サクラさんに伝えたいこと
サカキには、目標にしている先輩がいる。
日に透けた春のような、淡い桜色の髪。暖かな色の瞳。色白で、黒縁の眼鏡がよく目立つ。
誰にでも優しくて、穏やかで。人の為に動ける力を持ち、サカキ自身が持つ迷いを「それも強さだよ」と肯定してくれた。
ふわっとした笑顔がよく似合う、暖かな春のような人。
小さくて泣き虫な自分が目標にするには、とてもとても遠いけど。
その人はいつも、足の遅い自分の歩幅に合わせて歩いてくれる。
ずっとずっと。隣に居て、自分の事を見てくれる。
まだまだその背中を追いかけるばかりだけど。
いつか追いついて、隣を歩きたい。歩けるようになりたい。
サカキはそう思っている。
□ ■ □
「そういえばさっちゃん」
ある昼下がりのこと。売店でばったり出会ったハナと並んで歩いていると、彼女が何かを思いついたように話を切り出した。
はい、と返事をすると、彼女は歩きながら首を傾げる。
「なんとなく気になってた事なんだが。さっちゃんはどうして男子の制服を着てるんだい?」
「え。この制服、ですか?」
不思議そうに問い返したサカキに、ハナはうむと頷いて理科室の戸を開けた。
誰も居ないけど窓が少し開いていて、暖かな陽気と涼しい風が満ちている。
「似合ってない訳じゃないし、それがさっちゃんだと馴染んでしまってるのも確かなのだが。なんか不思議でな」
サカキは入口で一瞬足を止め、自分の服を見下ろした。
「なに、他愛ない疑問さ。無理に答えることはないよ」
日当たりの良い席を見つけたハナが、軽い足取りで進んでいく。
それに付いていこうと顔を上げると、窓に映った自分の姿が目に入った。
淡い橙のマフラー。短く整えた髪。小柄な身体にはぶかぶかの制服。それはセーラーではなく、学ランと黒のズボン。袖口から覗くカフスは、ブラウスではなくカッターシャツだ。
ハナの言うことはなんとなく分かる。
自分はみんなに女子であると明かしたのに、どうして男子の制服を着たままなのか?
ずっとズボンで生活してきたから、スカートが落ち着かない。というのもある。
スカートが似合わないんじゃないかな、と思っているというのもある。
でも、それ以上の理由――。
サカキはハナの横に腰掛け、ジュースにストローを刺しているハナを見た。
「さっきの質問なのですが」
「うん」
ハナはの返事はいつもと変わらない。それが、気負わなくて良いんだという安心感をくれる。
でも、自分の事を話すのはなんだか恥ずかしくもある。マフラーをちょっと押さえて、答える。
「僕。目標にしてる人がいて」
「サクラ君かい?」
ハナのストレートな指摘に、サカキは一瞬驚いたような顔をして、こくり、とマフラーに埋まった。
「はい。サクラさんみたいに、なりたいです」
「なるほど。良い目標だな」
うんうんと頷いたハナがちらりと視線を向けると、その頬は嬉しそうな色をしていた。
「それは怪談話としての在り方とか、振る舞いとか……そういうのだろうか。しかし、彼の事だから、普通に色々教えてくれるとは思うが」
「そうかもしれません。でも、あの時の。ここに来たばっかりだった僕には、それしかないような気がしたんです」
「なるほど……?」
ハナが頷きながらも首を傾げると、サカキはくすくすと笑って言葉を足す。
「決めた時、サクラさんに「どうして」って言われました」
「うん。そうだろうなあ。きっと彼も驚いたことだろう。目標に近付くためにまずは形から。という事なのだろうが……」
それでもよく分からない、と言葉が濁される。
「そうですね。そんな感じです」
サカキはずれてきたマフラーを整えて、視線を机に落とす。
紙パックを両手でそっと持ち。一口飲んで。そっと置いて。
「――あの」
少し低いトーンだけど、思い切ったような声で言葉を繋げた。
「うん?」
「昔の話を、少ししても良いですか?」
「? 別に構わないが」
一体何だい? とハナが首を傾げると、サカキはハナに視線を向けて。
内緒話のようにそっと過去を打ち明けた。
「僕、身代わりだったんです」
「身代わり……?」
繰り返すように呟いたハナの首が傾く。その口元は何か言いたげに薄く開いたが、どう踏み込んで良いのか分からない。そんな風に見えた。
「ふふ……ハナさんがそんなに不思議そうな顔するの、珍しいですね」
「そりゃあ、不思議な単語だったからね」
でもどう言うことだい、とハナは問う。
そのままの意味ですよ、とサカキは答える。
「だから僕、自分がなんなのか分からないんです」
そうしてぽつりぽつりと、生い立ちを語る。
かつてのサカキ――「賢木みや」と名乗る前に生きていた少女の話。
彼女には兄が居たらしいということ。
その代わりに育てられたこと。
自分がどっちであればいいか分からなかったこと。
桜の木の下に居る時だけは、少しだけ「自分」で居られるような気がしたこと。
簡単だけれども、と話し終えた時。ハナは口元に手を当てて考え込んでいるようだった。
「……つまり、桜の木の下に。サクラ君の側に居ると、本来の自分を見つけられるような気がする?」
言葉を継いだハナに、サカキはそうかもしれませんが、と言いながらも首を横に振った。
「それは……見つからないと思います。僕は兄のようにはなれませんでした。きっとこれからもずっとそうです。昔の僕が求めていた物が何だったのかも、もう分かりません」
情けないですけどね、とサカキはえへへと笑った。
「僕は僕になっていいのか。どうしたら良いのか分からない。そんな僕に、サクラさんは言ってくれたんです。僕らしく過ごして欲しい。悩んでいることも含めて僕だ、って」
「うん」
サクラならきっとそう言うだろう。ハナは頷く。
「そんなサクラさんの考えが、すごく温かくて。憧れ、ってこんな気持ちなのかなって思ったら、僕もそんな風になりたくて」
「ふむ。それで、サクラ君の隣に居たいと」
サカキは曖昧に笑って頷いた。
「目標にするなら。隣に立てるなら。サクラさんが見ていた姿で居たい。桜の木の下の少年でも構わない。あの時は、それしか思いつかなかったんです」
「ふむ。だから男子制服を……」
彼女は自分を見失っている。性別すらも偽って、憧れに近付こうとあがいている。
近付けるのは良いとしても。求められた物になれるなんて、心が許さない限りあり得ない。それは身に染みて分かってるはずなのに。
男だったらなんて存在しないのに。その壊れた可能性で在ろうとしている。
これはこれで。少々危ういもののように見えた。
いつか目標に追い付いて、隣に立てた時。「彼女」は一体どうなるのだろう?
うまく行くかもしれない。破綻するかもしれない。もし後者だった場合――。
でも、サカキはそんなハナの考えに気付く事なく、「それでも」と笑って言葉を繋ぐ。
「これでいいのかなって、何も分からなくなる時もあります。けど、サクラさんはそんな僕で良いと言ってくれました。悩んでた過去も、分からない今も。全部含めて僕だって。捨てなければいつか見つかるって」
「なるほど、全て認めて受け入れる、か。そこは確かにサクラ君の強みだ。そんな所に君は惹かれたんだな」
「――そうですね。僕も、そんな風になりたいです」
そう言って笑うサカキは。
どうして今まで気付かなかったのか分からない位に、女の子に見えた。
□ ■ □
「ところで」
話が一区切りして二人の飲み物もそろそろ空になる頃。
ハナが思い出したように口を開いた。
「さっちゃんがサクラ君に憧れてるのはよく分かったけど。それ、サクラ君に言ったことあるかい?」
サカキはその言葉に、ぱちりと瞬きをした。
「サクラさんのようになりたい、とは何度か言った事あるかもしれません」
「ふむ。憧れの人がサクラ君本人だ、というのは?」
サカキは少し考えて、ふるふると首を横に振った。
「この話をするのも、多分初めてですし……サクラさんにも言った事はない、と思います」
ハナは「なるほどなあ」と小さく唸って、それからにこりと笑った。
「さっちゃん。サクラ君の弱点を教えてあげよう」
「弱点、ですか」
繰り返すサカキの声にハナは頷き、人差し指を小さく振った。
「そう。弱点だ。ヤミちゃんが言ってたんだがね。座敷童のサクラ君は、人の感情に敏感なんだ」
「そうですね」
それはわかります、とサカキはこくりと頷いた。
「周りを見て、感情を拾い上げる力に長けている。その聡さ故に、と言うのかな。人の感情を自分のそれより優先するクセがある」
そうだな、とハナの指先が軽く絡む。
「言い方を変えると、自分を後回しにする。それに、自分がどう見られてるのかに対して無頓着だ」
「無頓着……」
「そう。さっちゃんに対する態度を見てるとね、どうにもそれが顕著に見える」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。彼がさっちゃんの先輩であろうとしてるのはよく分かる。だが、その役割に固執しすぎて、さっちゃんの目標が自分であるとは気付いてない。そんな感じだ」
だからさ、とハナはくすりと笑って人差し指をくるりと回した。
「君が誰に憧れて、目標にしてるのか。一度ちゃんと名指しで伝えてあげるべきだと思うよ」
□ ■ □
穏やかな風が吹く窓際で、サカキはサクラと並んでお茶を飲んでいた。
他に誰もいない。冬の柔らかい日だまりが、二人の背を温める。
「そうだ。僕、サクラさんに言わなきゃと思ってたことがあるんです」
「うん? 何?」
サクラはお茶を飲む手を止め、サカキへと視線を落とした。
なんだろう、と言葉を待つ彼の目は、相変わらず暖かい色をしている。
「あのですね。僕の……その。憧れてる人の話、なんですけど」
「うん」
こうして改めて言うのは、すごく緊張する。恥ずかしくて視線が落ちそうになる。
なんでこんなにドキドキするのか分からない。心臓がうるさい。カップを持つ手に力が入る。
でも、ずっとずっと思ってたことだから。
僕の目標で。これからも隣に居たいと思う人だから。
目をぎゅっと閉じて、開いて。向き合って。
その言葉を。手紙を差し出すように、口にした。
「僕が憧れてる人って、サクラさんなんです」
「――」
サクラの目が瞬いた。今の言葉の意味を問われた気がして、サカキはもう一度言葉を結んだ。
「僕、サクラさんみたいになりたいんです」
やっと3話に繋げることができました。
この後の彼の反応は「月巡りの桜と頭痛の種」でどうぞ。