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夜に出会った狐 2

「姉さん……?」

 何を聞くのかと言いたげな視線に、かよはにこりと笑って、ずるずると動く硬貨を視線で追う。

「だって気になるじゃない。暦ちゃんには素敵なお嫁さんに来てもらって、幸せになってもらいたいもの」


 彼女の言葉と同じように硬貨がぴたりと止まり、また動き出す。

 ランプの灯りに照らされた指の影が揺れる。


 それは、長男として家を継ぐのなら必要なことだ。暦自身もいつかはそうなる日が来るのだろうと、実感は伴わないけれども思っている。思ってるけど。

 わざわざそれを彼女が口にする必要はないはずだ。

 なのに、彼女は何故それを。暦に言い聞かせるように聞くのか?


「そしたら、姉さんは?」

 彼女は暦の不安げな視線に微笑んで「さあねえ」と返した。

「私はきっとこの家から出られないでしょう?」

「……」


 硬貨はずるずると動き「い」で止まった。

「きっと母様が出してくれないわ。この家の幸せの為に私はここに居る。だから、暦ちゃんの不幸もぜーんぶもらっちゃう。それができたら、私は――」

 それが自分の幸せだと言うように、彼女は笑って見せる。


 その笑顔は、なんだか仮面のように張り付いて見えた。

 本当の姉の心は違うところにあるのだと、暦なら分かる。

 全てを隠して笑うそれは、諦めきった顔だ。きっと彼女は見届ける気がないのでは。

 だから、自分の事を切り捨てて現実を見ろと言いたいのか?

 暦が思ったその時。

 

 ぱちん!


 小さな音と共に、硬貨が跳ねた。

「きゃっ」

「っ!」

 同時に二人の指が離れると、硬貨はそのままくるくると紙の上で跳ね、転がり。鳥居の印でぴたりと止まった。

「びっくりした……なんだったのかな……」

「さあ……」


 二人で硬貨を見つめる。

 こっくりさんは途中で指を離してはいけない。そんな決まり事があったはずだ。

 正しい手順を踏まなくてはならないと、かよは言っていた。

 ならば、今一度指を乗せるべきだろう。


 そう判断した暦が、動かない硬貨に指をのばす。

 瞬間。

 ずるり。と硬貨の下で黒い影が蠢いたのが見えた。


「!?」

 思わず手を引く。が、影はその指を追うように勢いよく伸びる。

 どうしようもない。なす術がない。閉じることを忘れた視界で、影は大きく広がり、腕を絡めとろうと伸び――。

「暦ちゃん!」 

 かよの声に弾かれるように、影は暦の肌に触れる直前でぴたりと止まった。

 何が起きたのか分からない。影は暦に触れる直前で止まっている。ほっと息を吐くより先に、黒い影は急に向きを変えて姉へと襲いかかった。

 止める間などない。声よりも早く、影は姉に絡みつく。髪に。首に。手足に。振り払おうと身をよじった彼女を、勢いよく床へ縫い付ける。

「姉さん!」

「……っ!」

 それを少しでも引きはがそうと駆け寄ったが、何もできない。絡まった影は暦の手をすり抜けて掴めない。触れられない。引きはがす事もできない。それなのに影は、姉の白い肌に痣となって刻まれていく。

 空気を求めて喘ぐかよに、暦はただ叫ぶしかない。

「姉さん……っ、ねえ、さん……! まって、誰か呼んで」

「だ――、め」

 その言葉は、吐息混じりの声で封じられた。

 彼女はふるふると首を横に振っている。目に溜まった雫が溢れる。髪のリボンが解けて、彼女の顔を覆い隠し――。

 気配が一変した。


 大きく見開いた彼女の瞳が、金色に輝く。

 薄暗い部屋の中でも分かるほど、鮮やかに。


 その目に気を取られた瞬間、暦の喉めがけて勢い良く腕が伸びる。

「――!?」

 避けられない。

 その手は暦の首を掴み、勢いよく床へ叩き付ける。

 倒れた拍子に頭を強くぶつけた鈍い音が響く。近くの棚から、積んであった本がばさばさと落ちてくる。痛みより先に意識がぐらぐらと揺れた。目が回る。


 そんな眩む視界の中で、最後に見た姉は。

 どんな表情をしていたのか分からなかった。


 □ ■ □


 暦は、気付いたら暗闇に座り込んでいた。

「……ねえ、さん?」

 返事はない。反響もない。影は。分からない。目が慣れてないのか真っ暗だ。見下ろした掌だけが、薄ぼんやりと見えた。

 頭がくらくらする。

 そのまま床に伏せたくなるような目眩を堪えていると、声がした。

 

 振り返ることはできない。

 何故か、そういうことを考えられなかった。

 ただ、後ろで交わされている声を聞く。


「あなたは?」

「さあね。何だと思うかい?」

「そうね……狐かしら?」

「ふふ。ご名答だ。ボクは君達が喚びだした狐だ。話をするにはちょっと不便だから、君の一部を借りることにしたけどね」


 どちらも姉さんの声だ。

 片方は消えそうなほど落ち着いていて、もう片方は底抜けに明るくて。

 まるで、今と昔の姉さんが喋っているように聞こえた。


「しかし君は……随分と変わった体質だな。澱んでる」

「ふふ……そうかもね」

「それから此処は一体何だい。嗚呼、息が詰まりそうだ」

「私の部屋よ。書庫だったの」

 私もちょっと怖い時があるわ。と静かな声に。

 そうか、と頷く声がした。 

「しかし……これは想定外だ。まさか君の方に引きずられるなんてな」

 君、何かしたのかい? と狐は問う。

 何もしてないわ、と姉は言う。

「そんな訳あるものか」

「ふふ。体質なの。……あなたは暦にとって良くないものだったのかも」

 そりゃそうだ、と笑う声がした。とても軽く、ころころと転がるような声だ。

「こっくりさんで喚ばれて、大人しく帰る訳がないだろう? 大した力もない素人が面白半分でやるなら尚更、恰好の餌だよ。折角だから喰って荒らして器にして。骨の髄まで使って遊ぶ心算だったさ。それが蓋を開けてみればこれだ……」

「そう。それなら私で良かった」


 そうしてぼそぼそと会話は続く。

 話の中身は、ほとんど聞き取れなかった。

 ただ、姉さんの口数が少なくなってきて。

 そのまま消えそうだという事だけが、足下からじわじわと伝わってくる。

 

「――ボクが言うのもなんだが。君は今にも死にそうだな」

 ふと。声が明瞭に聞こえてきた。

「そうね」

 姉さんはあっさりと頷いた。

「死にそうというか、死にたがってるな?」

「さあ」

 どうかしら。という姉さんのはぐらかすような声に、狐は「ふむ」と何かを考えあぐねているようだった。

「うーん。これは困ったね」

 狐は何ひとつ困ってないような声で言う。

「ボクはね。死にたい人間を死なせてあげるほど優しい生き物じゃないんだ。むしろそう言う人間ほど生かしてみたくなる」

「あら、天邪鬼なのね」

「みたくなるだけだよ。まあ、君が心配する事はない。ボクはこの家が気に入った」

「気に入ったの?」

「ああ。君のようなモノを作れるなんて、吐き気がする。遊び尽くして潰すに丁度いい」

「……それは、暦も。弟も巻き込むのかしら?」

 その言葉は狐にとって心外だったらしい。「そんな言い方しないでおくれよ」と口を尖らせたような声がした。

「こっくりさんをしようなんて言って、最初に巻き込んだのは君だろう?」

 少々沈黙の後、ぽつりと落ちたのは「ああ、そうね」という溜息のような声だった。

「なに、気にする事はない。君がこれ迄やりたかった事、できなかった事、ちゃーんとやってあげるよ。君も楽しむといい」

「でも、私は死ぬのでしょう?」

「ん? ああ、そうだね」

 狐はあっさりと頷く。

「そうしたら私の身体はあなたの物。そうでしょう?」

「そうだね。君はもうボクに喰われるしかない。折角の餌だからね。そこはどうしようもないんだが――そうだな、せめてもの駄賃だ。何か伝えておきたい事があったら聞いておくよ」


 姉さんの返事は聞こえなかった。

 けれども、狐は楽しそうにくつくつと笑った。


「ほうほうそれは。まあ、うん。分かった。……そんな顔しないでおくれよ。君は心底嫌ってるこの家から解放されるんだから。うん。そうそう。笑ってる方がいい。それじゃ、後はボクに任せたまえ」


 □ ■ □


 目を開けると、本棚が僕を見下ろしていた。

「目、覚めたかい?」

「うん……」

 身体を起こしながら、さっきの会話は夢だったんだろうかと考える。けれども。その希望は次の言葉で打ち崩された。

「うんうん。ならばまずは自己紹介をしよう。ボクは君たちが呼び出した狐。名前は無い。以上。それで、少年」

 呼ばれて、ぼやけていた意識がはっと戻ってきた。


 目の前に姉さんが座っていた。隣のちゃぶ台には、先程遊んだ紙と硬貨がそのままある。解けたリボンも置いてあった。

 彼女の髪はずるりと長く伸びていた。背中で揺れていた毛先は床に散らばり、前髪は目を覆い隠して肩へと流れている。なんとか見える口元は、弧を描くように笑っていた。


「ボクが君の姉じゃない事はもう分かっているだろう?」

「……」


 声が出なかった。

 頷きたくなかった。


 声も、言葉遣いも、姉さんだ。なのに、姉さんじゃないと。違うと言う。

 いや。それは僕も分かっていた。だって、姉さんはもう「ボク」なんて言わない。こんな喋り方はしない。……少しくらいはして欲しかったけど、もうしない。薄々気付いてた。

 分かってるけど。認めたくなかっただけだ。

 けれども姉さんは。いや、この狐は。僕が目を背けていた事をあっさり突きつけてきた。

 

「うん。その顔で答えは十分さ。その上で、だ。少年。少し相談しよう」

「……?」

「今この身体の中にはね、二つの魂があるんだ」

 狐は明るい声で机の上にあった硬貨を拾い上げる。

「今はなんとか保っているが、この状態はそう長く続かない。まあ、それは近いうちにボクが喰らってしまうからなんだけれども」

 硬貨が小さな音を立てて弾かれる。くるくると回って落ちてきた所をぱしん、と掴む。

「ボクとしてはさ。君も含めて全て喰らいたいんだが。彼女、君だけは助けてやってくれ、って言うんだ。と、言う訳で少年。彼女の最期の望みは叶えてあげることにした。選択は君に委ねよう」


 ひとつ。と硬貨を弾く。

「ボクの力と牙を君に貸してあげる。君はそれを以て姉を殺す」

 ふたつ。と硬貨を弾く。

「ボクは君を見逃して、普通通りの生活に戻る。ボクは彼女を遠慮無く喰らう」


 今日はいい天気だ、みたいな口調で突きつけられた二択に、僕は答えられなかった。

「まあ……どちらにしろ彼女は帰ってこないな。前者だとボクが食事にありつけないってだけさ。ああ。この身体はもうボクの物だから心配要らないよ」

「……それ……姉さんが、かよが言ったの?」

 やっと出た言葉に、狐は「そうさ」と頷く。

「どうせ死ぬのだからって言っていたよ。いやしかし、君の姉さんは随分と無茶な頼みをしてくれるな」

「…………」

 狐の言葉が耳に入らなかった。


 姉さんを殺すなんて選べなかった。選びたくなかった。

 けれども。

 もしこの言葉が本当なら。

 もう二度と姉さんに会えないのなら。

 誰かに奪われてしまうと言うのなら。

 決断は、早かった。


「――た」

「ん?」

「分かった、って言ったの」


 僕は、些細な約束ひとつ守れなかった駄目な弟だ。

 でも、そんな弟に託す最期の願いだというのなら、僕は叶えてあげたい。

 

 それから。これは僕の我が儘だけど。

 姉さんには自由になって欲しかった。

 それは、部外者の手で為されていいものじゃない。

 その命を勝手に捨てるなんてことも許さない。

 姉さんには、姉さんの好きな道を歩んでほしいんだ。

 その為の手伝いならいくらだってするから。

 これまで出来なかった分、頑張るから。


 姉さんじゃなくて、お前を消し去ってやる。


 だから。と、暦はぐっと手を伸ばした。

「力を寄越せ」

「ほう……本気かい?」

「勿論」

 そんな暦を見て、彼女は楽しそうに口の端をつり上げる。

 暦はその表情をまっすぐ受け止める。

「ふ。ふふ――あは、あははははは! 君は本当に姉さんが好きなんだね!」

「たったひとりの姉だ。悪い?」

「いいや、ちっとも悪くない。むしろ、そうだな。うん。君の抱えるその感情、嫌いじゃないよ」

 おいしそうな獲物を目の前にしたような口元でひとしきり笑った狐は「それじゃあ」と硬貨を弾く。

「君にボクの力と牙を貸してあげる。猶予は朝まで。心の準備ができたらいつでもおいで」

「そんな猶予、要らない」

「ほう。ならば今すぐにでも殺るかい?」

 頷くと彼女は楽しそうに笑って、硬貨をこちらへ弾いてきた。


 小さな硬貨。

 それを受け取った瞬間、手にぐっと重みを感じた。

 内側で黒い何かが這い回る感覚に意識を落としそうになる。


 酷くドロドロした。影と夜をかき混ぜて固めたような。酷く熱くて、不快な力。

 同時に、姉さんがこれまで抱えてきた様々な感情も流れ込む。

 明るい感情だけではない、同じように黒くてどろりとしたものもある。

 いつも笑ってた姉さんがこんな感情を秘めていた、という衝撃が頭を殴りつける。

 頭がぐらぐらする。吐き気がする。気を抜けばすぐにでも意識を奪われそうになるのを、唇を噛んでこらえる。がり、という音と、血の味がした。

 

 そんなの痛みに入らない。

 入らない。

 入れてなるものか。

 姉の気持ちに気付かなかった自分の愚かさが。姉を失う痛みの方が。ずっと。重い。


「……へえ。自我を保つとはやるねえ」

 目の前に立つ彼女の口元が、楽しげな形になる。

 そんな彼女を一瞥して、暦は動いた。

 身体は驚くほど軽かった。


 三歩でも余るほどの距離を一気に詰める。呼吸を止めて、彼女の腕を掴む。右手を――人のものと言うにはあまりに大きく、歪で鋭いそれで胸を貫く。

 生暖かい何かを切り裂く感触がする。身体を貫通しているはずなのに、外気は感じられない。深い沼を掻き回すような感覚。

 爪が何かに当たった。薄い飴を削るような、小さな小さな音を感じた。

 

 この先だ、と直感が告げる。

 この奥にあるものが、こいつの魂だ。

 手を伸ばす。そこにあった硬い何かに爪を引っかけ、掴み、握り潰す。感触はなかったが、先程よりいくらか硬い音がした。


 頬がなんだか熱い。涙か血か分からないが、暖かい何かで頬が触れている。

 息が詰まっている。泣いてるのか、叫んでるのかすら分からなかった。

 胸の辺りが酷く苦しい。

 切り裂かれた彼女の髪の隙間から、金色の瞳が覗く。少しだけ意外そうな色をしたそれは、暦がここまで自我を保ち、力を振るった事に対する驚きのようだったが、その目はすぐに色を無くし、床に崩れ落ちた。


 崩れる姉の身体を抱き寄せて。暦の口が動く。

「姉さん――俺、頑張るからさ……」

 その後になんと呟いたのかすら覚えていない。

 意識はそこでぷつりと途切れるように終わる。


 こうして、秋津暦はこの夜。

 人であることを捨てた。

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