それは心の鍵に似て 1
夜。
サクラは部屋に戻ると、扉に鍵をかける。
自分の中に居る「彼」が外に出ないようにという、サクラなりの抵抗だ。
そんな事しなくても表だって出てくることはほとんどないのだけど。
部屋に鍵を掛けた後は別らしい。
かちゃん、と鍵を落とした瞬間。かくんと身体の力が抜けた。
目眩のような浮遊感と共に、視界が暗転する。
「――は、毎晩めげないな」
鍵がかけられたばかりのドアを見下ろして、サクラは冷ややかに笑った。
普段よりわずかに低い声。興味が薄く冷たい目、楽しげに歪む口元。どこか力を抜いたような立ち姿。
昼間とはまるで別人のようなそれは、サクラの中に住むもう一人の人物だ。
名前はないと彼は言う。
呼ばれたことのある名はと問えば「獏」だという。
「そんなことしなくたって外には出ねえってのに」
心配性だな、と獏がサクラの行動を軽く笑うと。
「うるさいな」
頭の中に声が響いた。
獏はつきりと痛む頭に眉を寄せながら、ドアから離れる。
頭の中の声はぶつぶつと文句を言っている。その度に頭がずきずきと痛みを訴える。
「滅多に、ってところが信用ならないんだよ。あんな……」
声がふと、途切れる。
でもそれは一瞬で、すぐに気を取り直したかのように繋がれる。
「あんなことが二度とないようにしたいんだ。鍵だってかけたくなるだろ」
「あんなこと?」
「オマエが俺の真似をして出て行った時のこと」
はて、と少し考えて、いくつかの心当たりをピックアップする。
正直どれか分からないが、まあ全部だろう。
「ははっ、そうか」
獏はサクラの言葉を一笑に付して窓を開け、髪を夜風に揺らした。
風が冷たい。部屋の緩い空気が、きゅっと締まるようだ。
「あんなこと、なあ。いいじゃねえか別に。いい思い出にしとけよ」
くつくつと笑うと、八重歯がちらつく。
「……よくない」
拗ねたようなサクラの言葉は、獏の頭に小さな痛みを響かせる。
その拗ね方をするということはサカキ絡み……ああ、あれか? と心当たりを絞り込む。
「拗ねるなよ。あれは俺のために必要な事だったんだよ」
夜闇に散る桜の花弁を眺めながら、獏はため息のようにつぶやいた。
□ ■ □
それは、サカキがこの学校にやってきて数年が経った頃。
校舎は綺麗に建て直され、学校に住まう人ならざる者達も、興味津々で出入りをして過ごしていた。
細々とした出来事はあるものの、平和な日々。
そんな中、新しい仲間が増えたことで、サクラの夢にいくつかの変化が出てきた。
普段通りそれを拾い集めて食べていた獏は、その中に良い味になりそうな夢があることに気付いた。
同じ夢から取り出した飴をひとつ摘まんで明かりに透かす。
薄い紫色の中に、濃い黄色が沈んでいる。
口に放り込んで転がす。ほんのりとした甘さと柑橘類を思わせる苦み。噛み砕いて飲み込むと、焦がしすぎたべっこうのような苦味と、仄かなえぐみが残った。
全体的にみれば柑橘系の味に似ているが、そう一言でまとめてしまうには勿体ないくらい、深い悩みの味がした。
良い味ではある。ああ、決して悪い味ではない。
だが、と眉が寄る。
煮詰めすぎたものを混ぜたようなバランスの悪さがある。
もう少しどうにかならないものか。
「こいつは……元の持ち主をどうにかしなきゃなんねえか?」
この味の主は誰だ。またひとつ口の中で転がしながら、この飴になった夢を探る。
静かで薄暗い、灰色の街。雨がしとしとと降り、時計塔の針は2時過ぎで止まっている。人の気配はないのに視線だけはあり、その中を歩いている。唯一の色を持つのは小さな紫の花。歩く先にある広場には、崩れた噴水の残骸と、大量の本が積まれている。その下からは黒い何かが流れ出ていて――。
「あいつか」
特定は難しくなかった。きっと、身体中に包帯を巻いたあの子供だ。
「名前は……なんつったかな」
思い出せずに手近な本棚から一冊取り出す。サクラの記憶が記されたそれをパラパラめくって、該当する記憶を指でなぞる。
「ああ。――サカキ」
野々宮葵。いや、賢木みや。
桜の木の下の少年として生きることを選んだ、自分を見失った少女。
名前を繰り返し、似た味の飴と見比べて頷く。
彼女が関わると、サクラ自身の夢であっても似たような味がわずかに混じるらしい。間違いないだろう。
柑橘に似た味は彼女自身の悩み。最後の味はサクラが感じている責任、いや、罪悪感だろうか。
サクラはサカキに対して複雑な感情を抱いている。彼女の悩みに寄り添い、助けになろうとしている。僅かに掬い上げられる上澄みと、サクラの感情がこの味になっているのだろうが、その配分が気に入らない。
サカキ悩みをうまく掬い上げ、サクラの感情を和らげることができれば、多少の調整はできるだろう。夢の内容はサクラの無意識下で決められるから、直接的な手出しはできないが。
調整を重ねることができれば、好みの味を確保できるに違いない。
そのために必要なことは。
「会話と、時間の共有……?」
二人が一緒に居る時間を増やせば、話す機会も自ずと増えるだろう。
「しかし、あいつはどうにも人と距離を取るからな……」
舌打ちが出た。
どうすればその時間を増やせるか。サカキはサクラと一緒に居るようになるのか。
旧校舎崩落事故におけるサクラの行動を考えるに、放っておいても彼女と共に居る時間は増える可能性はある。
しかし、可能性があるだけだ。あいつのことだから、適度な、いや、適度以上の距離と感情を保ち続けるに違いない。
ならば。彼らが会話を重ねられるように誘導することが重要だ。
獏はしばし思案し、答えをひとつ出した。
「ああ。これならきっと――きっとうまくいく」
□ ■ □
ある日。
表に出ていたヤツヅリとサカキに異変が起こったと、ヤミとウツロが血相を変えて帰ってきた。
サクラとハナブサが慌てて保健室へ駆け込むと。
頭の一部がごっそりと陥没し、肩まで血だらけになったヤツヅリと。
腕や足が身体から離れ、まとめてウツロに抱き抱えられたサカキがいた。
何があったのかと問うハナブサに、動ける状態だったヤツヅリは顔を拭きながらため息とともに答えた。
「最初は、サカキくんの身体が突然崩れたんだ」
まるでかつての怪我を再現するように、サカキの身体の一部が崩れ落ちたのだと彼は答えた。ヤミに誰かを呼んでもらっている間、それをどうにかしようと応急処置を施していたヤツヅリもまた、自分の頭から血が滴り始めたのだと言う。
「全く驚いたよ。確かにオレ達は校内で死んだから、それに引きずられたのかもしんないけど……まさか再現まで始めるとはね」
生徒には見られていないと思うけど、血痕くらいは残してしまったかもしれない。と彼は語った。
サカキはそれ以来、表に行くのをすっかり怖がるようになってしまった。
サクラはそんなサカキを心配していたが、サカキはいつだって「大丈夫です」と笑っていた。
でも、サクラは知っている。
サカキが表に行きたいと思っていること。
皆と同じように授業や部活に混ざって遊びたいこと。
それが叶わない身体であったことを、残念に思っていることを。
「表に通い続けたら、いつか慣れるのでしょうか」
サカキがベッドでそんな言葉をぽつりと零した。
そうだねとサクラが頷くと、「でも」とサカキは弱々しく笑う。
「僕の話は怖い話に分類されるもの、ですよね。仕方のない話ですが……怖がらせてしまうのはちょっと、嫌ですね」
それは不安。恐怖。思い通りにならない歯がゆい気持ち。
ぽつりとこぼすそんな言葉の裏に、いろんな感情があることをサクラはしっかりと感じ、受け止めていた。
学校の座敷童子は、人の感情で桜を咲かせ、散らす。
彼本来の性質も合わさり、人の感情を感じ取ることに関しては人一倍長けている。
対象は、学校内で過ごす者。怪談として語られる側も例外ではない。
しかし、感情移入や共感は、時に大きな負担となり、中立ではいられなくなってしまう。
特に負の感情は、重石のように感情を沈め、息を詰まらせ、正常な判断を鈍らせる。
だから、そう言う気持ちにはできるだけ鈍感であろうと努めているけれど。
会話をすることで読み取れるその感情が、それを我慢して笑うその表情が。サカキの優しさが、弱さとそれを隠そうとする強さが。
「僕、こんなじゃサクラさんみたいになんて、まだまだなれませんね」
そう言う笑顔の儚さが。
どうしてか胸に痛くて仕方がなかった。
その胸の痛みは、夢となってサクラの前に現れる。
サクラは校内で何かを探して歩いている。
教室、廊下、図書室……あちこち歩き回って日も暮れた頃、生徒用の宿泊施設の裏でその影を見つける。
教室くらいの広さの空き地。そこにはいつだって白いシロツメクサがたくさん咲いていて。その真ん中に小さな背中が見える。
淡い橙のマフラーを巻いた後ろ姿。サカキだ。
サカキはシロツメクサの花畑で、せっせとなにかを作っている。
「サカキくん」
サクラが声をかけると、サカキはくるりと振り返って「サクラさん」と名前を呼ぶ。
それから恥ずかしそうに、手にしていた何かを傍らに置く。
作りかけのそれは、花輪だ。白くて小さな花が、綺麗に並んでいる。
「ああ。ごめんね、邪魔をして」
サクラがそう言うと、サカキは決まって首を横に振って「邪魔なんてこと、ありませんよ」と言う。
それから、傍らに置いた花輪を手にして笑うのだ。
「こんなにたくさんのシロツメクサを見てたら、作りたくなっちゃって。――これじゃあ、まだまだですね」
サクラはそれに「そんなことないよ」と答える。
その言葉に嘘はない。サクラは一度だって「彼女」を否定したことはない。
けれど。いつも思うことがある。
サカキくんは、本当はこう在ることを願っているんじゃないか?
その作りかけの花輪を見る度に。
それを編む背中を見る度に。
照れたように笑う声を聞く度に。考える。
本当に、彼女は俺の横に居ていいのだろうか?
俺を目標にすることで自分を殺していないだろうか?
無理に「桜の木の下の少年」として振る舞おうとしていないか?
本当はこうして、女の子らしいことをしたくてたまらないのではないか?
いや、そんなの分からない。
夢なんて、己の希望だ。これは、自分の不安の結露だ。
彼女がどう在りたいかなんて、本人にしか分からない。自分が介入するべき事じゃない。
簡単なことだ。分かってる。
なのに。一度でもそう思うと、サクラの思考は止まらない。
だってサクラは知っている。
彼女が桜の木の下で過ごした時間を。
大事に読んでいた本を。
近くの横穴に隠していたものを。
時々泣いていたことも。
その不安は冷たい水のように思考から感覚へと染み込んでくる。
視界が眩む。
足元が覚束なくなって。崩れていく。
浮遊感と落下感で、上下が分からなくて。
目の前が真っ暗になって――。
いつもはそこで目が覚めるのだが。今日は続きがあった。
「おまえ、それでいいのか?」
暗闇の中、頭痛を伴う冷たい春のような声がした。
アイツの声だ。
「目、開けろよ」
いつのまにか目を閉じていたらしい。開けると自分を逆さに覗き込んで笑う、自分によく似た姿があった。
「サカキをこうして夢に閉じ込めて、理想のあいつの背中ばかりを追って。勝手に不安になって自分を見失いかけて。はっ。先輩だなんて言葉が笑うぞ」
「うるさい……」
にやりと歪んだ視線から目を逸らす。
声を振り払おうと耳を塞ぐけれども、頭の中に響く声を遮断できるはずもなく。
「ったくおまえはこれだから」
溜息のような、笑うような呼吸音がした。
「仕方ねえなあ、お前はもうしばらく寝てろ」
それきり声はしなくて。
サクラの意識は叩き落とされるように途切れた。