答えは「はい」か「Yes」だけ 前編
保健室には、常連が居る。
「お。今日はどうした?」
「ちょっと……貧血で」
訪れた男子生徒に、保健教諭は「はいはい」と慣れた様子でベッドを確認し、横になれるよう準備をする。
「じゃ、ここ使って」
「はい、ありがとう……ございます」
そうしてその常連生徒はベッドに潜り込む。
頭痛、腹痛、貧血。
来る時間と理由はばらばらだが、大体が体調不良。怪我でやって来ることは滅多にない。そして、一時間ほど休んだらフラつきながらもカルテを入力し、教室へと戻って行く。
保健委員とも顔馴染みではあるが、具合の悪さか人見知りか。あまり喋らない。
そして。彼が居なくなるとみんなが気付く。
あの生徒は、誰だろう?
カルテに記入された跡は残っているが、うまく読めない。
部分的に読めたとしても。どのクラス名簿にも該当しそうな名前はない。
誰も、彼の学年やクラスを知らない。
確かに書き込まれた彼の名前は、決まって緑色の草を擦りつけたように汚れている。
「あれ、誰だっけ」
「保健委員じゃなくて?」
「そうだったっけ……」
「具合が悪くて寝てなかった?」
「え、怪我の手当してもらった気がする」
生徒達はそんな会話を交わしては、思い出せない名前に首を傾げる。
誰も知らない保健室の常連。あるいは保健委員。
今日はそんな彼の話。
□ ■ □
「うー……ん、っと……」
ヤツヅリは売店のホールでぐっと伸びをした。
はあ、と盛大に息をつくと、前髪がオレンジの眼鏡フレームにに引っかかった。レンズに指が触れないよう掻き上げて、もう一度息をつく。
生徒達が過ごす校内――表なら、放課後でもそこそこ賑わう場所だが、
売店は無人……というか、時々よく分からない薄暗い影が品出しをしてるのを見かける程度。買い物をすると、黒い手だけがすっと商品を差し出し、会計をしてくれる。
ちなみに、今は閉店時間を過ぎたのでシャッターが下りている。
ホールに居るのはヤツヅリ一人。廊下を通る影もない。閑散としている。
誰もいないのは気楽でいい。
賑やかなのも嫌いではないけれど、消耗した身体には静かな方がありがたい。
自販機で適当な飲み物を買って長椅子に座る。そのまま寝そべりたい気持ちを堪えて壁に寄りかかると、背中と後頭部に壁の固さとひやりとした冷たさが返ってきた。
「相変わらず……向こうは活気に溢れていて結構だが。空気が重い……」
溜息のように声が零れた。
ぼんやりと宙に視線を彷徨わせたまま、手探りでストローを挿す。口に運んで軽く吸うと、果物の甘い香りが口の中に広がった。
ヤツヅリは、表側に秘密の薬草畑をいくつか作っている。
中庭をはじめ、校内のあちこちにある畑の様子を見るために出向くことが多いのだが。
正直なところ、あっち側は苦手だ。
サカキの身体が突然崩壊するように。シグレが雨に干渉できるように。表に行くと何かしら影響を受けたり与えたりする人が居る。表の世界で生きていた者にその傾向が見られ、校内で命を落としたヤツヅリも例外ではなかった。
身体が当時の状態をを再現しなくなってきたのは、彼が「学校の怪談」として根付いてきた証拠なのだろう。けれども、気分が乗らないのか空気が合わないのか。表に滞在しすぎると、必ずと言っていい程具合が悪くなる。
「ヤツヅリ。お前は表に長居しすぎるから具合を悪くするのではないか?」
タヅナにそう言われたこともある。
「まあ。その通りではあるんだけどね。庭の手入れって意外と時間がかかるんだよ」
あの時は、タヅナの言うことはもっともだが仕方ないと答えたのだった。
「うん、仕方ないんだよ」
独り言をジュースで流し込む。
そして具合が悪くなった時、一番落ち着く場所は保健室だ。
ベッドで一時間も眠れば、帰れる程度には回復する。あとは保健教諭と雑談をしたり、椅子でぼんやりしてから戻るのが常。
おかげですっかり保健室の常連さんだ。
それは別に良い。顔を覚えられて困ることはないし、しばらく行かなくても気に留められることはない。ヤツヅリのことを「保健委員」と勘違いしてる生徒も居るくらいだから、まあ、「クラスも名前も分からない病弱な生徒、あるいは保健委員」として噂話の種にはなっている。
貢献貢献。うんうん、とひとり頷く。
ただ。保健室の利用にあたって面倒なのがあのカルテだった。
自分の痕跡はできる限り残したくない。だが、保健教諭は几帳面だ。毎回名前と症状、体温を記録される。ヤツヅリも毎回記入しているが、細工が必須。
草で擦られたような跡だけを残して判読できなくなり。いつしかインクと共に消えてしまうような、ちょっとした小細工。
痕跡が残らない所は便利だが、謎の空白が残ってしまうのだけは困りものだ。
でも。
保健室は嫌いじゃない。
あの消毒液の匂いが染みついた部屋は気に入っている。
だから自分も保健室に居座っている訳だけど、とストローから口を離して息をつく。
「保健委員……なあ」
ふむ。と天井を見上げる。何かある訳でもない。ただ、薄く汚れた天井があるだけだ。
表では生徒として過ごしているけれど、裏でのヤツヅリは「保健委員」として認識されている。保健委員なんてやった事もなかったんだけど、保健室に居られるのならそれでいいか、と気楽に考えるようにしている。
だが。
「あんまり性に合ってない気もするんだよなあ……」
まあ、一応薬草とか知識は役には立っているようだし。
いいか。と自己解決させながらジュースを飲む。
そういえば。いつからオレは保健委員としてここに居るんだっけ。
ぼんやりしているとどうでも良い疑問に自答することになる。
他にする事もないから、そのまま記憶を引っ張り出す。
あれは確か――。
「サカキくんが来てから、か……もう結構経つな」
ずぶ濡れで、血だらけで、バラバラで。瀕死なんて通り過ぎてるような状態のサカキを、泣きそうな顔で抱きかかえて飛び込んできたサクラを思い出す。
自分の持っている薬草や医学の知識が、初めて役に立った日だった。
ならば、それ以前は?
保健委員でなかったオレはどうやって過ごしてたんだっけ。
思い出しても大した事はしてなかった。保健室には居たけれど、都合が良かっただけで、薬草を育てて医学書をめくる。生きてた頃の延長のような生活を送っていた。
「……」
ストローから口を離すと、パックの中にこぽこぽと空気が補充されていく音がした。
――ああ。疲れてるな。
なんとなく思った。
身体ではないどこか。自分の内面というか。詩的な表現をするなら精神とか魂とか、そんなのが重い。
こんな疲れ方をしていると、どうでもいい自問自答は終わらない。
そして、思い出す。
もっと過去の。自分が一歩を踏み外した日のこと。
今日は、そう言う日だった。
□ ■ □
かつて、薬綴兼斗という名だった生徒は、少し引っ込み思案な所はあったけれども、至って普通の少年だった。
思えば小さい頃から草木……というより、薬草の持つ独特の匂いが好きだったが、特筆すべきはそれくらいの、眼鏡と図鑑が似合う子供だった。
初めて気になったのはドクダミ。あの匂いがなんだか好きで、良く摘んでいたのを覚えている。それが薬草や食用になると聞いて、他の植物にも興味を持つようになった。
まずは部屋の植木鉢で。それから庭の片隅で。土を弄り、草花を植え。育てて摘む。
ずっとそうしてきたから、高校で入った園芸部はかなり居心地のいい場所だった。
兼斗は廃部寸前だった園芸部の部長として、花壇を整備し、草花を植え、薬草を育て、その知識を学んだ。
家で。学校で。毎日花壇と向き合って。土を弄って。
同じような日々を過ごしていた。
高校生活も折り返し、寒さも厳しくなってきたある日。
園芸部が管理する花壇を弄りながら、彼はふと思った。
きっかけは忘れてしまった。
誰かに問われたのかもしれない。
自分で気付いたのかもしれない。
思い出す気もないけれど、ともかく、当時の自分は思ってしまった。
「……あれ。オレはこれから先、どうするんだろう?」
もっと言えば。受験とか。進学とか。就職とか。そんな、将来が。
突然ふっつりと見えなくなってしまった。
あったとは思う。
あったはずだ。
それなのに。
自分の行く先にある道を照らす物はひとつもなく。
ただ暗闇だけがそこにあるような。
先の見えない夜道のような。
そんな光景しか、見えなくなった。
そして。
そんな疑問を抱いた時。囁かれたような気がした。
――それなら、ずーっとここに居ればいいんじゃない?
兼斗はその声に答えることはなかったけれども、応えた。
うん。こっちにその答えがあるよ――こっち
囁かれるままに。
――こっちだよ
導かれるままに。
――早くおいでよ
呼ばれるままに。ついて行った。
土足のまま廊下に上がり、階段をのぼり、錆び付いた扉を押し開けた。
今思えば、戻るチャンスはいくらでもあった。
廊下の向こうから聞こえる笑い声とか。
部活動のかけ声とか。
廊下や教室に飾られた草花とか。
自分の手や制服についた土の匂いとか。
我に返る事はいつだってできたような気がする。
けれども、兼斗の足は止まらなかった。
風が吹き上げる屋上を横切り。フェンスを乗り越え。中庭と向かい合っていた。
――ここが入り口。追いかける相手は居ないけど、堂々めぐりには良い場所だよ
言われるままに見下ろす。
そこには小さな小さな園芸部の花壇があった。
あんなにもちっぽけに見える花壇だけれど。
兼斗にとっては、大きな大きな自分の国のような。
手塩にかけて育てた、大切な居場所だったのに。
今の兼斗には、何も見えていなかった。
声は問う。
――飛び込む?
用意された答えは。
「――」
どっちを選んだのかは分からないけど。
ふら、っと。
足が宙に浮いた。
くすくすと笑う声がした。
それは耳元を切る風の音だったのかもしれない。
けれども。
兼斗には確かに、そう聞こえた。





