが気になるかい?」

 彼は柔和に笑って布に触れる。その手も手袋だ。よく見れば首もハイカラーのシャツで、顔の半分以外に肌が見えなかった。

「別に怪しいものでもないよ。私はハナブサという。君の味方だ」

 ハナブサと乗った少年は、暦に簡単な状況を説明してくれた。


 学校の裏庭で、二人が倒れていた事。

 保健室に運んで、数日が経つ事。

 一緒に運ばれた少女はまだ目を覚ましていない事。


「目を覚ましてない……? 生きてる……の……?」

 暦の問いに、彼は曖昧に笑った。


 彼女は確かに息絶えたと思った。

 身体に酷い傷がついたのに。あんなに血を溢したのに。

 なのに?

 俄には信じられない話だった。


「酷い痣だったけど、まあ。そう言っても良い状態ではある、かな。傷は君の方が酷かったよ」

 それを聞いて動こうとした暦を、ハナブサはそっと制す。

「まだ動くには無理がある。大丈夫。焦ることはない」

 動けるようになるまでゆっくり休んで、とハナブサは穏やかに笑った。


 □ ■ □


 ようやくベッドから出られるようになった暦に待っていたのは、信じがたい光景だった。

 いや、寝ている間に薄々気付いてはいた。

 けれど。目の当たりにすると、とても信じられなかった。


 背が以前より頭一つは低い。

 短く刈られていた髪は伸び、大きく跳ねている。

 着ていた服はぶかぶかで、全く大きさが合っていない。袖も裾も捲らないと動けない。

 ハナブサと同じ年頃に見えるくらい、幼くなっている。


 そしてなにより。

 目が、あの夜に見たのと同じ金色だった。


「これ……何……」

「それは……」

 鏡に向かって呟く暦に、見舞いにやってきた桜色の髪の少年が答える。

 彼は暦にサクラと名乗った。校内で倒れていた二人を、ここまで運んだのだという。数度話をしたが、ハナブサ同様に穏やかな少年だった。

「多分、君がもう人間じゃない証拠、かな」

 彼は静かに。困ったような顔でそう言った。

「……?」

 困惑する暦に、サクラは「えーっとね」と、どう説明したものかとしばし考える。

「ここはね。生きたまま立ち入る事はできない場所なんだ」

「学校じゃ、ない?」

「学校だよ。学校だけど、似て非なる場所だと思った方がいいかな。例えるなら……此岸と彼岸が重なる場所」

「でも、ハナブサさんは生きてるって……」

「生きてる、って言った?」

 ハッと見上げたサクラの目は穏やかに見えたけど、その視線は薄暗かった。

「……いや。言って、ない……」

 ハナブサは「そう言ってもいい状態」とは言った。生きてるとは、明言していない。


 やっぱり、死んでいる。自分も。姉さんも。


 サクラの視線が、ふわりと和らいだ。

「そう。受け入れがたいかも知れないけど、君たちは二人とも死んでいる。でもさ。君は今こうして立って、俺と話してる」

「……」

「此岸と彼岸が重なる場所。そんな所にこうして居るという事は、そう言う事。心当たり、あるんじゃないかな」

「心当たり……」

 無い、とは言えなかった。


 あの本で埋め尽くされた部屋の中。胸を貫かれた姉は、そのまま動かなくなった。

 当然といえば当然の結果。物理的に身体を貫いたのだ。魂だけを切り裂くなんて、できるはずもない。

 簡単すぎる現実に気付いた時は、もう何もかもが手遅れだった。


「姉さん」

 呼ぶ。答えはない。

「ねえさん……」

 膝をついて、左手で髪をすくう。指に触れた頬は冷たかった。

「……」

 背中に手を当て、姉の身体を起こしてみる。服はぐっしょりと濡れていて、ぼたぼたとまだ温かさを残している液体が手に零れた。

 口から零れている血を歪な右手でぬぐう。黒く歪んだ爪が着物に引っかかった。明かり取りの窓から室内を照らす月明かりが、長いまつげの影を落としている。

 まるで眠ってるかのようだった。なのに身体はこんなにも冷たくて、手を濡らす液体は温かい。命がぼたぼたと零れ落ちていく。

 そんな姉を前に、暦はふと思った。


 いつか見たいと言っていた、桜の木を見せてあげよう。

 全てを終えるなら。こんな薄暗い座敷牢よりも、そっちの方が餞になるような気がした。


 錯乱。現実逃避。なんとでも言えばいい。

 そんなどうでもいいような約束を果たそうとして。影のよう暗くて、黒くて。苦い夜空の下。声を殺して泣きながら、姉の亡骸を抱えて学校へとやってきた。


 そして、季節もすっかりすぎたのに舞い散る桜の木の下で。

「ほら、姉さん。こんな季節なのに桜が咲くんだよ」

 動かない姉を膝に寝かせて桜を見た。


 ひらひらと散る花びらは、何も許してくれないように見えた。

 何を許してもらうのかも分からない。どう許してもらうのかも分からない。

 苛立と罪悪感と喪失感でぐちゃぐちゃになった感情の赴くままに。

 暦もまた、首に短刀を押し当て――。


「うん……そう、だね」

 ぽつりと肯定した言葉とうつむいたその視線が、サクラへの答えだった。

 

 □ ■ □


 それから暦は、姉が眠るベッドの傍らで彼女が目覚めるのをじっと待った。


 あの夜あんなに冷たかった姉の身体は、嘘のように回復していた。保健室のベッドですやすやと眠る彼女は、あの時の苦しみなんてなかったかのように静かだった。

 暦の身体には変化があったが、彼女にはその気配がないように見えた。髪が長く伸びて、栗色に変化したくらいだろうか。


 寝ている間にちょっとだけ前髪をどけてみた。

 閉じていたからよく分からなかったけど、目元は変わらず暦と似ているように見えた。


 こうして隣に座っていると、いろんな事を考える。

 自分は姉にとってどういう弟だったのだろう。

 傷つけてしまった事を謝らないと。

 そういえば、家はどうなったのだろう。

 学校にも行っていない。

 もしかしたら騒ぎになっていたりするのだろうか。


 答えはひとつも出なかったけれど、ひとつ気付いた事があった。

 ふとした拍子に影から姉の息づかいを感じる。

 最初は気のせいだと思っていた。隣で眠る彼女の呼吸なのだと。

 けれども、感じるのは耳に届く呼吸でも、声でもない。内側のどこかから聞こえてくるようなぬくもり。感情。声。そんなものだった。

 双子だからどこかで繋がっているのだろうか。片方が風邪を引けばもう一方も風邪を引くような。例えは強引だけど、そんな。深い所で何かが共有される感覚。

 あの夜、暦の爪は確かに彼女の身体を、中身を貫いた。なのに右腕に残る奇妙な感覚の中に、あの狐とは別の存在を感じる。

 それは、彼女の奥底に在った感情をも掬い上げる。

 和紙に落とした薄墨のように。ぽつりと落ちてきてはじわりと染みを残す。

 そこに、これまで知らなかった、姉の姿が見えてくる。


 本に囲まれ、閉ざされた部屋で泣いた夜。

 弟の重荷になってないかと悩んだこと。

 自由に出歩ける彼を羨んだこと。

 母の、厳しくも怯えるような態度。

 家のために利用される未来。

 机の引き出しに忍ばせていたカミソリや、本棚の裏にしまっていたロープ。

 暦が夢だと思っていた、狐とのやり取りに託された最期の感情。

 

 そんな感情や光景が、影を通して伝わってくる。それを感じる度、自分が酷く無力に思えた。一緒に居たつもりだったのに、何ひとつ見えていなかった。自分は、どれだけ彼女の為に在れたのだろうかと、自問自答を繰り返す。


 同時に、姉を切り裂いた自分の腕を思い出す。

 腕はすっかり元に戻っていたけれど、あの爪の感触は今でもしっかり残っている。

 それが忌々しくて。腕を斬り落としたい衝動に駆られて。

 ずっと、右腕を見ないようにしながら、姉が目覚めるのを待った。


 □ ■ □


「……ん……」

 小さく上がった声に、うとうとしかけていた暦は目を覚ました。

 部屋はすっかり暗く、夜が深い事を教える。 

「姉さん」

 ようやく目を覚ましたと、ほっとしたのも束の間。彼女の返事は、次の言葉をぐっと喉に詰まらせた。

「やあ」

 開口一番、彼女はそう言って弱々しくもにやりと笑った。


 ――違う。姉じゃない。

 直感で理解する。


「君は想定外の結果を出してくれたね。……全く、驚いた」

 ため息をつきながら身体を起こす。

 触れた影から少しだけ、彼女の感情が零れたのを感じた。


 ――君を盾にしたってのにボクを半分も握り潰すなんて、弟君は才能あるねえ。


 「君」とは多分、姉の事だ。

 狐に主導権は握られているけれど、やっぱり姉さんはまだこの中に残っていると悟った。

 とはいえ。暦の感情は複雑だった。


 この目の前に居る少女を姉と見るべきか、仇の狐と見るべきか。分からない。

 姉を奪った事を憎めば良いのか。

 姉が残った事を喜べば良いのか。

 それも分からない。

 そもそも。この状態を招いたのは暦自身。罪悪感ものしかかる。


「おや、何とも言いようのない顔をしているね」

「……」

 姉のようでいてそうじゃない彼女に、どう接したらいいのか分からない。

「ま、君が気にすることはないよ?」

「いや。気に、するだろ……」

「そうかい? だって君の姉は。秋津かよはもう居ない。秋津暦を騙して、利用して、姿を消した。――酷い姉だね」

「姉さんを悪く言うな」

 静かだけれども重い声に、狐は「おっと失礼」と小さく笑った。

「しかし、彼女はもう居ない。存在するのはこの身体のみ」


 嘘だ。


「いや、姉さんは」

「もういないよ」

 狐はきっぱりと言い切った。

「だって君が切り裂いて握り潰したじゃないか。だってボクの力を貸したんだ。人間の魂ごときが耐えられる訳ない」


 けれども。暦には姉の零れるような声が聞こえる。

 それはあまりに微かで、言葉としての形は為さないけれど。

 暦には、確かに聞こえている。


「ま。嘆く暇があるなら憎みたまえよ。少年」

「――」

 狐の言葉の裏に重なるように、確かに姉の声を感じる。


「重ねて言おう。君の姉は死んだ。残ってるのはその残滓、この身体。それだけさ」

「……」

「未練が残るようだね。ならば君が大好きな姉の言葉を伝えよう」

 いいかい少年、良く聞きたまえよ。と、狐は記憶した本を諳んじるように言う。

「暦ちゃんは、ずっと私の為に一緒に居てくれた。本当はやりたい事もあったと思うのにごめんね。それなのに、最後まで振り回しちゃって。良いお姉ちゃんじゃなかったね。私はこのまま死んでしまうことにするわ。これからは私の事なんか気にしないで。忘れて。自分の為に生きて。私じゃなくて、暦ちゃんの為にね」

 だってさ、と彼女は笑う。

「……狐」

「うん?」

「姉さんは……俺に殺して欲しいなんて、言ってないじゃないか」

 おや。と彼女は一瞬考えて「ああ、そうとも取れるな」と笑った。

「ボクには、忘れないで欲しいと聞こえたから応えたまでさ。別に変わりないだろう? むしろ姉弟最後の絆だと思って大事にしたまえよ」

「……っ!」

 思わず彼女の胸元を掴み上げる。が、力がうまく入らず、引き寄せる程度しか叶わない。

 睨み付ける暦に、狐は笑う。

「ふふ……いい目をしてるね。君を喰らえないのは実に惜しい。嗚呼、彼女の力さえなければなあ」

「……」

「ま。いいさ」

 ぺし、と軽く手を払われると、掴んでいた手はあっさりと解けた。

「少年。残念で無念で仕方ないかもしれないが。そのまま抜け殻になってしまうのはもったいない」

「……」

「人間生きるためには目標が必要だというからね。なんか目標を持ちなよ」

「……目標……だって?」

 ぽつりと繰り返す。

 そんなもの、今更新しく持ったってどうすればいいんだと黙る暦を無視して、彼女は「そう、目標さ」と頷いた。

「折角手に入れた第二の人生だ。謳歌しなよ」


 そう言われても、暦には何も見えなかった。

 学友と遊ぶ事もあったし、姉の送迎も自分から引き受けた。自分の好きな事をして生きてきたつもりだった。だから。目標と言われても、これまでの生活から拾い上げられるような物はほとんどなかった。

 たったひとつ、見つけた物があるとすれば。


 目の前のこいつを討取って。姉さんを取り戻す機会を待つ。

 そのくらいしか、浮かばなかった。

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