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ハナブサさんの好きな場所

 ハナブサはこの学校で暮らす者達の中でも年長者と言っていい。

 長く生きる者は他に居るかもしれないが、分かっている限りでは彼が最古参だと言う。


 淡い色の長い髪に、穏やかに細められた目。顔の半分は柔らかい布と前髪で覆われているから、その内側を見ることは滅多にできない。

 元が子供の模型のため、背は低く見た目は幼い。けれども彼の物腰や雰囲気から、これまでの経験や時間を感じ取ることは難しくない。


 彼は大抵の場合、理科室に居る。

 理科室と一言に言っても、生物室、化学室、物理室、それから地学室とその種類は多い。具体的には、理科棟2階奥にある化学室にいる。

 そこでお茶を飲み、訪れる人達と話をし、日々を穏やかに過ごしている。


 □ ■ □


「ハナブサさん。常々疑問に思っている事があるんだが」

 聞いてもいいかい? と、セーラー服にカーディガンを纏った少女――ハナが机に頬杖をついてその疑問を口にした。

「何かな?」

 私に答えられる事ならいいよ、とハナブサは三角フラスコで急須に湯を注ぎながら穏やかに応える。

「ハナブサさんは、人体模型だよね」

「そうだね」

「どうして生物学室じゃなくて化学室に居るんだい?」

 無邪気な問いにハナブサの手が一瞬、ぴたりと止まった。

 ちゃぷ、と急須のお湯が音を立てる。


 表情に変化はないけれども変質した空気。それを察したハナは「おっと」と声に出さず呟いた。

 聞いてはいけない事だったのだろうか。それなら答えはいらないと口を開くより先に、ハナブサはくすくすと笑った。

 空になったフラスコを布巾の上に置き、湯呑みをふたつ並べる。

「ハナは鋭いね。いや、正直だと褒めるところ、かな。……本当はみんな不思議に思ってるのかもしれないね」

「そうだな。少なくともヤミちゃんと話したことはある。理科室、と一括りにすればなんら不思議はないが、高等学校というものは教科ごとに部屋の用途が異なる。特に理科室は種類が多い」

 だから不思議だったのさ、とハナは言う。

「とはいえ、ボクはヤミちゃん以外の嫌がる事をする気はない。だから、この質問は聞かなかった事にしてくれても構わないさ」

「ヤミも大変だね」

「ふっふっふ。ボクの特権だよ」

 得意げに笑うハナの前に、湯気の立つ湯呑みが置かれる。

「でも、本気で嫌がることはしないでしょう? はい、どうぞ」

「ありがとう」

 ハナブサもその向かいに湯呑みを置き、隣の準備室から皿を持ってきた。皿の上には、抹茶色の断面を見せる数切れのパウンドケーキがあった。

 それを見たハナの表情がぱあっと輝く。

「これは新作かい? 美味しそうだね!」

「うん。レシピを借りたから試しに焼いてみたんだ。一緒に味見しよう」

「うんうん」

 ハナブサも席について、どうぞとケーキをすすめる。ハナは、いただきますと手を合わせてケーキをぱくりと頬張る。もぐもぐと咀嚼して、湯呑みに少しだけ口をつける。

「んー! 抹茶のほろ苦さとこの甘さがちょうど良い感じだね! お茶にもとても合う」

「口にあったなら良かった」

 ずず、とお茶をすすりながらハナブサはどこかほっとした顔をする。

「そんな正直なハナに、少しだけ答えよう」

「ん?」

 ケーキとお茶に夢中だったハナの顔がハナブサに向く。湯呑みを両手で包んでにこにこしているのだろうが、窓を背にしたハナブサの表情は逆光になってよく見えない。

「私がここに居る理由だよ。そうひた隠しにする物でもないしね」

 私はね、とハナブサは静かな口調でその理由を語る。

「ハナの言う通り、私は本来なら生物学室に在るべき存在なんだけど。――実はね、生物学室が恐ろしいんだ」

「……怖い?」

「うん」

 ハナの首が傾く。

「ハナブサさんに怖い物なんてあったのだな……」

「意外だった?」

「ああ。とても意外だ」

 素直に頷くハナに、ハナブサは「そっか」と呟く。

「まあ。誰にだって恐ろしいモノというのはあるんだよ」

「そう言われれば、その通りだな。ボクにだって無い訳ではない」

 ハナはふむ、と頷いてお茶をすする。

「あの部屋は確かに古いし、剥製とかも多い。日当たりもちょっと悪いし、独特の雰囲気もある……が、ハナブサさんがそんなに恐れるような物があるとは」

「そうだね。私が目覚めた場所であり、慣れ親しんだ部屋である事も確かだよ」

 でもね、とハナブサはケーキを一口飲み込んで言葉を続ける。

「慣れ親しんだ部屋だからこそ、良い思い出も、悪い思い出もある。昔の私は……少々やんちゃが過ぎてたりもしてね。後悔している事だってある」

 ハナはぱちぱちと瞬きをしたのだろう。前髪が小さく揺れた。

 彼女の視線に気付いたハナブサが軽く首を傾げると、髪がさらりと揺れた。ハナは「ああいや」と言葉を少し濁して、ケーキをもう一口飲み込んで首を傾けた。

「……なんというか、想像力には自信がある方だと思っていたが。やんちゃとは、想像がちっとも追いつかないな」

「それだけ長い時間が経って、私も丸くなれたんだろうね」

「なるほど……?」

 言葉と裏腹に声と首は疑問そうなままだ。

「うん。それに、私が化学室に居る事が多い理由は他にもあるんだよ」

「ほう?」

 ハナの首がさらに傾く。

「ここは他の理科室に比べて、こうしてお茶を淹れるにはいい環境なんだ」

「うん? 確かにここでお茶を淹れてるのはよく見るが……調理実習室ではなくてここが、かい?」

「うん。食事やお菓子を作るなら調理実習室の方が色々揃ってるけどね。お茶ならここの器具でも十分だよ。……結局は理科室から離れられない、というだけかもしれないけどね」

「なるほど」

 それは一理あるな、とハナは空になったフラスコと急須に視線を向けて頷いた。

 

 □ ■ □


「ハナブサさん」

 湯呑みが空になりかけた頃。ハナがぽつりと呟いた。

「うん?」

「今日は話をしてくれてありがとう」

「……そんなに大した話はできてないけどね」

「いや、なんだか踏み込むようなことを聞いてしまったからな」

 それは仕方ない。とハナはいつものように笑う。が、その口元はすぐに躊躇いがちな笑みになり「ボクも」と言葉が零れた。

「ボクも。いつか昔の事をそうやって穏やかに話せるだろうか」

 湯飲みを包む両手に、僅かだが力が入ったのが分かった。


 彼女はなんでもにこやかに話す。時には笑い話に。他愛のない言葉に、少しずつ少しずつ自分自身を折り込んでいるのだそうだ。

「あいつはきっと、全てを笑い飛ばしたいんだ」

 ヤミもそう言っていた。それがきっと、彼女なりのオブラートなのだろう。

 だが、彼女の本心はなかなか見えない。それを汲み取り、フォローし、時には黙って見守るのがヤミだ。彼もまた自身の事を語りたがらないが。それは別の話だ。

 カガミ程の依存性はない。けれどもお互いに支え合っている2人の関係は、どこか羨ましくも感じる。


 私も2人のような関係が築ければ良かったのだろうか。などと自問してみる。

 返事などあるはずはない。

 それはそうだ。と自嘲する。

 

 ハナにとってのヤミのような存在など、自分にはもう居ないのだから。

 それができる場所から、逃げるように離れたのだから。

 それでも、こうして誰かと話ができる。

 ならば。


 ハナの言葉を肯定する。

「ああ。ハナなら大丈夫だよ」

「そうだろうか」


「うん。ハナにはヤミが居る。みんなも居る。なんなら私だって話を聞くよ」

 だから大丈夫。とハナブサは言う。


 昔、傷だらけの自分に優しくかけられた言葉を思い出した。

 その顔はもうおぼろげでうまく思い出せないけれども。

 声と言葉だけは今でも思い出せる。

 この部屋が自分にとって居心地よくあるよう、心を砕いてくれた彼の遺志を継ぐように。

 その言葉を繰り返す。

 

「私はここでお茶を淹れて待っているから、いつでもおいで」


「ハナブサさんがそう言って待っててくれるから、ここはみんなの溜まり場なのだろうな」

「はは。そうだね。でも、私はそれで良いと思ってるよ」

 むしろ、とハナブサの言葉は続く。

「できる事ならば――この部屋はずっとそうであって欲しいな」

 私が好きな部屋だから。

 ハナブサは湯飲みをくるくると揺らし、底に残った一口を飲み干す。

 

 いつもなら喉に少しだけ引っかかるそれは、珍しくするりと飲み込まれていった。

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