それは心の鍵に似て 2
朝。
朝食を終えたサカキは、向こうからやってくるサクラを見つけた。
「おはようございます。サクラさん」
その声でサカキに気付いたサクラは、足をぴたりと止めた。
「おはよう」
いつものように挨拶を返した彼はそのまま、サカキの方をじっと見ている。
「?」
いつもと何かが違う気がした。
何が、と聞かれるとうまく言えないけれど。機嫌が悪そうというか、視線の奥にあるものが違うというか。そんな。なんだか目が違う色をしているように見えた。
なんだろう、と心の中で首を傾げていると、サクラは「そうだ」と声をかけてきた。
「ちょっと、ついてきて欲しいところがあるんだけ」
「はい?」
いいですよと言うが早いか、彼はサカキの腕を取り、踵を返した。
不思議そうな顔のサカキの手を引いて、つかつかと歩き出す。
「あ、あのっ。サクラ、さん」
「うん?」
「一体どこに……?」
「うん。いいから」
ついてきて、と振り向きもせずに告げられた言葉に、サカキは黙って頷き、腕を引かれるまま小走りで付いていく。
□ ■ □
サクラが目を覚まして感じたのは、浮遊感だった。
身体が妙に軽い。そんな感覚に辺りを見渡し――気付いた。
ここは、夢の中だ。
けれども、感覚ははっきりしている。身体は起きている気がする。なのに自分は夢の中。
この感覚に覚えはある。最近はなかったけど、寝てる間に身体を乗っ取られて目を覚ますとこんな感覚がする。
寝てる間に身体を乗っ取られて……?
「……え」
もしや。と顔を上げる。
目を閉じて集中すると、自分の身体本来の視界が見えた。
廊下を歩いている。感覚を辿る。その手には何かが掴まれている。
それは柔らかくて、力を入れたら折れてしまいそうな細さで。
「あのっ、サクラさん」
声がした。
この声には覚えが――いや、覚えがあるなんてもんじゃない。
今までの情報を総合する。
誰かが。
サカキくんの腕を引いて。
廊下を歩いている。
誰が?
俺が?
いや。これは。
「――ちょっと!?」
状況を把握した瞬間、思わず声を上げた。
その身体を動かしているのは自分ではない。そういうことができるのは。
「オマエ何してるの!?」
「……サクラ、おまえも黙ってろ。喋ると頭に響く」
舌打ちとともに、獏は声に出さないまま言った。
「別に大したことじゃねえよ」
「今でも十分最悪だよ!!」
悲鳴にも近いサクラの言葉は届かない。獏は。サクラの身体を乗っ取った獏は、サカキの手を引いたまま廊下の奥にある出口をくぐり、渡り廊下を通り抜け、上履きのまま裏庭へと足を踏み入れた。
その先にあるのが何か、サクラは知っている。
誰もが知っているだろうけど、誰かと共有するほどでもない場所。
誰にも教えたことはない、教える必要に駆られたこともなかった空間。
生徒用宿泊施設の裏にある小さな空き地。
獏はそこまでやってくると、ピタリと足を止めた。
「わ……っ」
声はあがったものの、サカキはぶつかることもなく足を止めた。立ち止まると同時に腕から手を離し、とん、と軽く背中を押す。
「サクラさん、ここ……うわあ。たくさん咲いてますね! シロツメクサ、ですか?」
彼女の声がぱあっと明るくなる。視線は下を向いているが、その横顔に影はない。足元の三つ葉を見ているのだろう。
「うん。静かで落ち着ける、いい場所だよ」
「日当たりもいいし、素敵な場所ですね」
「――もし」
「?」
「もしも、辛くて仕方ない時があったらさ。ここにくるといいよ」
サクラはその言葉と声に、言葉を失った。
口に指を当てる。動いていない。
喉に指を押し当てる。ひどく冷たい呼吸だけが漏れた。
それはそうだ。だって今この身体を使っているのはアイツ(獏)なのだから。
でも、その声色は「獏」ではない。「サクラ」だった。
端から見たら、きっと誰もがサクラが言ったと思うだろう。
それ程までに。
自分でも一瞬分からなかった程に。
獏はサクラという存在を見事に演じきっていた。
自分の言葉じゃないのに。
自分の。「サクラ」の言葉として伝わっていく。
それは。
それは、とても耐えられなかったけれど。
耐える以外にできる事も、なかった。
身体の主導権を取り戻す術を知らない。
この暗い空間から抜け出す方法を知らない。
耳を塞ぐことも、目を閉じることもできない。
できるのは、ただ目の前で繰り広げられる、自分にひどくよく似た何かと彼女のやり取りを見つめるだけだ。
「え」
サカキがぱっと顔を上げた。きょとんとした瞳がサクラを見上げるが、すぐにその目は細められる。きっと逆光で彼がどんな顔をしているのか見えないのだろう。
「誰にも相談できなくて溜め込んでるんだったら、――ここならひとりで吐き出せると思うんだ。ほとんど人も来ない場所だし。それに」
獏はサカキの手を取って、軽く引き寄せる。
「ここなら「俺」も見つけられる」
「? サクラさん?」
「なんなら連れてきてもいい。ここに引っ張ってきて、思いっきり吐き出してもいい。「俺」は先輩だから、どれだけでも聞くよ」
「……」
サカキの肩が、わずかに震えたのが見えた。
うん? と獏の首が傾く。
「――」
ありがとうございます、と小さな声がした。
その顔は笑っているのに、目の端には涙が浮かんでいた。
「……あっ」
その涙に気付いたのか、サカキは袖でゴシゴシと顔を拭く。
でも、それはどうにも止まらないらしい。あれ、と呟いては袖で目をこする。
獏はその涙をただ眺める。
サクラが拾うサカキの感情は、どうにも濃くて煮詰めすぎたような味がした。
その味の通り、彼女は思い詰めていた。思い詰めすぎて、それが何かすら分からなくなっているらしい。
ここまでは想定通りだ。
で。それをどうにかできないかを考えた結果が、ここに連れてくることだった。
ただの空き地だし、サクラがたまに訪れるのも本当だ。利用する場所としても最適だろう。
それに、この姿と声だ。サカキにとって「サクラがこの場所を教えた」という事実は変わらないし、サクラもきっとこの状況を見ている。あいつのことだ。時々様子を見に来るようになるだろう。
そうして共有する時間と会話が増えれば、一度に拾い上げる感情の量も少なくなっていくに違いない。
サクラの罪悪感は増すかもしれないが、あの味は別に嫌いじゃないから構わない。
ただでさえ美味いサクラの夢にバリエーションが増える。それだけが楽しみだ。
だから。目の前の涙に思うことなど何もない。
泣こうが笑おうが、勝手にするといい。
そんなことを考えて、獏はその場を立ち去ろうとした。
が。
「……あ、あの」
「あ?」
サカキは俯いたまま獏の袖をつい、と引いた。





