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夜に出会った狐 1

 秋津暦が人間を捨てた夜の空は。

 影のように暗くて。黒くて。噎せ返るような苦さだった。 


 時は大正。

 街をガス灯が照らし、煉瓦作りの建物が造られ。人々は髷を落として洋服に袖を通し、横文字の食べ物に心をときめかせる。

 鎖国と呼ばれた貿易交流の制限状態から一転、異国の文化を大いに取り入れて花開いた時代のこと。


 秋津家は古くから続く家柄であったが、父親が事業で成功し、一代でさらなる財を築き上げた家だった。

 そんな家の長男、暦には日課があった。

 離れと呼ばれる蔵に住む双子の姉、かよの送迎。

 朝と夕方に学校へ送り迎えをする。

 それだけだけど、彼にとっては大事な日課だった。


 母はこの時代にしては珍しく、子供に対して教育熱心であった。しかし、姉を外へ出す事だけは前向きではなかった。とはいえ、小学校を卒業した二人を高等学校へ通わせておきたいという父の意見に逆らう事はできなかったから、ひとつだけ条件を出した。

「あの子は我が家の花よ。だから大事に育てなくてはなりません。家での教育は私がやります。それ以外。外に出る際は家の誰かが付き添う。それならば認めます」

 

 暦とかよ、二人の前で出された条件が、両親の妥協点となった。

 ひとつ上の学校に通うことになる二人の部屋を分ける。そんな名目で蔵をひとつ改装し、離れとして使うことまで、とんとんと決まっていった。


 かよは「それでいいわ」と言っていたけれど。暦から見れば、それは体のいい監視と幽閉に見えた。だから、付き添いの役割は自分から引き受けた。

 多少だけれど。僅かかもしれないけれど。姉の自由な時間を作れたら。

 その一心だった。


 姉のかよは、幼い頃から人一倍活発で、好奇心旺盛で。暦の口調を真似ては彼を外へと引っ張り回す元気な少女だった。

 ただ、少々変わった体質でもあった。


 誰かと遊べば、人一倍傷を負う。

 家の誰かが体調を崩せば、代わりのように病に伏せる。

 最初のうちはお転婆が過ぎるとか、病弱だとか言われていたが。家人は次第に、そうではないと気付き始めた。

 彼女の怪我や病気のほとんどは「本来なら別の誰かが負うべきもの」だった。

 自分の意志に関わらず、人の厄を己の身に引き寄せるという、妙な体質。それで周囲に何かが起きる事はないけれど、彼女自身が傷を負ったり病に倒れたりする事が多かった。

 母はそれを恐れたのだ。

 その体質を恐れたのか、それによって彼女を失う事を恐れたのか。それは分からないが。

 家の書庫になっていた蔵を彼女の部屋とすることで。誰かに送迎をさせることで。家と学校以外の自由を与えず、彼女と人との関わりをも極力断とうとした。


「姉さん」

「なあに?」

「……本当に、いいの?」

 部屋を移動する日。

 一緒に使っていた部屋で片付けをする姉の背中に、暦は思わず問いかけた。


 蔵を部屋にするなんて。学校と家以外に自由が無いなんて。座敷牢より少しマシなだけじゃないのか。暦のそんなもやもやとした気持ちに、かよはにこやかに笑い返してきた。

「うん。ボクは本好きだから大丈夫。それに、家の中では好きにして良いんだ。暦ちゃんが心配する事ないよ」


 かよは笑っていたが、暦は彼女の使った「ボク」が引っかかっていた。

 それは、彼女が昔よく使っていた一人称だ。「私」を使うようになった彼女が「ボク」と言うのは、暦をからかう時が多かったが、何かを誤魔化す時に使っている事にも気付いていた。無意識なのかもしれないが、使われたそれについて暦が何か言うよりも先に、彼女は「それよりごめんね」と言ってきた。

「何が?」

「ん。その。送り迎えなんて、大変な事任せちゃってさ」

「ううん。それは僕が自分から引き受けた事だから」

 彼女は片付けながら「そっか」と頷いた。

「ありがとう。暦ちゃんは頼りになるね」


 暦は何も答えられなかった。

 双子なのにどうしてこうも違う扱いになるのか。自分は何も出来ないのか。この処遇について、父親に言っても何ひとつ変わらなかった。ただ、自分が無力だと思い知らされただけだった。

 それを誰にもぶつける事が出来ないまま、姉は新しい部屋へと移動していった。

 

 □ ■ □


 日々は穏やかに穏やかにすぎていった。

 朝。庭で軽く身体を動かしてる暦をかよが呼びにくる。共に食事をし、暦が学校の近くまで送り届け。夕方になると迎えを約束した時間まで教室で課題や読書をして待っている。

 学校まで迎えにいくと他の生徒達から注目を浴びてしまうから、少し離れた所で待ち合わせするのが常だった。


 帰り道は二人でいろんな話をした。

 姉は書庫に置いてあった本を読み続けているらしく、その話をよくしてくれた。そして、暦が学校や外で過ごした話を聞きたがった。

 学校での出来事。第三校舎と呼ばれる学び舎の裏に在る桜の木とか、学校近くに居る雨に濡れた少年とか、そんな数ある噂。学友とのやりとりや愚痴。新しく出る本。

 姉は、暦のそんな話をうんうんと聞き、笑い、興味を持ち、時には一緒に怒ったりしてくれた。


 桜を見に行こうとか、本屋に行こうとか。ささやかだけど約束もいくつかした。

 それが叶うとは思ってなかったし、自分にできるのは約束だけなのかと、酷く虚しくなる事もあったけれども。

 かよは「今日は何を話してくれるの?」と嬉しそうに尋ねてくるから。いつかは叶うかもしれないから。

 暦は話を、約束をし続けた。


「そうだ。たまにはあんみつとか、食べに行く?」

 時々、姉の好きそうな事に誘ってみるが、彼女は小さく首を横に振って暦を見上げる。

「ううん。早く帰らないと母様が心配するでしょ」

 

 高等小学校に入って二年あまり。

 かよは一見どこにでも居る女学生に育っていた。肩でそろえてあった黒髪は伸び、今ではリボンでひとつにまとめている。

 暦も同様に成長していた。詰め襟に短く刈った髪。背も多少ではあるが伸びた。双子なのに、いつの間にか暦がかよを少し見下ろすだけの身長差が出始めていた。

 それでも二人の目元は似たままで。暦にはそれが少し嬉しかった。

 

「それに、暦は甘いものあんまり好きじゃないでしょ? 私の為に無理しなくていいのよ」

「そう……」

 活発で、好奇心旺盛で、付いていくのがやっとだった姉は、すっかり大人しくなっていた。二人きりの時にしか「暦ちゃん」と呼ばなくなったし、あの一人称も使わなくなった。

 けど、あの体質は変わらない。相変わらず誰かが負うべき傷が絶えなくて、誰かが咳き込み始めると代わりのように臥せっている。

 変わらないのに変わっていく彼女は、全てを諦めているように思えた。いつか消えてしまうのではないか、自身を殺してしまうのではないか。そう思えてしまうほど、大人しく、儚く、静かな人になっているように見えた。


 そんなある日。

 待ち合わせ場所にやってきたかよは、いつもより少し機嫌が良さそうに見えた。

「なんか機嫌良さそうだね。どうしたの?」

「ふふ。暦には隠せないね」

 どこか照れたように笑った彼女は、あのね、と言葉を続ける。

「この間読んでいた本になんだか面白そうなのを見つけちゃって」

「へえ、どんなの?」

「こっくりさんっていうの」

「こっくりさん」

 その言葉を繰り返すと、姉はうんうんと嬉しそうに頷いた。

 こっくりさんといえば、校内にも噂があった気がする。もっと違う名前だったような気もするが、暦は完全に聞き流していたから内容は覚えていなかった。

 

「海外から入ってきた物らしいんだけど。色んな質問に答えてくれるんだって」

「へえ」

 そんなのだったっけ、と思っていると「それで」と彼女の瞳が夕日を弾いた。

「やってみたいと思って、準備がもうちょっとなの」

「なるほど。それが楽しみなんだ」

 彼女はうん、と頷く。


 暦は正直、怪談やオカルトと言った話はあまり信じていなかった。

 確かに小さい頃は怯えて笑われたたりしたが、もう子供と言う年でもない。けれども。姉が嬉しそうに話すのを久しぶりに見たものだから。

 一緒にやってみたい、と。そんな気持ちになった。


「それ、僕もできる?」

 暦の申し出に彼女はぱちり、と瞬きをして。うん、と嬉しそうに頷いた。 

「元々複数人でするものらしいから。できたら一緒にやってほしいってお願いしようと思ってたところよ」

 そう言う姉の表情は、昔と変わらない好奇心に溢れた目だった。

 その顔を見るのも、姉が頼み事をしてくるのも久しぶりで。暦はこくりと頷いた。

「ん。もちろん」


 □ ■ □


 それはみんなが寝静まった後に実行された。

 暦がそっと姉の部屋の戸をノックすると、すぐに戸は開かれた。


「暦ちゃん。別にノックなんてしなくても良いのに」

「いや。それはさすがに」

 姉弟とはいえ女性の部屋。少しは気を使わなくてはいけないと暦が言うと、かよは「暦ちゃんは紳士だね」と笑った。

「準備はもうできてるの。さ。入って」

 そう言って招き入れられた部屋を見て、暦は思わず言葉を失った。


 部屋の壁は本棚でできていた。

 その中にはぎっしりと本が詰まっていた。そうじゃない所はほとんどなかった。

 棚と天井の間にも、本が雑に詰め込まれている。階段にも荷物が積まれている。たったひとつの窓近くにある、生活空間と思しき場所だけが片付けられていた。

 本棚で作られた壁と最低限の家具しかない。そんな、物量に圧倒されそうな、酷く重苦しい部屋だった。


 片付いてなくてごめんねと言いながら、かよは暦に座布団を勧めた。

 言われるまま用意された座布団に腰を落ち着けると、小さなちゃぶ台には文字や数字の書かれた紙があった。

「それで、持ってくるのってこれで良かったの?」

 と、暦が取り出したのは一枚の銅貨。かよはそれを眺めて嬉しそうに頷く。

「うん。ありがとう。これで全部揃ったよ」

 受け取ったそれを、ぱちん、と紙の上描かれた鳥居の上に置く。

「ええと。これにね、指を置くの」

 かよは暦に手順を説明する。

 頷きながら暦は硬貨に指を乗せた。残った半分の場所に、かよの指もそっと乗せられる。

「それじゃあ、はじめよう。指、離しちゃダメだよ」

 暦もこくりと頷いて、先ほど姉に教わった言葉を口にする。


「こっくりさんこっくりさん、おいでください」


 お約束の、最初の言葉。

 けれども、二人の指が乗った硬貨は静かだった。

 何も起こらない。そういうものだろう、と思ったその時――硬貨が動いた。

「うわ……」

「ふふ……暦ちゃん、びっくりしてる」

 突然の事に慌てかけた暦を、かよは笑う。

 少しだけ口を尖らせる暦に、彼女は「ほら、質問してみよう?」と楽しそうに笑った。


 質問は他愛のないものだった。

 明日の天気とか、今読んでる本の事とか、明日の味噌汁の具材とか。

 硬貨はゆっくりと。けれども確実にそれらに答えていった。合ってるかどうかはその時にならないと分からないけれど。答えのひとつひとつに二人で笑い、顔を見合わせ、時には苦い顔をした。


 そして。

「私は暦ちゃんを、幸せにできますか?」

 姉はふと、そんな質問を口にした。

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