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答えは「はい」か「Yes」だけ 後編

 「――う」

 頭が酷く痛い。

 目眩がする。そのせいなのか吐き気もある。

 目をぎゅっと瞑って頭痛を逃がし、なんとか目を開ける。


「目、覚めたか?」

「……?」

 その視界には、覗き込む人影があった。

 上から下まで影のように黒い。帽子を被っている。獣のような耳が……いや、髪か。髪が大きく跳ねているようだ。顔は逆光で見えない。声からして少年だろうか。よく見ようと思ったけれど輪郭がぼやけている。

 ああ、眼鏡が無い。

「……眼鏡」

「ん?」

「眼鏡、ある……?」

「ああ……」

 少年はきょろきょろと辺りを見回して「あれかな」と拾ってきてくれた。

 受け取った眼鏡はひどく汚れていたし、ヒビも入っていた。袖で汚れを拭ってかけ直すと、霞んではいるものの視界はいくらかマシになった。

 改めて少年を見る。

 背は低い。小学生……いや、学ランだから中学生か。学帽に赤い紐飾り。跳ねた髪。前髪の隙間から見える目は金色に光ってるように見えた。

「ああ……ありがとう」

「気にしないで。それよりも」

 質問に答えてくれるか? と黒ずくめの少年は言った。

「いいけど」

 どうも、とうなずいて投げられた彼の問いは簡単なものだった。

「お前、なんで飛び降りた?」

「え……飛び、降りた?」


 飛び降りた? ええと、そうだっけ。

 思い出そうとするとずきりと頭が痛んだ。押さえた手に、何かが固まってこびりついたような感触があった。

 ぐっと引っ張ってみたけれど、それは髪の毛をがっちりと固めていて、手櫛ではどうにもならない。諦めて手を離すと、ぱらぱらとした黒い粉がごっそりと付いていた。湿気っているのか、鉄のような匂いがする。


「飛び降りた……そっか、飛び降りたんだ。ああ、これってもしかして」

 血なのかな、と手に付いた粉を払う。黒いと思った塊は、手の平で赤黒い汚れになった。

「君……ええと」

「ああ、ヤミでいい」

 少年は疑問の意図を察してヤミと名乗った。

「ヤミくん。オレ、頭打ってた?」

「直接見た訳じゃないから分かんないけど、その血の量だと打ったってレベルじゃないだろうな」

 草を噛んだような苦々しい声で、彼は予想を述べる。

 自分がどんな状況なのか分からないけど、とりあえず酷い状態だったんだろうな、と他人事のように思った。

「それにしても、冷静だね」

 ヤミはなんだか不思議そうだ。

「え……そう、かな。なんか実感なくて」

「そう……」

 曖昧に頷き、それで、とヤミくんは問いかける。

「どうして飛び降りたんだ?」

「……うーん……わかんないけど。なんとなく、かなあ」

「はあ?」

 それは、驚きよりも不快感が混じった声だった。

「いや、心当たりがないんだ。実のところ、朝まで死ぬ気なんてなかったし……なんか、急に。将来とか見えなくなって。こう……ふらっと?」

「……」

 ヤミくんは口を固く結んで眉間にシワを寄せ、それをほぐすようにため息をついた。

「……そうか。それじゃあ、あともうひとつ」

「うん」

「ちょっと変な質問かもしれないけどさ。何か噂話とか、怪談話とか、そういうのに関わったことは?」

「怪談……?」

 ないと思う、と首を振る。

「オレ、ずっと土いじりばっかりだったかんなあ。そう言うのとは無縁だったけど――あ」

「?」

「でも、不思議なことならあったかも」

「ほう?」

 金色の目が興味深そうに光った。彼の雰囲気が、急に刃物のように鋭くなる。

「何があった?」

「声がした気がするんだ」

 声。とヤミくんが繰り返す。

 声。と頷く。

「よく覚えてないけど、ちょっとね。突然不安になって。そしたら「こっちに答えがある」って「飛び込む?」みたいな」

「それで、お前はなんて答えた……ってのは愚問か」

 是を返したからこそ、飛び降りたんだと彼は悟ったようだった。

「夢かもしれないけど」

「いや、それは。うん。しかし……声か」

「この話、なんか役に立つ?」

「いや……どうだろう……そこは聞いてみないとなんとも」

 そう、と答えると、ヤミくんはこくりと頷いた。

「とりあえず聞きたいのはそれだけ。それじゃあ、ええと……まず、その頭と服をどうにかしないとな」

 どこか落ち着ける所に行こう。と、手が差し出された。

「……ああ」

 伸ばしかけて、土と血で汚れた手に気付いて引っ込める。なんとなく、真っ直ぐな彼を汚してはいけない気がした。

「立てるから、大丈夫」

「そう。じゃあ、どこか……普段よく居る場所とか、居心地の良い場所、ある?」

「そうだな……」

 ぐらつく頭のままなんとか立ち上がる。制服も随分と汚れている。倒れてる間に潰してしまったのか、シャツには草の緑色と赤黒い染みがこびりついていた。


 草と土の匂いがした。

 ふと。薬草ではなく――消毒薬の匂いが恋しくなった。


「保健室が、いいな」

 その言葉は、オレ自身も少し意外だった。

「なるほど保健室……保健室ね」

 ヤミくんは何かを納得したように頷く。

「分かった。保健室に案内しよう」


 □ ■ □


 ヤミくんが先に立って歩く。オレは後ろを付いていく。

 帽子の飾りなのか、赤い紐が歩く度にぴこぴこと揺れている。

 案内されて歩く校舎は、閑散としていた。

 よく知っている場所のはずなのに、なんだか知らない空気だった。


 夕日差し込む廊下に教室。どれだけ歩いてもすれ違う人が居ない。

 意識すれば、部活に励む生徒の声もするけど、なんだか遠い。


「今日は……やけに人が居ないね」

「こっち側はいつもそうだよ」

「こっち側……?」

 首を傾げると、ヤミくんは先導しつつ頷く。

「そう。こっち側」

 振り向くことはない。それが当たり前だという声で淡々と答える。

「そうだ」

「うん?」

 彼は足を止めたりする事もなく言った。

「状況がうまく把握できてない今のうちに言っておこう。俺が通りかかった時はそうでもなかったけど、多分お前はあそこで盛大に頭を割って死んでたんだ」

「うん。随分とヘビーな発言だね?」

「その割に落ち着いて受け入れたな……。ほら、あれだ。最初に一番重い一撃を入れておけば後の傷も浅くて済む、みたいなやつ」

「君はなかなか、怖い考え持ってるな……」

 ヤミくんはちょっとだけ黙って、「まあ、うん」と曖昧に頷いた。

「荒療治過ぎるってよく言われるから自覚はある。けど、そういうこと言えるんなら……まだまともそうだな」

「まだ、って」

 なんだか失礼な言われようだと口を尖らせるが、彼は気にした様子もない。

 ただ「まともじゃない場合もあるんだ」とだけ、付け足された。


 でも、彼の言うことはなんとなく分かる。

 確かにオレは、地面から足を踏み外した。

 あんな精神状態、まともじゃないと言われたら「はいそうですね」としか言えない。

 オレの記憶は途中で途切れているけど、きっとあれじゃあ助からない。なのに、オレは今こうして校内を歩いている。出会った少年と会話もできている。

 それならばまあ、今はまともなんだろう。


「まあ、ただ死んだだけじゃそれでおしまい、なんだけど」

「オレはただでは死ななかった、と?」

「可能性としては、だけど」

 そういう事だと思う、と彼は頷いて足を止めた。

「ここが保健室。とりあえず、中。どうぞ」

 そうしてオレは、ヤミくんに促されるまま保健室のドアに手をかけて――。

 

 □ ■ □

 

「――リさん。ヤーツーヅーリーさんっ?」

「――あ? れ」

 いつの間にか、目の前に不思議そうな顔でオレを覗き込んでいる少年――ジャノメくんが居た。

「……オレ、寝てた?」

「うん。ばっちりぐっすり寝てたね。ほら、よだれの跡が」

「おっと」

 持っていたガーゼタオルで口元を拭う。完全なる爆睡だったらしい。不覚。

「……表行くと疲れるからなあ」

「ああ。それなら仕方ないね」

 くすくすとジャノメくんは笑う。

 オレと違って最初から幽霊のように、というか幽霊として存在していた彼は表に行っても疲れ知らずだ。羨ましい。

 今日はこのまま部屋で寝直すかなあ、とぐっと伸びをして気付く。

「あれ。飲み物」

「空っぽで転がってたから捨てておいたよ」

「そう。ありがとう」

 いつの間に飲み干して寝落ちたのか、ちっとも覚えがないけど。零さなかっただけマシだろう。

「あと、そろそろご飯だよ」

「え。もうそんな時間?」

 確かに外は真っ暗だった。売店ホールの電気は付いているけど、それもきっとジャノメくんが点けてくれたのだろう。

「今日は白身魚の香草焼きだって」

「あ。それは楽しみ」

 そうしてすっかり温まった長椅子から立ち上がる。

 数歩先を歩くジャノメくんの後ろを付いて歩くと、ヤミくんについて校内を歩いた光景が重なった。


 あの日は誰も居ないように見えたけど。そんなことはなかった。

 こっち側はこっち側で、とても賑やかだ。

 時々大きな騒ぎも起こるけど。基本的には平和だ。

 ドタバタしてるのも日常の一部だ。

 オレもかつてはそんな騒ぎに巻き込まれたひとりだったけど。

 まあ、それはとうの昔に解決した事だから。


「これ以上考えて精神すり減らすのもダルいからなあ……」

「うん?」

 思わず零れた溜息に、ジャノメくんがくりっと振り返る。首を傾げる仕草は小動物とか子犬とか、そんな物を彷彿とさせる。

「何でもないよ。独り言」

「そっか」

 そうして彼は機嫌よさげに前を向く。

「今日はシグレさんごはんに来てくれるかな」

「……それはどうだろ。来なかったら差し入れでもしに行けば?」

「!」

 ばっ! とジャノメが勢いよく――さっきの比じゃないほど、勢いよく振り向いた。

「うん。うん……っ。そうだね!」

「お、おう……」

 思わず気圧されて頷くオレに対して、ジャノメくんはえへへ、と嬉しそうな顔をした。

「さすがヤツヅリさん。ぼくが呼びに行ってもドアすら開かずに追い返されちゃうから。うん。ご飯だけでも届けよう。そしたら受け取ってくれるかな」

「というか、今まで届けてなかったんだ……」

 うん、と彼は頷く。

「いつもはハナブサさんとかウツロさんが届けたり、時間ずらしてきたりしてるんだって」

「じゃあハナブサさんがシグレさんの状況把握してるのかな」

「そうだね。ハナブサさんに聞いてみようっと」


 そうして見えてきた調理実習室は、とても暖かな光が零れていた。

 ついでに賑やかな声も聞こえてくる。

 今日は人が多そうだ。きっと香草の匂いにつられて集まったのだろう。

 ふらっと踏み外して、入り込んでしまった道だけど。

 居心地は悪くない。


 □ ■ □


 春夏秋冬、巡る季節を草花と共に過ごす。

 同じ場所で立ち止まって繰り返していく日々。

 変わらない日々ならば同じ名前でも構わないだろうと、名前はそのまま使っているし、事実、あんまり……そう、白衣を着るようになった位しか変わってない。


 このままで良い?

 

 過去の声に、時々問いかけられる気がするけど。

 ヤツヅリが持ってる答えは。


 「はい」もしくは「Yes」


 どちらかしか、存在しない。

 そうして何年経ったかはもう数えてないけれど。

「これはこれで……楽だし悪くはない。うん」

 うんうん、とヤツヅリはひとり頷き、夕食の香り漂う調理室へと姿を消した。

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