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ドッペルゲンガーのうわさ

「……ドッペルゲンガー、か」

 サクラは桜の木の下に座って、ぼんやりと散る花弁を眺めながら呟いた。


 毎月咲いては散るこの木の下は、自室と同じ位慣れ親しんだサクラの居場所だ。

 幹に背を預ければぬくもりを感じる。心地よくて、人も滅多に来なくて。けれども校内の喧噪や噂話はは不思議と風に乗ってよく聞こえてくる。うん。良い場所だ。

 そんな数多く交わされる会話の中に最近気になる噂がある。

 なんでも、「ドッペルゲンガーが出る」らしいのだ。


「あれ。さっき売店に居なかった?」

「え? 教室から出てないけど……」


「昨日の放課後さー。マリに無視されたんだけど」

「マリ? 昨日は……昼に早退したよ?」


 そんな感じで話と事実が食い違う。

 目撃されているのが誰なのかは分からないが、本人じゃないのは確からしい。

 別の所で目撃されるもうひとりの自分。いつしか「それはドッペルゲンガーだ」と囁かれるようになった。

 どこかの話のように、その人が目の前で消えたり、自分自身が目撃してしまうような事はないらしいが。色んな人の食い違った情報が日に日に増えていく。その食い違いがすれ違いを生み、小さな勘違いや諍いを引き起こしている。


「んー……。あんまり良い空気じゃないな」


 風に乗って聞こえてくる声に眉を寄せる。憂う表情は彼にいくらかの儚さを与える。


「校内で完結する分には害はないと思うけど。ちょっと気になるな……」


 サクラは花びらを散らす桜の木を見上げ、ぽつりと零した。


 □ ■ □


 放課後。

 下校を促すチャイムは鳴ったが、帰路につく生徒は少ない。

 今は文化祭前。特別に長時間の居残りが許されている期間だからだ。

 表で部活の出し物を少し手伝って戻ってきたミサギは、廊下で珍しい人影を見つけた。

 

 さらっとした金髪を背に流した後ろ姿。彼女は窓際に肘をついて携帯を弄っている。


「あれ。しゃろんちゃんだあ」


 こんな時間にどうしたの? と近寄ると、呼ばれた少女――シャロンは携帯から目を離して振り返った。


「あ。ミサギ。時間つぶしだよー」


 今日は早く目が覚めちゃったからねー。と、彼女はにこりと笑いかけた。


「そっかあ。まだご飯には早いもんねえ。ワタシも早めに切り上げてさ。ちょっと暇なんだあ。……お喋りとか、する?」

「あ。いいねー。しようしよう!」


 シャロンは嬉しそうに窓から離れ、ミサギに並んぶ。


「売店は……ちょっと人多そうだし、少し静かなところがいいな」

「じゃあ、どこか階段……ああ、理科室の先はどうかなあ?」

「いいね、そうしよう」


 そんな言葉を交わしながら、二人は近くの階段をお喋りの場所に選んだ。

 少し薄暗いけど、廊下の窓から見える空はまだ明るい。秋らしい高い空だ。


「もう秋だねえ」

「そうだねー。パソコン室も寒くな ってきちゃう」

「あそこ冷房効いてるもんねえ」

「プールも水が冷たくなってきたなあ」


 寒くはないけど、ミサギは指先をなんとなく擦り合わせる。


「そう言えば、表のプール。工事す るんだって?」

「うん。らしいよお。年中使える感じにするって話」

「そっかー」

「だからその間はこっち側のプールでのんびりするつもりなんだあ」


 誰も居ないから暇だけどねえ、とミサギはのんびりと語り、シャロンもそっかーと相槌を打つ。


 女子二人の話題は尽きない。

 文化祭の準備のこと。明日の朝ごはんのこと。図書室の新刊のこと。

 そんな他愛もない言葉を交わし続け。


「?」


 ミサギはふと、視界の隅に違和感を感じた。

 

 傍らに居る影――シャロンの輪郭が一瞬ブレた気がした。

 思わず彼女の方を向く。けど、きれいな金髪に透けるような白い肌。そこに居るのは間違いなくシャロンだった。

 あたりは随分と暗くなっていたけど、隣に座る人が見えないほどではない。なんだったんだろうと目を擦っていると、視線に気付いたらしいシャロンが首をかしげた。


「うん? どうし たの?」


 覗き込むきれいなグリーンの瞳が斜光を弾く。


「ううん、なんでもない」


 首を横に振ると、シャロンは「そっか」と頷いた。


「あ、そうだ。ねえ。ミサギ」

「なあに?」

「お願いがあ るんだけど、きいてもらえるかな」


 両手を合わせてシャロンは頼み込む姿勢を取る。ちょっと傾げられた首の動きに合わせて、髪がさらりと揺れた。


「? うん。ワタシができる事ならいいよう」

「ホント? ありがとー」


 シャロンはにっこり笑い、ミサギに肩を寄せた。


 変化はとても自然で、突然だった。

 それは水面を風が撫でるような。静かで、確かな変化だった。


 最初は触れた肩。冬服が夏服に替わった。袖から伸びる腕には薄手の長袖Tシャツ。

 続いて髪。淡い金色は深い青へ。さらりと無造作に流されていたのは緩い三つ編みに。

 それから瞳。ガラスのように透けるグリーンが、深みを持つ緑へ。

 そっと、手が重ねられる。

 色白だったはずのシャロンの指は、軽く日に焼けた小麦色をしていた。


 ミサギが瞬きを数度する間に、目の前の彼女は別人になっていた。


「え……。えっ? しゃろん、ちゃん?」

「違うよー。私、んー……ええと。ワタシを間違えるとかイヤだなあ」


 はにかむように。「彼女」はのんびりと笑う。

 そう。彼女の言う通り。

 ミサギの隣に居るのは。肩を寄せてミサギの目を覗き込むのは。


 ミサギ自身だった。


「えっ、え……?」


 何が起きたのか分からない。

 どうして自分が目の前に居るのか。シャロンはどこに行ったのか。頭が追いつかない。


「鏡、じゃない……わ、ワタシ? しゃろんちゃんは……?」

「んー? だいじょうぶ。なーんにも心配す ることな いよう」


 シャロン……いや、ミサギはそう言って笑う。緑の瞳がとろんと細められる。

 ああ、ワタシってこういう風に笑うんだ、なんて関係ない感想が浮かんだ。


「それで、お願いなんだけどお」


 内緒話をするように、そっと耳元に手を当ててミサギは囁く。


「あのね。ワタシ、あなたの存在が欲しいんだあ」


 だから。ちょーだい。

 

 そう囁かれた瞬間。

 とぷん、と水底に沈んだような浮遊感を覚えた。


 身体の自由が利かない。

 溺れる――いや。そんな感覚は知らない。

 けど、自分がこのまま何かの底に引き込まれて、沈んで、解けてしまうような。そんな恐怖に突き落とされる。

 噂話として目覚めた時に感じた、プールの水に溶けていく涙を。口から零れた空気の泡を思い出す。

 指先からそれらに置き換わっていくような感覚。

 水になり。空気になり。自分がどんどんと崩れていく。

 崩れていく。

      くず  れ

              て――いく。


 そして最後に残ったのは、小さな水溜まりと、階段に座るひとりの少女。

 ぐーっと伸びをして、はふうと小さく息をつく。


「うん、これでお 昼も動けるか なあ」


 しゃろんちゃんは夜型さんだったからねえ、と。広げた手の平を見つめ、頷く。

 ふふ、と満足そうに微笑み、視線を上げた。

 窓の外はすっかり暗くなっていて、時計を見ると下校時間も近くなっていた。


「ああ、そろそろご 飯の時間だ」


 そう言ってミサギは席を立つ。


 向かう先は調理室。

 みんなの集う、夕飯の席。


 彼女が後にした階段は誰もいない。

 ただ、小さな水溜まりが影で小さく揺れていた。

 

 □ ■ □


 調理室はいつもと何も変わらない賑やかさだった。

 めいめいが好きな席について食事をしている。

 そんな中、サクラは斜め向かいに座るカガミの様子が少し違うことに気付いた。

 二人とも普通に見えるけど、時折手を止めて視線を彷徨わせている。何か気になることがあるようだ。


「二人とも、どうしたの?」


 声をかけると、カガミは同時にぱちりと瞬きをした。一瞬の間。二人はちらりと視線を交わして、首を横に振った。


「「ううん。なんでもないよ」」

「多分、気のせいだから」

「そう、気のせいなの」


 そう答えて食事に戻る。その姿に、サクラと隣に居たヤミと顔を見合わせた。

 今のやりとりに違和感がある。ヤミもそれを感じたのだろう。

 答えるまでの微妙な間に、曖昧に濁された言葉。普段からはっきりとした物言いをする二人にしては珍しい回答。二人が不思議な行動をとることはよくあるけど、それとは違う何かがある。そんな気がした。

 二人は何を気にしてたのだろう? カガミが見ていた先をさりげなく確認する。


 少し離れた席で、サカキとハナが話している。その隣は空いている。他の席も、数人で集まっていたり一人で食べていたり。特段変わった様子はないように思える。

 その人がよく座る席というのはあるけど、どこと決まっている訳ではないし、食事時に全員が揃う訳でもない。だから、この状況で違和感の原因を特定するのは難しい。

 なんだろうなと首を傾げると、ヤミと目が合った。彼も何か言いたげだ。


「なんか気になることがありそうな顔してるなって思って」

「……そうだね」


 うまく説明できないんだけどと苦笑いする。

 そう。説明ができない。何があるという訳でもないんだけど、何かが引っかかる。

 それが何か分からない。きっと誰も分かってない。違和感と疑問だけが転がっている。


 ふと、先日のラジオを思い出した。

 あれはヤミが壊してしまった。ハナブサは「これは随分と思い切ったね」と苦笑いしていたが、それ以上何も言わなかった。それよりも、「どうしてあのラジオがあったのか」の方が疑問のようだった。


 昔、封印したはずのラジオ。今は噂話も語られてない。なのにラジオは現れた。

 スイバに聞いてみるという話だったけど、進展はない。彼女は大きなイベントになると準備期間から紛れ込んで活動することが多いから、そっちで忙しいのかもしれない。現に、今もこの席に彼女の姿はない。


 正体が分からないといえば。「掲示板の書き込み」もそうだ。

 ハナによると、シャロンは悪質なボット――自動で悪さをするような仕組みが、誰かに組み込まれていたらしい。ボットを除去して以降、書き込みは一切ないという。

 ただ、犯人が誰なのかは分からないままだ。掲示板も覗いてみたけど文化祭の話で盛り上がっていて、言及する人は居ない。


「……」


 噂になってないのに現れたラジオ、突如現れて消えた妙な書き込み。

 それらをカガミに結びつける訳じゃないけど。立て続けに起きているのが引っかかる。繰り返す点呼、本物を騙る書き込み。それから、新しい噂話。ドッペルゲンガー。

 それらにどこか不穏な空気というか。妙な警戒心の芽生えというか。そんな物を感じる。


「サクラは何が気になってるの?」


 ヤミがスープの湯気をを吹きながら問いかけてきた。彼も似たような何かを感じているのかもしれない。


「んー。最近は……新しい噂話かな」

「へえ? どんなの?」

「ドッペルゲンガーが出るんだって」

「ドッペルゲンガーって……瓜二つの人が現れるってやつ?」


 そう、と頷く。


「そりゃまた……新しいな」


 確かに今まで聞いたことないかも、とヤミは呟く。


「影響は出てるの?」


 いや、と首を横に振る。


「生徒の間で些細な勘違いは起きてるけど、許容範囲内かな。誰かが怪我をしたり病気になったりもない」

「なるほど。この時期だし、見間違いの可能性も捨てきれないやつだ」

「そう。長引くなら対応が必要だけど。こっち側に該当しそうな人が居なくて」


 そうだなと考えるように、ヤミのスプーンがルーとご飯を軽く寄せる。


「誰かの姿を借りてる、瓜二つの誰か……」

「そう」

「まあ、俺達の中で影響がでるとすれば」


 二人がちらりと視線を向ける。その先に居るのは食事を続けるカガミ。

 食事に集中しているらしく、二人の視線には気付いていない。


「だよね」

「だな」


 二人で頷き合う。

 全てを映し、反射する鏡。ドッペルゲンガーを名乗るには最適な二人ではある。


「まあ、この間の……エンジェル様だっけ。あれみたいに何も起きないといいな」

「アレか……」


 ヤミからげんなりとした声が漏れた。


「俺の呼び出し頻度が上がったけどな」

「仕組みは似てるしね」

「そう。でも海外のだからさ。なんかこう……微妙に感触が違って」


 慣れるまで微妙だった、とぼやく声が漏れた。


「大体さ、英語はちょっと苦手なんだよ……。ハナに愚痴ったらアイツ「ならば中等部から授業に混じって学んできたまえよ」なんて気軽に言い放ちやがった」

「はは……まあ、確かに基礎から教えてくれそうだけどね。英語だったらエディくん得意そうだし、教えてもらったら?」

「あー……気が向いたら考える」


 そうだね。と頷いてサクラはスプーンを口へ運ぶ。

 ヤミは難しい顔をしたままスープカップに口をつけた。


 おいしいハヤシライスを咀嚼しながら、サクラはもう一度カガミをそっと見る。

 彼らが何か知ってたり動いてたり様子はない気がする。二人が使うのは鏡や窓といった「映るもの」であり、ボットやラジオのような物ではない。

 そもそもこの二人自身が、己のドッペルゲンガーのようなもので……。

 繋がりそうで繋がらないピースにモヤモヤする。

 ドッペルゲンガーの在り方は、言い換えれば模倣だ。他の誰かを模して騙る……そんな連想に眉が寄る。

 

 今囁かれているあの噂はなんだろう?

 誰だろう?


 ハナブサがよく言っている「学校は平和であるべきだ」と言う言葉を思い出す。

 そう。何も起きないのが一番だ。

 サクラもヤミも……いや、ここで暮らす全員にとってそれが一番な事なんだけど。

 なんとなく胸騒ぎがするのは、この微妙な空気のせいだろうか。

 

 そう思ったサクラのスプーンに、八重歯がかちんと小さな音を立てた。

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