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雨蛇の夢現 前編

 この学校がある町は、少しばかり雨が多い。

 地形によるものだとかなんとか。そういう資料もあるが。

 ここはひとつ、昔話をしよう。


 とある村に一匹の蛇が居た。

 普段は眠っている蛇だが、起きると雨を呼び、虹が架かると眠りにつく。

 村人はいつしかその蛇を「虹蛇」と呼ぶようになり、井戸の傍らに祀った。

 日照りが続くと、人々はその蛇を起こすべく儀式を行い、目を覚ました蛇が雨を降らす。

 そうしてこの土地は雨の恵みを得てきたのだという。


 その蛇の祠と言われるものは、今でも存在する。

 学校の敷地でも端の方。すっかり枯れてしまった井戸の横に、古い石造りの小さな祠が残っている。

 

 もちろん中には何もない。誰も居ない。

 だって、昔話なのだから。

 でも。この地域は雨が少しばかり多い。

 それは、昔話の蛇が目を覚ますからだという。


 例えば春。

 入学式。新学期。新しい生活の始まりに心浮かれる者は多い。部活動は生徒の勧誘に精を出す。続けて体育祭。練習から本番にかけて、騒がしさは一層増す。

 そうすると、梅雨が始まる。


 例えば秋。

 夏休みが終わり、生徒達が学び舎に戻ってくる。夏の思い出を語り合い、なんてことのない再会を喜ぶ。続けて文化祭。数日かけて行われるその祭りは、本番も騒がしければ準備も騒がしい。

 そうすると、少しだけ長い雨の時期が来る。


 それは、学校の騒がしさが蛇を起こすからだと、生徒達は噂する。


 □ ■ □

 

 その噂の主である蛇は今、自室の文机に伏していた。

 白く長い髪は、肩に掛けられた着物へ無造作に流れ、繰り返される規則正しい呼吸で時折さらりと机の上へ零れる。

 髪同様に白く長いまつげは閉じられている。

 すやすやと眠るまつげを窓から入り込む湿気った空気が撫でる。

 雨が近付いている。

 雨が降りだす直前の匂いを運ぶ風が、彼女の髪を少しだけ揺らした。

 その湿気と匂いは、彼女のかつての記憶を撫でるように呼び起こす。


 □ ■ □


 その日は重く垂れ込めた雲と、今にも降り出しそうな雨の気配があった。

 

「今日も曇ってるなあ」

 ジャノメは窓から外を見ていた。茶色がかった赤い瞳が、重い空を映している。

 彼は元々、外のバス停に佇む幽霊だった。赤い交差点に照らされるずぶ濡れの少年とか、バス停の蛇の目傘とか。そう呼ばれていた。

 校舎の改築工事計画に先立って、敷地の拡張とバス停の移動が行われた。バス停が移動したことで、彼も学校の敷地内へとやってきた。

 自分の名前を忘れてしまっていた少年は、唯一の持ち物だった傘から「ジャノメ」と名乗るようになり。今はこうして校内で過ごしている。

 まだやってきて日が浅く、雨が降ったら傘をさして外に出る以外は、理科室に居る事が多い。


 そんなジャノメはトレーナーの上に学ランを羽織って、雨を零しそうでなかなか落ちてこない雲を眺めていた。

 

「ジャノメ君は雨、好きなのかい?」

 通りかかったハナの問いに、ジャノメはうーんと空を見上げ、軽く首を傾ける。

「前はあんまり好きじゃなかったけど。今は好きかな。あの傘気に入ってるから、使えたら嬉しい」

「なるほどねえ」

 見てる方も口元が緩みそうな笑顔のジャノメに、ハナはうんうんと頷く。

「ならば、早く降るといいね」

「うん。早く降るといいな」

 

 □ ■ 

 

 蛇は物音で目を覚ました。

 しゅるりと鱗が滑る音がする。

 薄暗い空間に、しゅー、と独特の呼吸音が響く。

 

 最近、校舎の改築だかなんだか知らないが、とんかんがちゃどんと騒がしい。

 騒音の対策はある程度されているらしいが、それだけが騒がしく感じる要因ではない。学校に不慣れな人間の気配が多い。それもまた、空気を乱す。

 おかげで目を覚ます頻度が増え、雨を降らせる力の抑制と眠気との戦いが辛い。

 何事にも適量というものがある。目が覚める度に雨を降らせては、人間の迷惑になるから耐えねばならない。


 だが、今日も目が覚めた。


「もう、何日目か……」

 尻尾の先で祠の扉を少し開けて、外を眺める。

 ここから見えるのは古びた木造の校舎のみで、音は響けど現場は見えない。

「はあ……やかましい……」

 足場を組み立てたり、壁を壊したり。音が立つのは仕方ない事とはいえ、こうもやかましいと寝不足で苛立ちが募る。そんなイライラうとうととした日々を過ごしているから、雨の時期でもないのに空には重い雲が立ちこめている。雨は降りそうで降らない。

 降らせる気すら起きないのに、雨の気配だけはそこに留まっている。

 そんなぐずついた空を見上げて、溜息をつく。


 少しでも降らせれば気が晴れるじゃろうか。

 それともこのまま眠って耐え忍び、雲が流れていくのを待つのが良いじゃろうか。

「……面倒じゃな」

 祠の扉を閉めた。

 

 工事が終われば解放されるのだ。ならば邪魔はしないに限る。

 何百年と過ごしてきた蛇にとって、きっと工事の期間などあっという間に違いない。そう考えて奥で丸くなる。

 祠の戸をしっかりと閉じて、できる限り奥で眠ってしまえば音も聞こえまい。

 そう思ったが、工事の音は思いの外大きい。よく分からない金属音、ぶつかる音、崩れる振動。

 祠の奥にも容赦なく響いてくる。寝具に潜っても振動が伝わってくる。

「……」

 これでは眠ることすらできんではないか。

 蛇は重い身体を引きずり、祠の戸へもう一度尻尾を引っ掛ける。

 そっと押し開けると、外は相変わらず水気を含んだ空気と重く垂れ込めた雲があった。


 ――眠れないのならいっそ、音の原因でも見てみようか?


 ふと。そんなことを思った。

 こんなに物音を立てるのだ。それなりに理由があるのじゃろう。

 この建物が。学び舎が変わろうとしているのは知っていた。

 どのようにして変わるのかを一度でも目にしておけば、多少は気も紛れるじゃろう。

 なんとなく。ただなんとなく。

 これまで一度だって考えたこともないのに、そう思い立った蛇は祠の外へ出た。


 □ ■ □

 

「ほう、これが……」

 蛇は、校庭の片隅にある木の枝に登り、声を零した。

 校舎の解体工事を進めるための足場や重機、動き回る人々の姿がそこにあった。

 見知った校舎が、まるでアリに食われる菓子のように丁寧に砕かれ、崩されている。

 古きモノが補強されたり新しく作り替えられるのは必要なこと。これだけの建物となれば、人手も音もそれは多かろう。

「なるほど、これほど大掛かりならば音も仕方ない……」

 

――本当に?

 

 溜息をついた瞬間、耳元にふっと気配を感じた。

 振り返ってみたが何もない。そもそも木の上、枝の上。蛇一匹がいるそこに誰かがやってきたならば、もっと前から物音や気配を感じるはずだ。

「……」

 じっ、と木の影の一点を見つめる。

 うっすらとした気配がそこにあった。

「そこに居るのは何奴じゃ」

 

 答えはない。誰も居ないのかと思う程に気配もない。

 だが。誰か居るのは確かだ。

 さっきの声が、その証。

 

「ワシに言いたいことがあるのじゃろう?」

 言うてみや、と問う。

 返事はない。

 答える気はなしか、と視線を校舎に戻そうとした時。


 ――本当に?

 聞いてくれる? と声がした。

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